【長編小説】 抑留者 9
――それから一週間ほど経った朝、尚文は隣の家を訪れた。弔問を兼ねて、独りぼっちになってしまった磨利に、慰めの言葉でもかけてやろうというつもりだった。
ほかにも弔問客があったのだろう、玄関の鍵は開いていて、家じゅうに線香の匂いが立ち籠めていた。ハーおいやんの兄弟や親戚の人々が来て、手際よく通夜や葬式の手配をし、浦の慣習どおり葬式が終わったあとその日のうちに初七日の集まりも済ませ、あとは四十九日が過ぎるまで新仏を祀ればよいばかりにしていってくれていた。
磨利は、ひとりで家にいて、あと片づけをしたり、掃除をしたりしていた。尚文が訪ねていくと、穏やかな表情で招き入れ、新仏のいる奥の座敷へ案内した。
ハーおいやんは三男だったため、この家に仏壇はない。畳敷きの部屋の床の間の前に、無垢の木材を組み立てて親戚たちが作った手製の祭壇があり、その上にハーおいやんの遺骨と榊、白いご飯に箸を立てた小さな椀と水を入れた椀(酒好きのハーおいやんのために、その中は日本酒である可能性もあったが)、線香台などが置かれていた。
「だいぶ落ち着いたか」
線香を上げ、新仏となったハーおいやんに恭しく手を合わせてから尚文は言った。斜め後ろに控えてその様子を見ていた磨利は、妙に晴れ晴れとした声で「うん」と返事をした。
「やっぱり酒に飲まれたか。おいさんも、酒にやられたんやったら本望やろう」
慰めるつもりで、そんなことを言ってみた。いくら磨利のような娘でも、たったひとりの家族であった父親に亡くなられれば、それなりに寂しいだろうと思って。
「結局酒にやられたんよな。総合的には」
磨利は言った。
「総合的?」
尚文はオウム返しに聞いた。妙な言い方をするものだな、と思い、磨利の表情を見るために振り返った。
「まあ、そういうことよ。毎晩馬鹿みたいに酒を飲んで、へべれけになって、品が悪い。酒さえ飲まんかったらまあまあ我慢のできるおとうやったけど、全然その逆やったけな」
振り返った尚文が見たのは、ほくそ笑んでいる磨利の顔だった。厄介な父親を亡くして、明らかに安堵し、暗い喜びを露わにしている。整った白い顔がそんな表情を表して歪むのは、一種不気味な光景であった。
やはり普通の娘ではないな。高浜岸で会った日のことを思い出した。
「こんなことを聞いたら悪いかもしれんが、死因はやっぱり急性アルコール中毒やったんか」
尚文は聞いた。東京に帰った三ツ谷も、その後ずいぶんと気にして、ラインでやり取りするたびに何度も尋ねられたものだった。
「アル中はもう、年中アル中やったけな。酒ぐらいで死ぬタマやねえわ」
くっく、と喉をひくつかせて笑いながら、磨利は言った。この娘はますます気味悪くなったな、と、尚文はゾクリとした。
「じゃあ、結局何やったんか」
尚文は再び問うた。
「結局」
磨利は、どこを見ているのか視線の定まらぬ目をして、また喉をひくつかせて笑った。そしてそれは何かとてつもなく愉快なことを思い出すように、痙攣じみた笑いに変わっていった。
「頭部の打撲。酔いくろうてふらついて、テーブルの隅にぶつけとったらしい。警察の鑑識がそう言よったわ」
ふふっ、と、いかにも愉快そうに今度は鼻先で笑った。
「鑑識の捜査でな、テーブルの隅に硬いものが当たって損傷した箇所があったんて。うちが見てもわからんかったけどな、警察ってすげえな。そういうことも、わかるんでな……」
「そうか」
納得したように返事をしたが、けれど尚文は先ほどから変な違和感に囚われていた。それほどに、磨利のこの奇妙な発作的な笑い方は不自然が過ぎた。長年悩まされてきた父親が死んで、嬉しいという気持ちがあるというのは理解できないことではない。だが、それにしてもこの勝ち誇ったような、達成感のようなものを含んだ笑いは何なのだろう。尚文には、磨利がただ偶然の事故で亡くなった父親の死を喜んでいるだけのようには思えなかった。
「磨利、お前……」
尚文は無言の質問を投げかけた。磨利は、臆することもなく真っ直ぐに見つめ返してくる。
「そうよ」
ぐう、っと、片方の瞼を押し上げて、引きつれたような笑い顔を浮かべ、磨利は言った。
「うちが殺ったんよ」
――女のこんなに恐ろしい笑顔を、尚文は人生のうちで見たことがなかった。自分の殺人を、ひとりの男の前で堂々と告白する、そして、あまつさえ、誉められることをしたかのように、自慢げに胸を張っている。
「――何で……、そんなことをしたんか」
青ざめながら聞く尚文に、顔色ひとつ変えず、磨利は平然と答える。
「もう我慢ができんかったけ」
言いながら横を向いた磨利の顔に、元の白さの上にさらに特殊な塗料を重ねたような影が射した。何か大きな出来事を思い出しているような表情だった。
「あいつ、酒を飲むだけやなかったき。毎晩よ。中学生になったときから。毎晩のようにされとってみ」
尚文は息を飲んだ。
「さすがにもう我慢ができんなるやろ」
酔いが回ってきて性欲が湧くと、決まって父親は磨利の寝室に入り込んできた。この数年間、信じられない回数、ソテツの木に囲まれた家のなかで、その行為は繰り返されていたのだった。
――言葉をなくした尚文を残して、磨利は台所のほうへ消えていった。ガラス製のものをステンレスの調理台の上に置く音がして、その少しあとに液体を注ぐ音が聞こえてきた。
ほどなくして戻ってきた磨利の手には、透明の液体を入れた一杯のグラスが握られていた。
「飲んで」
磨利は言った。
「おとうの弔いの酒やと思って、飲んでおくれ」
尚文は、言われるがままに、磨利の差し出したグラスを手に取り、ひと息に飲み干した。悪くない、きりっとした辛口の日本酒だった。ハーおいやんが亡くなる直前まで飲んでいた酒なのには間違いなかった。
「うち、これでな」
後ろに隠し持っていたのだろう、右手に握られた一升瓶を、磨利はそろそろと尚文の前に掲げた。
「お父を殴ったんよ」
あの晩も、父親は磨利の部屋に入ってこようとした。居間で酒を飲んでいた父親が立ち上がる音を聞くと、磨利は自分から居間に乗り込んでいった。もう嫌で仕方がなかった。テーブルの上に置かれていた一升瓶を手に取った磨利は、その瓶で父親の後頭部を殴った。
「殺そうとか、最初はそのつもりはなかった。でも」
冷たく凝り固まった声で、磨利は言う。
「いっぺん倒れたあとに、起き上がりそうになったけえ、うち怖かったんよ」
抗うたびに、父親は暴力を振るった。顔を殴れば人に見られるため、服に隠れて見えない箇所ばかり狙って打ってくる。磨利の体は実際痣だらけだった。体育の授業で着替えをすると目につくので、ハーおいやんは決して磨利を体育の授業に出させなかったのだ。
また叩かれる、という恐怖心で、もう一度手にした一升瓶で、同じ後頭部を殴りつけたのだ、と、磨利は言った。
「そんときはもう、ああ『死ねばいい』と思った」
平然とした顔で、磨利は言う。幸いそれからは、ハーおいやんが起き上がることはなかった。
ぐったりとした父親の重い体を抱えて、テーブルのそばまで懸命に引きずっていった。それから頭を持ち上げると、テーブルの角めがけて、憎しみを込めて、致命傷になれと願って打ちつけたのだという。
「一升瓶の二回目で死んだんか、テーブルの隅で死んだんかはわからん。けど警察は、『酒に酔って転倒して、テーブルの角に当たって死んだ』って判断した」
「磨利……お前は……」
恐ろしい奴だ、と言葉を継ぎたかったが、実の父親から長いあいだそんな仕打ちを受けてきたという磨利の境遇を思うと、〝可哀想に〟という言葉も上から被せたくなった。
人でなしの悪魔に、とどめを刺さずにはいられなかったという気持ちは尚文にもわからないではなかった。けれどふと思った。それをなぜいまここで告白したのか。聞かされた自分は、どうすればいいというのか?
磨利を見つめながら考えていると、先週、舞浜食堂で尚文を激昂させた三ツ谷の行為が、可愛いもののように思えてきた。
磨利は尚文の手からグラスを取ると、目の前でまた一升瓶から酒を注いだ。
「飲んで」
言いながら、ぐいとグラスを差し出す。もういい、と言おうとしたが、思い詰めたような磨利の眼差しは思いのほか強く、有無を言わさぬ力を持っていた。長年に渡って虐げられていたと知ったばかりの人間からの要求に、抗いにくいということもあった。
「……」
気圧されるように、無言でグラスを受け取った尚文は、磨利の目を見ながらおどおどとグラスを口に運んだ。そしてまた、ひと息に飲み干した。
「ありがとう」
飲み終わるのを見ると、磨利は満足そうに頬を緩めた。それから、やおら父親の遺骨のほうに振り返って斜めに視線を送ると、黙ったまま尚文の手を取った。
「来て」
言いながら、座敷を出て廊下へと誘う。二杯の一気酒のせいで、少しふらつきを覚えた尚文は、訝しく思いながらも引かれるまま磨利に従った。
廊下に出ると、磨利は玄関に下りて戸に鍵をかけた。そして尚文の手を取り直すと、迷わず家の奥に進んでいった。台所の隣、安い合板でできた引き戸を開けると、四畳半ほどの畳敷きの部屋があった。
そこは磨利の寝室らしく、布団が一組敷かれていた。
「入って」
先に部屋に入った磨利は、尚文の手をなおも引いて、部屋に引き入れようとする。
「待て、待て。何か。お前、何を考えちょるんか」
酔いが回り始めていた尚文は、慌てて一歩退きながら言った。この娘は、俺を誘惑しようというのか。毎晩のように父親に〝されていた〟ということを、いまこの俺にさせようとしているのか?
「いいけ。さっさと入りよ」
そのとき、磨利の目つきがさっと変わった。高校生とは思えない、大人の女のような、しかも男を支配する自信に満ちた、恐ろしい目だった。
「いんにゃ、そんなわけにはいかん。俺は、そんなことはできんぞ磨利」
すんでのところで、踏みとどまろうとする。普段から磨利に対して巡らしていた不埒な欲望の数々を思い出し、そんな考えを持っていたことを、地面に突っ伏して懺悔したい気持ちになった。
「うるさい。さっさと入れ」
抑制の効いた、極限まで支配的な声で、磨利は言った。まるでこのことは予め決められていた予定で、必ず遂行されねばならない絶対的な計画なのだと言わんばかりの振る舞いだった。
「断ったら、あんたに無理矢理襲われたってみんなに言うて回るよ。同じことなら、おとなしく言うこと聞いたほうがいいで」
先ほど家に入るときに、近くを通りがかった通行人に見られていたことを思い出した。しまった、やられた! と思った瞬間、尚文は度を失った。体が震え、脂汗が出てきた。酒のせいなのか恐怖のせいなのか、もうわからなくなった。
オマエニニゲミチハナイノダヨ。
いまはもう、すっかり狂気じみて見える磨利の恐ろしい目が、尚文を見据えていた。