【長編小説】 春雷 5
一定間隔で、静かな波が押し寄せている。今日は風が強い。咲子は銀行に記帳に行ったあと、いつものように猿本海岸の展望駐車スペースに車を停めた。
高広山の方角から吹き寄せる風は、浜辺の何もかもをその圧力のなかに包み込んでしまう。この土地の四月下旬の陽射しはもうだいぶ強く、肌に痛いほどになっている。
ときどき脅かすような強い突風が吹いて、大きく車が揺れる。助手席に置いたクッションベッドのなかに控えているアドニスが、ちょっと顔を上げて匂いを嗅ぐような仕草をした。この猫は猫ながら車に乗るのが好きで、姉妹が外出する際にはいつもどこにでもついてくる。
潮は、フロントガラスのスクリーンの左から右へ、強風に撫でさすられるように毛羽立ちながら流れていく。下に魚群がいるかのような、広い範囲の濃い影がうごく。
左前方の砂浜の上で、女の子たちが遊び興じていた。中学生になりたてぐらいだろうか、まだ幼さの残る四人組の少女たちの笑顔は、弾けるように無邪気だ。
何を考え込むことがある、考えるな……と、海に言われているような気がする。
この潮風のにおい。この陽光。愛すべきものがあればそれでいいではないか。
左手を伸ばして、アドニスの顎を撫でる。猫は満足そうに一度だけ瞬きをすると、光線の具合によって黄色に見えたり緑色に見えたりする瞳をきらめかせながら、咲子に流し目を送った。
この美しい生きものがいつも側にいてくれることもまた、愛すべきもののひとつなのだろう。そう思った。
潮は左から右へ流れる。波打ち際に近いところで横ざまにさざ波が立ち、風紋を描いている。
女の子たちは、ずっと砂浜の上で遊んでいる。波打ち際に向かって四人で横一列に並び、一斉にジャンプしたり、上着を脱いで両手で掲げ、旗のように海風にひらめかせたり、時折皆でしゃがんで輪を作り、身を寄せて楽しそうに何か話し合っている。
咲子はそれを長いあいだ、じっと見ていた。
ダイナミックな魚群の群れは、波打ち際を漂ったあと、今度は沖のほうに向かっていった。
――雨を待ちわびていた。
六月に入っても晴天の日が続き、梅雨入りはいつになるやらと浦の人々は気にかけ始めていた。
真咲も雨を待っていた。今年はこれまでに感じたことがないくらい、心も身体も乾いているような気がした。これまで経験したことがないほど喉が渇き、体じゅうに熱がこもったような不快な感じがする。
けれど同時に真咲は、以前は雨が降るときいつも感じていた重苦しさを感じなくなっている自分に気がついた。いつ、何が変わってしまったのだろうか。真咲の生涯を通じて常に彼女を苦しめてきた頭と心の重苦しさ。それは梅雨どき、必ず重度の憂鬱感を伴って彼女を苛んだものだったのに。
いったい、いつから男と接触していないだろう――。
突然、こんな言葉が浮かんできた。それは無意識に、思考の底からいきなり湧いたと言ってもいいような、思いもかけない言葉だった。まるで雨が降らないことと、男日照りといういささか低俗な言葉とが臓腑のなかのモヤモヤした薄暗がりで結びついて、ぽんと飛び出たもののように思われた。真咲は困惑しながら、その言葉を繰り返し、意識のクリアな表面に上らせていった。
いったい、いつから男と接していないのだろう。
それがいつからなのか明確にするのには、大して思い悩む必要もなかった。それは真咲のカナダ滞在の最後に、突然のラブロマンスに始まり、破局的な結末を迎えて終わったのだったから。
真咲は長いあいだ、カナダ東部で生活していた。
モントリオールという、古い港のある、高緯度の街。観光業が盛んで、世界じゅうから集まった多種多様な人々が住んでいた。
真咲はその街で、賞味八年間暮らした。夫として連れ添った人とは、もうとうに心が通わなくなっていた。彼は日本語を話すこともできて、優しい性格の持ち主だった。定職には着いていなかったものの、実家が裕福であったため、生活に不自由するということはなかった。
何がいけなかったのだろう。
困惑した瞳のまま、真咲は考える。あるときから、真咲は彼との暮らしを続けていくことができなくなっていった。何が不満だったのか、どうしてそうなってしまったのか、考えても考えてもわからなかった。
世の中に百組の夫婦があるとすれば、百通りの夫婦のあり方があるように、真咲の結婚もまた、ひと組の夫婦の経験する独自のものだった。相手がカナダ人であることからして特殊だったと言えるかもしれないが、決して世渡り円滑なタイプではない真咲が遠い外国で長い年月のあいだ紆余曲折を経るうちに、とうとう夫婦というものがわからなくなった。
それは外国で暮らすということからのストレスだったのか、言葉や考え方のまるで違う、文字どおり多種多様な民族と背景を持つ人々の雑多な群れが形成する社会に、溶け込むことができなかった心の限界の表れだったのか。意固地な性格の真咲は見知らぬものに対する好奇心が旺盛ではあったけれど、自分のなかに潜む何かひどく厄介で頑なな〝核〟のようなものが、すべてを邪魔しているのに気づいていないわけではなかった。
つまりは全部、自分のせい。
わかっているだけに、その敗北感を素直に受け止めることができないでいた。
そしてそんなときに出会ったのである。その男に。
真咲は、モントリオール市内の中心地に住む、友人の日本人女性のアパートに身を寄せていた。夫との仲が修復不能になり、逡巡した挙句、ついに家を出てから一週間が経っていた。
午後、真咲は近くのキオスクに入った。キオスクは日本で言うコンビニのようなものだ。地元の企業が本社であるそのローカル・チェーン店の看板には、クシュ・タールという名を象徴するフクロウのキャラクターが描かれている。真咲の入った店は、まるで個人経営の雑貨屋のように狭く、品物もそう多くは置いていなかった。床は古ぼけて黒ずんだコンクリートの打ちっぱなしで、入口の右側に飲み物を置く冷蔵ストックがあり、その反対側に菓子類や日用雑貨などを並べた棚があった。
薄暗い店舗の奥に、対面になった取引台があり、若い男の店員がひとりで店番をしていた。
彼は一見して何人かわからない、ちょっと不思議な容貌をしていた。真咲が店に入ったときには右側にあるコンピューターのスクリーンを覗き込むように、背中を丸めながら操作していた。
まだ若く、真咲よりは十以上も年下のようだったが、明らかに、それまでの真咲の人生に登場したことのないタイプの男だった。死んだ魚のようにどろりと生気のない目をしていて、ごく小さな声で、呟くように、人を見下したような話し方をした。
「May I help you?」
〝何の用だ〟、と言われたような気がした。真咲がアジア人だというのを見て、わざわざ英語を使ったようだが、おそらく通常の客ならケベック州の公用語であるフランス語で応対するのだろう。態度には微かに差別的な匂いがした。
「あー……。格安の国際電話カードが欲しいんですが」
真咲はできる限り丁寧に言った。感じよく見られるために、笑顔を作るのも忘れなかった。そうでないとしたら、この男の侮蔑的な態度は益々エスカレートしそうな気がしたからだ。
女、丁寧、そして笑顔。全世界に広く通用する三段階の安全条件を感知して、ようやく不機嫌を引っ込めることにしたかのように、男の態度は少しやわらいだ。近くでよく見ると、なかなか綺麗な顔をしている。細長い面ざしに、大きな瞳。一点を見据えてあまり動かないその瞳は、緑色がかっていた。肌の色は白かったが、それでもどこの国の人間か、まだわからなかった。それは確かに、真咲が数々の経験のなかで蓄えているデータにはない種類の人間だった。
モントリオールに来て、これまでに白人、黒人、黄色人種、ラテンアメリカ系などさまざまなパターンの人間を見てきた真咲だった。いまでは白人でもアメリカ人とカナダ人の違いがわかるし、フランスから来た人も、物腰や話し方を見ることができればわかる。中国人と韓国人の見分けは簡単にできる。南米系の人たちは、どの国の出身かと言われれば答えに窮するものの、大まかなグループ分けをするとすれば、もっとも判断しやすい人種だった。
けれどいま、目の前にいる男は、どのカテゴリーにも属さない人間だった。そしてそのことが、未知なるものに強く惹かれるという真咲の性質を刺激し、彼に惹かれる最初のきっかけとなった。
それからも二、三度真咲はそのキオスクに行った。一度目は、友人からワインを買ってきてほしいと頼まれて。そのときも彼は取引台の向こうにいて、今度は僅かに真咲に微笑んだ。二度目、真咲は用事もないのに店に行ってスナックを買った。世間話をして、そのときに彼が北アフリカのチュニジア出身であることを知った。
三度目に尋ねたとき、お互いにメールアドレスを交換した。以来、毎晩のようにメールやチャットで交流するようになった。
二人でアパートを借りようということになって、その旨を友人に伝え、地下鉄の北の終点であるオノレ・ボーグラン駅の近くに部屋を借りたのは、それから間もなくだった。当時真咲は貯金を切り崩しての生活だったし、男もキオスクの仕事では雀の涙ほどの収入しかなかったので、これからのことはゆっくり考えるとして、ひとまずひと月の契約で部屋を借りた。
これらのすべての期間において、真咲は常に一定のスリルのなかにいた。何しろ男は真咲にとって、知らないことだらけの未知の存在だった。
けれど、ある種の嫌な予感がしていなかったというわけではない。
そのころの真咲は、チュニジアという国について何も知らなかった。彼らがイスラム教徒であることも知らなかったし、イスラムについての知識も何も持ちあわせていなかった。ただ、〝知らない〟という事実だけが好奇心を刺激することによって、男が発する真咲への磁力となっていた。
予感が示していたとおり、そのあとはいい展開にはならなかった。
男と真咲は喧嘩を繰り返し、部屋を出ていった男はひと晩じゅう帰らなかった。そして戻ってくるやいなや、「頭痛がする」「熱っぽい」などと言いながら、ベッドに横になった。
野良猫みたいに夜中にウロつくから風邪をひくのよ、と真咲は毛布をかけてやりながら忌々しげに言った。
ある晩は、真咲が帰らなかった。彼女は夜十時ごろ、突然バッグと上着を引っつかみ、大急ぎでアパートを出ていった。彼女は友人のアパートの戸を叩き、泊めてもらった。次の日の午後になるまで、彼女は戻らなかった。
男はマリファナを吸い、その愛情表現は異様だった。たまたま波風が立たず、二人の仲が比較的いいときは、彼は必ずと言っていいほど真咲を腕のなかに抱え込み、その頬を吸った。口づけという愛情表現にはほど遠いそれは、朝念入りに塗った真咲の化粧を取り去ってしまった。「あなたは私のファンデーションを食べているのよ」と言いながら、一方的に、乱暴な吸盤のように吸い付いてくるそれに、真咲は辟易したものだった。
男はそれなりに、野心のようなものも持っているようだった。彼はこの国に移民することを切望しており、すでに申請も出していた。先に移民に成功していた兄がいたが、その兄も、結婚生活に失敗し、同じ国出身の妻と離婚調停をしている真っ最中だということだった。
商売や貿易に興味を持っていたらしい男は、この国と自分の国とのあいだで何かできないかと考えていた。物欲が強く、金持ちになることを望んでいるようだった。
もちろん、現状を見る限り、彼はまったく成功していなかった。そのせいで毎日ひどくイラついていて怒りっぽく、立て続けにマリファナを吸わなければいっときもいられないほどだった。一度などは、四月下旬だというのに大雪が降った朝、その自然現象にさえも「ちくしょう!」と癇癪を起こした。
彼と真咲の仲は、同居の最初から険悪だった。それは緩解するするどころか、そのあいだに行われた小さな口論や相手を突き刺すような冷たい態度の応酬のせいで、益々エスカレートしていった。
なぜあのとき踵を返して日本に帰らなかったのだろう?
真咲はいまでも不思議に思う。でも、答えは自分でわかっているような気もする。それでも何人かの近い友人には相談したのだ。そんな風に過ごしている日々に堪らなくなって、カナダやアメリカに住む友人たちにチャットでアドバイスを求めた。
ある友人は言った、もし自分なら彼との生活を返上してとっくに日本に帰っている、と。それはもっともな正論で、理屈ではよく理解できたし、実際真咲もそうしたかった。
でもなぜ、友人の言うとおりにしなかったのだろう?
――真咲はいま、自分はこの男に惚れていたのではないだろうかと思う。あれから長い年月が過ぎて、膨大な時間のなかで混乱した思考の奔流はピークを過ぎた。そして緩やかに流れる制御可能な小川のようになった思考に沿って彼のことを考えるとき(真咲にとってこの男のことを考えるのを止めることは不可能だったから)、結局のところ、自分はこの男に心を奪われてしまっていたのだと思う。
いまとなっては、陰惨を極めた経験の記憶は薄れて断片的にしか思い出せないものの、いい思い出の幾つかは拾い上げることができる。〝KOLFU〟というギリシャ風の名前の(それがエーゲ海に浮かぶ島の名前であることを、日本に帰ってきてから知った)シーフードレストランに一緒に行って、二人で食事をしたこと、真咲がスーパーで買ってきたサーモンを料理したとき、ほんの少しの量だったにも関わらず、彼がいたく感激して美味しい美味しいと言って食べたこと、二人並んで外を歩くときには、必ず手を繋いでくれたこと……。物語のクライマックスのように、共同生活の最後のほうで、彼が自国で繰り広げたというちょっとした犯罪がらみの冒険談を披露してくれたのは、その内容の如何にせよ、楽しかった。
けれど、楽しく思い出せば思い出すほど、その思い出は切なく、そして虚しいのだった。
死んだ人のことを想うようなものだ。
そう心のなかで言うと、真咲は思い出を追う思考をぷつんと切った。
――その経験以来、真咲は男と関わるのを止めた。その男だけではない。恋人を探そうとも思わなかったし、恋愛映画も敬遠するようになった。何かが自分のなかで枯れ果てたような気がした。もう、男性と接することに、興味を感じない自分を見出した。あるいは男というものを扱うことについての自分の能力に対して芽生えた懐疑性が、心に根を張ってしまったのかもしれなかった。
いずれにせよ、男というものを〝厄介者〟としてしか見られなくなったそれからの日々は、返って楽だった。何にも煩わされず、真咲はこの数年間を生きてきた。
――でも、どうだろう。
空梅雨への懸念から〝男日照り〟という言葉が想起されるほどに、真咲のなかで変化が起きようとしていた。そしてそれを確信づけるかのように、体じゅうのこの異常な渇きのことが心配になった。この感じに真咲は驚き、戸惑っていた。
水けが欲しい。少なくとも、潤いのようなものが欲しい。
梅雨空の遠い、晴天の陽射しから目を背けるように、真咲は目を閉じる。
いまでは焦燥すら覚えるほどに、灰色の空が恋しい。甘い匂いを含んだ湿気が大気に充満して、その限界を超えついにひと粒の水滴が天の号泣の先触れのように地面に落ちるのを見る瞬間を、いまかいまかと待ち焦がれる。
雨は恵みだ、と真咲は思う。乾いてヒビの入った大地に一滴の雨粒が落ち、そのあとを追う無数の同じ形をした同胞たちが、見る見る地面に染み込んでいく。それらは乾いて凝り固まった土を柔らかくなるまで潤して、再び生き物が生きられるための力を目覚めさせる……。
そんな光景が真咲の瞼の裏に浮かんだ。
六月の最後の週――といってもその週は二日しかないわけだったが――、月曜日のその日は朝からどんよりと曇ってすっきりしない天気だった。
空梅雨とは言えないが、例年に比べ雨の日数が少ないような気がしていたところ、この日の午後三時ごろから本格的な雨が降るという予報が出た。それを見た真咲は、いつ降り出すのかと船着き場で待ち受けた。
午後を過ぎると、南から湿った重たい風が吹き寄せて、その風が湾内にここしばらく見ることのなかったさざ波を立て始めた。先ほどからトプ、トプ、コッ、コッ、といった音や、まあまあ重量のある石を水に投げ込んだときのようなポチャン、といった音がして、湾内がやけに騒々しいのが気になっていた真咲だったが、それらの音がそのさざ波のせいで起こるのだと気づくのに、しばらく時間がかかった。波に揺られて船が上下するので、はね上がってから下に落ちるときにトプ、トプ、ポチャンと音がするのだし、隣接する船同士が互いに軽くぶつかり合う音が、先ほどからコッ、コッ、という音を立てているのだ。
曇り空に、不穏な空気を運んでくるような涼しくも湿っぽい風が吹き始め、いまかいまかと待ち構える真咲をまだ少し焦らすのだった。
「早く降れ!」
思わずイラついた声が出てしまう。恨みがましく天を見上げるその眼は濁っていた。
空が暗くなり、湾全体の景色が鬱屈とした灰色に落ち込んできた。そうすると、僅かなさざ波に揺られていた水面全体に、まるで一斉に何かが生え出たように、短い水柱が立った。それらは生まれたての無数の雨粒が、目に捉えられないくらい微少な姿で空中を落下してきて海面を穿つときに水が跳ね返るために、そんな風に見えるのだった。
そのとき初めてざあーっという派手な降水音が加わり、その光景はまるで、この湾を舞台に等間隔で並んだ無数のダンサーが躍る、華麗なショーのようだった。
生え出てから最初の数秒は萌芽のように短かった水柱は、雨が本格的になるにつれてぐんぐん背を伸ばしていった。そうしてやがて天から降り落ちる水の源と繋がり、ようやく本物の雨の様相を呈した。
真咲はその光景を見て、ああ、とひとつ溜息をついた。