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【長編小説】 春雷 9
午後七時。台所のシンクで夕飯の皿を洗っていると、湾からイカ釣り船が出ていくのが見える。顔を上げると、網戸越しの窓から、潮の匂いを含んだ風が流れ込んでくる。咲子はそれを肺一杯に吸い込んだ。
まだ暮れなずむ湾を、1ダースほどの電飾をつけた小さな船が、蹴立てるような高速のエンジン音をトトトトト、トトトトト、と湾いっぱいに響かせて、ゆっくりと前進していく。その姿とエンジン音のリズムは、「これから出ていくぞ」「これから出ていくぞ」と、おのが存在を辺り一帯に知らしめようとしているかのようだ。
豊漁を祈る。名も知らぬ漁師の船の背中を見送りながら、咲子は心のなかで呟いた。
さざ波ひとつ立たぬ湾は、いままさに暮れようとしていた。真咲はアドニスを抱いて、夕刻の散歩に出ていた。この猫が家で暮らすようになってから、いつからか定着した習慣だった。外を自由に歩かせない代わりに、毎日真咲と咲子とが交代で抱いて歩いてやるのである。猫自身もそれがすっかり習慣づいているようで、特に不満を唱えるわけでもなく、満足したように輿の上から下々を睥睨する皇帝の風情を気取っている。
いつものコースをゆっくりと回って、船着き場で外猫に餌をやるおばさんに挨拶をして、家のほうに戻ろうと、くるりと向き直ったときだった。
世界が、一面のブルーに変わっていた。
太陽が山の向こうに没してから、何分経ったのだろう。まだそんなに間はないはずだ。けれど宵の闇が寄せるにはまだ早すぎる段階の、緻密な変化を経ていく無数の色のうちのひとつに違いない、けれどいままでに一度も見たことのない非現実的な色彩が、そのとき湾を覆っていた。それは限りなく濃い水色とでも言えばいいのだろうか、けれど深みと奥行きのある、もはや水色の原色とさえ言えそうな色だった。
それは刹那のあいだに、真咲の心を清々しくした。一色に染まった空は、その色を静まり返った湾に写し、湾は冷たい鏡のように空の色を照り返して、金属的な輝きに静止していた。
真咲はこの光景を、もはや自分が現実にいる世界のものとは思えなかった。湾はその強力な魔力でいま自分を幻惑し、二度と出ていくことのできないようにこの足を地面に貼りつけているのではなかろうか……そんな気さえした。
アドニスは腕のなかで何かに気を取られたかのように身を固くしている。少し首を乗り出し気味にしているのは、おばさんが餌をやるほかの猫たちの存在が気になっているからだろうか。それとも彼も、この異様に美しい夕刻の夢幻の色合いに、心を奪われているのだろうか。
ふたりはしばらくのあいだ、そうやって道の上に佇んでいた。
十月になっても、一日も秋らしい日がなく過ぎていたなかで、ようやく本格的な涼を運んできてくれそうな雨が降った。
天からのシャワーを浴びているようだ、と真咲は思った。
若いころ、二十代のときは雨が降ると頭が塞がったように感じ、憂鬱そのものでしかなかったのに、このごろは雨が降ると妙に気持ちがいい。もっと降れ、どんどん降れと歓迎する気持ちになる。
秋の雨は、色んな煩いや憂い、人生のすべての心配事を洗い流してくれるような気がする。天からの水が、炎天下にたまったさまざまな澱を一掃したあと、真咲が一番好きな季節である秋が訪れようとしていた。
母の幼馴染みであるフミちゃんが朝、大量の鯵をくれた。旬の時期は外れているが、浦で獲れる新鮮な鯵は季節を問わず美味しい。
フミちゃんは浦で干物屋を営む、言わば女社長である。店では、味がいいと評判の天日干しの干物とすり身を売っている。母は毎年、中元と歳暮の時期になるとここから色々なところに魚を送るのを習慣としていた。
そのお礼というか、太っ腹なことに、フミちゃんはときどき魚を大量にプレゼントしてくれる。
その朝も、裏のほうでプーップーッと車のクラクションの音がするので何ごとかと思って出ていってみると、長靴を履いた仕事着姿のフミちゃんがニコニコと笑いながら、「一番大きな容れものを持ってきよ」と話しかけた。漁協に仕入れに行った帰りなのだ。
その日ちょうど早番に当たっていた真咲は、慌てて取って返すと、台所にある一番大きなボウルを持って再び外に出た。
フミちゃんは、軽トラの荷台いっぱいに、何十匹という魚を満載していて、そのほとんどを占めている鯵を、真咲から受け取ったボウルのなかに次々と放り込んでいく。目の前で空を切る、今朝獲れ立ての透き通った目をした鯵の数を数えていると、十、二十、三十……。
まぁた! さばくのが大変だ!
嬉しいやら萎えるやら、心のなかで複雑な心持ちの悲鳴を上げながら、真咲はその宝石のようにきらきら光る魚の山を見下ろしていた。
――ありがとうございました――最敬礼で頭を下げると、フミちゃんは「お母さんによろしくな」と言って、軽トラを自転車のように軽々と操って、ブーンと店のほうに帰っていった。
さて、嬉しいけれど、ここからは戦争になる。先ほど最敬礼でフミちゃんを見送ったのも、実を言うとその先触れなのだ。
朝の光をピカピカ照り返している鯵で一杯のボウルを持って、台所に入る。数の勘定をする気も起こらないほど大量にあるそれを、ひとつひとつ冷水の下で、さばいていく。
――〝さばく〟と言っても、とりあえずの下ごしらえである。これらの鯵は、無論今日の夕食になるが、それでもまだ大量に余ることは想定されている。最前の母の言いつけで、フミちゃんから鯵をもらったら、何より先に腸を取って、鮮度が落ちないように処理をすることになっていた。新鮮な魚は内臓から腐っていくから、内臓さえ取っておけば、長く冷凍保存も可能になるのだと母は言った。
真咲は丁寧に、ひとつずつ、その小さな鯵の腸をシンクのなかで洗い落としていった。包丁は使わず、親指の先で魚の顎の下を破り、人差し指を入れて内臓を引っ掻き出す。
こういう作業を、咲子はしたがらなかった。魚を触ることはおろか、生ものを扱う仕事をあまり好きではなかった。なので咲子が早番の日にフミちゃんから鯵をもらうと、その鯵はあとになって真咲が取りかかるまで、冷蔵庫に一時保管されることになる。
一方真咲は、肉だろうが魚だろうが生のものを扱うのに一切抵抗がなかった。活きていて活発に動くものには恐怖を覚えることもあるが、とりもなおさず死んでいて、触っているあいだに跳ねたりピクついたりする心配のないものであれば問題なく扱えた。そんな自分を、内心勇敢だと誇らしく思っている節もあるくらいだった。
そういうわけで、必然、鯵をもらえば真咲が処理をする任に就くことになる。
鯵は真咲の手によって、次々にさばかれていった。
その日の夕食には、真咲によって調理された鯵の刺身、咲子がこしらえた丸ごとの鯵で出汁を取ってタマネギと味噌を入れた無塩汁、そして真咲と咲子が一生懸命小骨を取って揚げた鯵のフライが食卓に並んだ。浦でしかありつけない、豪華な朝獲れの鯵づくしの宴である。
調理の労苦も吹っ飛んでしまうくらい、新鮮な鯵は美味しい。母は喜んで無塩汁をすすり、真咲は自分が手開きで作った刺身にショウガ醤油で舌鼓を打った。咲子が鯵のフライに噛みつくと、ザクッという大きな音が立った。
こうして浦で獲れた新鮮な魚を堪能できるのも、ここで暮らしていればこそなのだ――。
ふとしみじみと、真咲は思った。そしてそれを口にして言った。母も咲子も、そうやな、と大きくうなづいて同意した。
すると真咲は改めて、これまで考えたこともないようなことを考えた。こうして母子三人で同じ喜びを分かち合って食卓を囲んでいられるというのは、永遠に続くことではないのだ。このときを貴重なものとして、しっかりと記憶に刻むべきなのかもしれない、と。
フライの身を噛みながら、今度は口に出さず、心のなかで真咲は呟いた。
――お母さん、「いつまでも元気で長生きしてください」とは言いません。けれど、――咲子と一緒に、美味しい鯵を三人で食べた今日の日のことを、いつか懐かしく思い出すときが来るでしょう。
いえ、きっと思い出すことにします。必ず。約束します。