万年筆を復活させる ~手書きの効用~
1本の万年筆、復活。
試し書きをしてみる。
幼時から綺麗な文字というのを書けた試しはないが、それでもこの万年筆という随分以前に発明された持続可能な道具を使って書いていると、私の不細工な文字でも何となく味というか、ー少なくとも判別可能であるという最低条件をクリアした上でではあるがー、この万年筆という道具によって可能となる字体、字の姿、格好のお陰でだいぶ風情のあるものになっていると言えなくもないのでは……と思われる。
気分を上げる事が出来るという点では、充分価値があると言えるだろう。
思うにまかせないもどかしさ
万年筆を復活させたはいいが、芯ごと湯に漬けて中で固まっていたのであろう古いインクを溶かした為、まだ中にいくらかの水滴が残っているようで、時々それがひと息にぶわ~っと出てしまう。それで紙面上の文字が滲んで無くなってしまう(正確には黒く潰れて読めなくなってしまう)という事態が起きてしまう。
万年筆……。まだまだ油断ならないケアが必要なようだ。
何か書くということで、精神の安定を得る
手で書くということは、意外と大切だ。
たとえ下手くそな字でも、ペンを持ち、文字を綴るという動作をするということが、他には無い身体的刺激を与え、いつもは使わない体の箇所を使わせてくれる。
取りも直さず、何か意味を成すことを書かなければならないとい気負う必要は無い。手は勝手に筆を運び、視線は普段通りの距離の焦点を結ばず、考えは―身体的感覚で言うならば―頭の前の方から後方へ移動し、いつもとは違う、より深い部分から思考が生まれてくる。それはもはや思考というよりは、ひとりでに湧き出る何かだ。そこには生まれ出ることを邪魔する何かひっかかるものは無いし、たとえ目の前で騒音が鳴り響いていたとしても、その流れが損なわれることは無い。
手で書くことで生まれ出ることは、確かにある。
せっかく復活させたのに
――たとえ3000円+消費税を払って自分の好みで選んで買った万年筆でも、何度もインクが出なくなったり逆にインクがこぼれ出たりして、あまりにも使いづらければ、捨てるという選択肢も視野に入ってくる。
けれど故意のサボタージュのようにさえ思えるこの機能的翻弄が、長年放ったらかしにされていたことへの仕返しとかそういうことであるのだとしたら、しばらくの間優先的に貴方を使って機嫌を治してくれるかどうかを見てみようとも思っている。もしかしたら入れたインクのサイズが合っていないだけかもしれないのだし、使うことによって人間のオーラが伝わり物がその機能を取り戻すという話もよく聞く。
万年筆については、まだまだ勉強しなければならないことが多そうだ。
私はまだこの筆記具のことを充分に知らない。
後記: 結局この愛着深い万年筆は、数回の使用に耐えられず留め具のところから故障して廃棄せざるを得なくなった。悲しい結末。
以後は第二世代の万年筆達に代替わりとなった。
(万年筆について、ちょっとググってみた)