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【長編小説】 初夏の追想 18

 ……古い昔の記憶の断片を掘り起こし、繋ぎ合わせてひとつの物語にするという行為は、実に頼りなく、愚かしい作業のように思われる。最初私はずいぶんと意気込んでこの物語を語り始めたものだったが、書き進めていくうちに、段々と自分の記憶の取りとめのなさや、あんなに強烈に心に焼き付いていると思っていた出来事の数々を、三十年の歳月がいかに無残に削り取っているかという現実に気づくようになった。特にこれから語ろうとしている物事は、私の頭の中でバラバラに分散し、それぞれの繋がりを明確にすることができない。そしていまやもう、ひとつひとつの出来事を順を追って描き出して見せるのは困難になってしまっている。長い歳月のあいだに私の空想や思い込みによって歪曲されてしまったかもしれない事柄は、もはや正確な事実を語る物語として描かれることは不可能となった。
 いま、私は人間の記憶というもののいかに頼りないものかということにいささか失望している。
 ……だが、こんなことになっても私はこの物語を書くことを、ここで止めるわけにはいかない。何度もくじけそうになりながら、ようやくここまで来たのだ。そして、物語はいま、佳境を迎えようとしている。もうすぐだ……。もうすぐ、ここに着いてからこれまで私が努力を重ね、探し求めてきたものが見つかるかもしれない。この物語を語り終えたとき、私は何かが見つかるはずだと思っている。もちろんその考えには何の根拠もないし、学科試験のように誰かが修了印を押してくれるというたぐいのものでもない。これはただ単に、私個人の問題に過ぎない。私が独りで経験し、独りで見出さなければならない答えなのだ。終着点に、それはあるかもしれないし、またあえなくそこには何もないのかもしれない。正直に言って、そこに辿り着くのが私は怖い。何が見えてくるのか、どうなってしまうのか、皆目見当がつかないからだ。――だが……。進まなければならない。もう私にはこの道しか残されていないのだから。そして、遅かれ早かれ、いずれは乗り越えなければならないことだったのだ。それを私は怖れたり、怠惰に取り憑かれたりして三十年も延ばし延ばしにしてきただけだったのだ。
 ――さあ、堂々巡りはここまでだ。そろそろ本題に立ち戻ろう。そして、ここからは、逃げることなく、勇気を持って結果に立ち向かおう。いまこそ、私の中に巣食う極端に臆病な心と、恐ろしい怠慢の癖に、終止符を打つときだ。
 
 
 
 ――その日の天気がどうだったのか、どういう空気がこの山中の森に立ち籠めていたのか、私は一切覚えていない。ほかの日のことは、光の色から空気の密度に至るまで、あんなに鮮明に思い出せるというのに、その日のことを思い出そうとすると、まるで拒絶するかのように、うっすらと霧のようなヴェールがかかって、私とあの日の記憶とをあやふやに隔ててしまうのだ。
 とにかく、私の記憶が呼び出せるその日の出来事は、守弥が私の先に立って、母親の寝室の戸を叩いている後ろ姿に始まる。彼の細い黒髪が心もとなげにうなじにかかっていた、その印象のほかは、まるで突然ポカンと穴が空いたように、記憶が欠落してしまっている。
 その後我々が目にした光景は、とうてい信じられぬものであった。
 その場の瑣末さまつなことはまったく思い出せないのだが、そこに誰が居て、どのようなことが行われていたかだけは、説明することができる。
 部屋の中には、犬塚夫人がいた。そして、もうひとり……。我々の知らない男だった。連日訪ねて来ていた様々な客たちのうちのひとりだったかもしれない。それとも、彼女がもう長いこと知っていて、密かに呼び寄せた男だったか……。
 我々がなぜ彼らの所行を見るに至ったのかは、いつわりなく言うならば、私には何も思い出せないというほかはない。ただの偶然だったのか、あるいは何か不自然な物音や気配を察知した守弥の意を決した行動の結果だったのか、いまとなっては推測するほかはない。この物語の中で、この出来事に関してだけ、こんなにもあやふやな方法でしか描くことができないのは歯がゆいのだが、どうして三十年の空白は、まるで私にその部分だけを敢えて避けるように求めてくるかのようなのだ。
 しかし、記憶の雲の切れ切れに垣間見える断片的な風景を、ジグソー・パズルのように繋ぎ合わせていくと、彼らがベッドの中で見出され、薄暗い部屋の中は、恋人同士の関係によってのみ醸し出される、あの濃密な空気に満たされていたということが明らかになってくる。そして、私と守弥はその光景を目の当たりにしたのだった。
 その直後に起こったことは、もはや記憶の前に立ちはだかる霧の彼方である。この出来事に関する私の記憶には、完全に空白の一ページがある。恥ずかしながら、この出来事の与えた衝撃のあまりの大きさ、そしてそれによって、私が桃源郷と思い込んでいたあの静かな生活が、一瞬にして引き裂かれ、散り散りに消え去ってしまったという事実があまりにも強烈過ぎて、私はそれを容易に受け入れることができず、それによって記憶の欠落ということが起こってしまったとしか思えないのだ。確かにあのとき、私は度を失っていた。
 そして……。あの状況で、唯一正気を保って、現実的な問題に果敢に立ち向かっていったのは、いったい誰だっただろうか? ……記憶の糸を辿っていくと、あのあとの数時間の別荘での騒ぎの様子が思い出されてくる。守弥のヒステリックな叫び声、それを一生懸命なだめている柿本の、やはり正気を失った声……。私たちの誰も知らないその若い男は慌てて別荘を飛び出し、車を駆ってどこかへ逃げてしまった。当の犬塚夫人は、居間に坐り込み、両手で額を覆って一点を見つめながら、ただ嵐の通り過ぎるのを待っていた。
 そして……。その喧噪の中で、ただひとり、冷静さを失わずに、ことに当たっていた人物がいた。それは、芸術からはかけ離れたところに自らの目的意識を持つため、犬塚夫人のサロンにもほとんど顔を出さず、いつもはその存在すら忘れられていた、あの守弥の兄、裕人ひろとであった。私自身も、食事のとき以外彼とはほとんど口をきいたことがなく、彼が屋敷の中に自分用にしつらえた書斎の一室に閉じ籠って何をしているのかさえろくに知らないほどだった。
 だが、この窮地を前にして、事態の収拾に乗り出したのは、ほかでもない彼であった。裕人は状況を見て取ると、まるでレスキューさながらに風のような素早さで駆けつけ、客間にいた幾人かの客人をそれと知られないように慇懃な態度で返した。そして守弥を寝室に連れて行き、薬を与えて寝かしつけた。そして、柿本と犬塚夫人を呼ぶと、一室に籠って三人で何か話し合っているようだった。彼らは、そう、小一時間も話していただろうか……。
 私は祖父の離れに帰るというわけにもいかず、かといって何をすることもできず、この不穏な空気に神経を尖らせながら、ただ黙ってひとり居間で待つことしかできなかった。
 ……やがて、ドアがガチャリと開き、三人が出て来た。犬塚夫人は努めて何気ないふりをしようとしているように見えたが、彼女の目は泣きはらしたように赤くなっていた。柿本はというと、青ざめた顔をして、怒りと無念さに震えているような様子だった。
 しかし驚いたことに、こんなに感情の高ぶっている二人を後ろに従えて、裕人はまったく動じてさえいなかった。彼の表情はと言えば、むしろ冷めており、動作にも彼の精神が揺れ動いているということを示すいかなる乱れも見られなかった。彼は無言のまま台所に行って水を一杯飲み、ふうっと一度息を吐いた。彼の沈黙はほかの者にも伝染し、その場は水を打ったように静まり返った。
 裕人は私たち全員を一通り見回し、自分の意志を確かめるように、もう一度ゆっくりと息をついた。そして、私に向かって釈明するように、こう言った。
「……ご存じの通り、こういった状況です。いま僕は、母と柿本君と話し合いを持ちました。……そして……非常に申し上げにくいことをお伝えしなければならないことになりました。つまり、もうこの別荘に、お客様をおもてなしすることのできる場所はなくなってしまったということです。……従って、まことに身勝手な言い分ではありますが、これからのことは一切我が家の人間に負わせていただきたいと思います。この別荘で、ぜひ残りの夏休みも過ごしていただきたかったのですが、致し方ありません……。いまは、ひとまず。どうぞお引き取り願いたい」
 彼の話し方は酷い切り口上で、まるで演説文を読み上げてでもいるようだった。だがそれでも、現実に誰もこの場をしのぐような言葉をひと言も発することができないいま、裕人のこの言葉は、何よりも効力を持っていた。それで、犬塚家の家族でない人間、つまり、私と柿本は、この別荘から退去するということになった。
 私は呆然としたまま、狐につままれたような気分で、祖父のいる離れに戻って行った。

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