【短編小説】微かな恐怖 秋の空とせせこましい部屋、ティーカップに潜む何か
あんなに暑い日が続いていたのに、ある雨の日を境に、夏はどこかへ去ってしまった。
雨がやむと、途端に冷涼な風が街を包んだ。
夏の陽射しと熱気にうだっていた人々を突然我に返らせるようなその風は、大陸の遥か彼方で生まれ、狭い海峡を渡ってやって来ては、夏の間じゅう街に澱み続けていた湿った空気を遠くの海へ押し返した。
秋の風は、いつも私に、ある特別な感情を湧き上がらせる。その年の一番始めの秋の風を受けるとき、私は心が縦向きにシャキンと起き上がるような勇ましい感じと、微かな寂しさと不安が混ざり合った、奇妙な感覚を覚える。それは心の隙間にするりと入ってきて、内側からざわざわと小さな波を立て、それから私は青く高い空と同じような、とても綺麗な気持ちになる。成層圏で清められたコバルト・ブルーの水で、心のひだの隅々まで洗い流されていく、といった感じだ。すべてのものの輪郭がくっきりとし、一年じゅうで一番ものごとがよく見えるような気がしてくる。街全体が、透明な深い水底に沈んだ古代の遺跡のように、清らかで冷涼な空気に支配されている――。
それが、毎年私にとっての、秋という季節への入口だった。
その年も、秋は私を不可思議な気分へと誘い、橋上保はそれを訝しがった。
その年とは、確か……1993年だった。
某月某日。正確には思い出せないが、10月の初旬だったことは覚えている。
私たちは、何か甘いお菓子のようなものを食べながら、トワイニングの紅茶を飲んでいた。FMの午後のニュースが、田中角栄の死去を知らせていた。私たちは二人でいるとき、テレビは見なかった。橋上保は私の部屋に来るときはいつも、ラジオのFMを聴きたがった。
私たちは、そのニュースを聴きながら、黙って紅茶を飲み続けていた。私はソファに座り、橋上保は敷きっ放しの布団の上に寝転がっていた。
「ねえ、何でそんなに落ち込んでるわけ?」
橋上保が言った。
「え? 別に、落ち込んでなんかないわよ」
私は答えた。自分はまったくそんなつもりはなかったのに、いきなりそんなことを言われて、内心驚いてしまっていた。――私は落ち込んでいるように見えたのかしら――?
そして同時に、今彼は田中角栄氏の死のこととは全然関係の無い別の話を私に向かって始めたのだということが、不意に私を不安にさせた。
彼が今のニュースを聞いていなかったというわけではない。しかし、彼にとっては、この歴史的な政治家の死は、話題に上るほどの大きな意味を成さなかったのだ。
私は、私たちの父、母の青春時代である日本の高度経済成長期のリーダーであったこの人物の死は、もう少し厳粛に悼まれるべきものだと思っていた。私は、彼のひと言が無かったならば、この政治家の死について、何か今の気持ちを表明するようなことを言うつもりだった。しかし、彼のそのひと言で、話はまったく別の方向性を持ってしまったのだった。
勿論、それは彼の耳に入りはしたのだが、脳細胞でいったん認識されるとすぐに反対側の耳の穴から抜け出していってしまったか、彼の脳細胞の記憶を司る部分のどこかにあるブラックホールに吸い込まれでもしたのだろう。彼は実際にこのブラックホールを持っていた。私が彼に確かに伝えたと思ったことや、私と彼が共有することができたと信じていたものは、実にしばしばこのブラック・ホールに投げ込まれた。
別に私は、彼のことを悪く言おうとしているのではない。誤解の無いように言っておくが、彼はあらゆる点において、明らかに私より優秀だった。少なくとも私より人を見る目を持っていたし、いつも冷静で公平な判断をする方法を体得していた。そして、筋道立てて素早くものごとを分析し、明確な結論を出すことができた。
だから、角栄の死が口にも上らない小さな出来事であると彼が判断したのであれば、それは最もな結論であるのかもしれない、とさえ私は思うほどになっていた。そこで、その場は彼の無関心さに従うことにし、素直に彼の質問に答えたというわけだ。
「別に、落ち込んでなんかないわよ」
私がそう言うと、橋上保は不満そうな顔をして、
「だって、何だかものすごくブルー入ってるように見えるよ。何? 何かあったの? それとも生理?」
「違う。バカ」
私は彼を横目で睨んだ。優秀であるはずの彼は、ときにものすごくデリカシーに欠ける。
「……多分、秋の空のせいよね。空が青くて高くて、綺麗だと思わない? それと……風が冷たいから。あんなに毎日暑かったのに、突然こんな涼しくて乾いた風が吹き始めたら、何て言うか……。そう、心が空っぽになるような感じがしない? 秋が来ると、私、いつも少し、ザワザワするような、不安なような、変な気持ちになるのよ」
今では彼は、紅茶を飲み終えて煙草を吸っていた。出会ったころから一度も変えたことがない、ショートホープ。煙を少し吐き出す。
「……ふーん……」
わかったのか、わからなかったのか、よくはっきりしない返事だった。多分、自分の関心の無い事柄について一生懸命説明されたときに、気持ちとしては賛成してあげたいのだが、どうしても自分の中ではピンと来ない、という、あの状況にあったのだと思う。
私のほうも、自分の気持ちをうまく伝えられたとは思わなかったが、ひとつだけはっきりとわかったのは、今回もまた、彼との意志の疎通に失敗したということだった。
私は意気消沈して、これ以上話し続けることができなくなる。
彼も、それ以上何を言っていいかわからない、といった格好で、幾分手持無沙汰のようにさえ見える。
そんな彼の様子を見て、私はますます落胆し、変な空気が、二人の間を流れ始める。
私は少しイラ立って、橋上保の横顔を見た。彼は私に対してはすに構えて、特にどこに目をむけているというでもなく、相変わらずショートホープをふかし続けている。
思えば、これまでにもこういうことは何度もあった。そしてそのたびに、私たちは黙り込んだ。
そして、今度も、また……。秋の空と風についての私の話。彼には、何ひとつ共有すべき意見は無いのだった。
ふと、部屋全体を眺めてみる。私のワンルーム。二人の人間が居るには、あまりにも狭いように思われた。ひとつひとつの家具や雑貨が、ひどくバランス悪く目に映る。色も、配置も、始めから何もかも間違っていたように思える。
そして、その中心に、橋上保が煙草を吸っている。私の部屋の不協和音が頂点に達し、せせこましい箱庭の中のウサギのように、私は泣き出したいような気持ちになる。
――私は、飲みかけの紅茶のカップをテーブルに置く。どうしようもない気まずい沈黙が、辺りを包む。
沈黙が質量を持って我々にのしかかって来て、その重さが最大限に達したとき、橋上保が堰を切ったように、少しイラ立ち気味の声で言う。
「飯食いに行こうか」
「うん……」
再び流れ始めた空気に、慌てて私もついていこうとする。何かここで言わなければならないのに、何とかしなければならないのに、と、心の中で自分を責めながら、それでも、急いで出かける支度をする。
橋上保の後に続いて玄関のほうに向かいながら、ふと部屋を振り返る。テーブルの上には、二つのティーカップが残されている。彼の飲んだのは空で、私のには三分の一くらい紅茶が残っている。
私たちが部屋を出れば、このティーカップたちはこのままここに残る。私の紅茶はゆっくりと冷めてゆき、今夜私がひとりでこの部屋に戻るころには、すっかり冷たくなってしまっているのだろう。そして、カップには洗っても落ちない紅茶色のしみが残るのだろう。
誰もいない部屋の中で、私の想念が紅茶とともに冷めてゆき、そして、しみとともにカップに貼りついて、取れなくなるような気がした。後で漂白剤によってそのしみが取り除かれたとしても、その想念だけは残り、私のティーカップに潜み続けるのだ。そしてそれは、いつか何かの形で、表に現れ出てくるだろう。
ドアを開けて外に出、鍵をかける間、私はそんなことを考えていた。