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【短編小説】 二人乗り

 ――一緒に帰らない? その代わり、自転車漕ぐからさ。
 そんな風に声をかけてきたのは、丸山くんだった。

 飲み会が終わり、みんな三々五々帰り始めていた時だった。貸切になっていた居酒屋の十畳ほどの個室は、荷物を取って立ち上がる者や幹事に会費を渡しに行く者、まだ話し足らず座ったまま額を寄せ合っている者などの立てる物音でざわめいている。
 大学に入りたての春、クラスメイトの親睦を深めるために有志によって企画された飲み会に参加したのは、ほんの気まぐれからだった。いつもならそういう華やかな場に出るのは億劫おっくうに感じるのに、その飲み会にはなぜか出てみようという気になった。新生活の始まりと、うらららかな春の陽気に誘われて気分が高揚していたからかもしれない。
 「新入生コンパ」と銘打たれたその飲み会には、50人ばかりいるクラスの中で20人余りが参加していた。皆血気盛んな若者らしく、ビールやチューハイを飲んで大いに盛り上がった。大学入学の年といえば、20歳未満ではないか? などという疑問は誰の頭にも無いようで、皆無礼講とばかりに飲み会という新鮮な雰囲気を出来る限り楽しんでいたように思う。大学生の飲み会ということであれば、社会もまた許しているような寛容な空気があった。緩い時代だった。

 丸山くんとは同じクラスであることはわかっていたけれど、ろくに口をきいたことも無かった。口数の少ないおとなしい子で、男子の目立つグループの影に隠れて、あまり存在感も無い。日本人には珍しい赤みがかった茶色の髪をした彼の、色白でどこかはかなげな線の細さもまた、それに拍車をかけていた。
 そんな丸山くんが突然声をかけてきたのには、正直驚いた。でも話してみると、彼の家と私の住むアパートは同じ方角だということがわかった。聞くと、彼は地元の出身で、実家は大学のある市内にあるとのことだった。
「そうなんだ。うん、じゃあ、一緒に帰ろ」
 特に嫌な気はしなかったので、私は了承した。丸山くんは、大学デビューそのものといった風に勢いづいているどこか浮足立った感じの他の男子達と違って落ち着いていたし、声も小さく少し頼りない感じはするけれど、それが逆に飲み会の後に一緒に帰る相手としては安心感を与えていた。
 何より、彼の方にいかにもな下心のようにギラついたものが見受けられなかったので、私はむしろ弱々しい彼の保護者にでもなったような優しい気持ちで、帰路を供にすることにしたのだった。
 だが彼は私の乗ってきた自転車を漕いでくれると言う。痩せっぽっちの彼に、自分を後ろに乗せて自転車を漕がせるということにはちょっと引け目を感じたのだけれど、多分彼も同じ方角に帰る同級生を探していて偶然私が自転車で来ていることを知ったのだろうと思った。自転車こそが彼の目的であるのかもしれないということに思いが至ると、「漕がせてもいいか」という気になった。それに、その時の彼の視線は「男を立ててくれ」とでも言っているかのようだったので、私は大人しく言われるままに自転車の荷台に座ったのだった。
 同級生の集団を後に残して(皆に「おやすみ」とか「お疲れ様」とか言ったのだったっけ?)、私達は音も無く自転車を出発させた。ヒューヒューと冷やかすような声がどこかから聞こえた気がしたが、それは勘違いだったかもしれない。

 時刻は深夜12時を過ぎている。まだ肌寒い4月の夜の中へ、丸山くんは自転車を漕ぎ出していった。居酒屋のあった繁華街の賑わいが、だんだん遠ざかっていく。
「何かごめんね。重くない?」
 途中、急に自分の体重を意識して、私は慌てて聞いた。
「ううん、全然」
 細い声が、前方から戻ってきた。声と同じくらい細い丸山くんの脚が、ぐんぐん自転車を漕いでいく。その力は強く、ああやっぱり男の子なんだなと意外に思った。 
 ――何で私を誘ったの?
 とは聞けないまま、しばらく無言で自転車の振動に身を任せていた。普段から丸山くんが女子と話しているのを見たことは無かったし、もしかしてやっぱり彼は私に淡い気持ちを抱いているのかしら? それで今夜は思い切って声をかけてきたとか? などと、こちらも淡い期待に柔らかく心を弾ませたりしながら。
 丸山くんも、今日はアルコールを飲んで気がたかぶっているのかもしれない。ふとそんな風に思った。そうすると、それを証明するかのように、道の上で自転車は大きくよろめいた。
「わぁっ。大丈夫!?」
 私は荷台から放り出されないように、思わず丸山くんの背中を掴んだ。両手に、彼の着ている淡いベージュのカーディガンのニット生地を感じた。
「ごめんごめん!」
 笑いながら丸山くんが言った。どうやら彼自身も自分が酔っ払っていることに気づいたらしかった。そしてそんな自分を自虐的に笑っている。
 丸山くんのその笑いが感染し、私も可笑しくなって笑い始めた。私達の笑い声が、夜更けの住宅街の誰もいない静まり返った車道に響き渡っていた。 
 それからアパートに着くまで、私達はぽつりぽつりと他愛もない話をした。何しろ人気の無い夜中の道だ。大声を張り上げるまでもなく、自転車を走らせながらでも充分会話が出来た。そんな静寂な、春の夜の開放的な雰囲気の中で、私達は何ひとつ気負わない言葉を交わし合った。恋人同士でも友達でもない二人の、それは不思議な時間だった。

 その飲み会の夜の後、丸山くんとは特に会話を交わすことも無かった。もともと地味でおとなしく存在感の薄い彼とは、強いて持とうとでもしない限り接点というものが無かったからだ。私の中では、二人の仲はあの日飲み会の後、自転車を漕いでもらって一緒に帰ったというだけの間柄で終わっていた。共同研究などでペアやグループになる人達とはそれなりに親しくなったが、積極的に友人を作ろうとすることが出来なかった人見知りの性格のせいもあったかもしれない。私が自分から丸山くんに声をかけにいくことは無く、丸山くんの方からもあの夜のように話しかけてくることも無かった。

 とにかくそんな風だったので、いつしか丸山くんが講義を休みがちになり、だんだんと大学に来なくなっていた時にも、私は特に気にしていなかった。
 私が彼の消息について改めて知ったのは、次年度の冬のある日、大学のカフェテリアで同級生の女の子が放った一言によってだった。私達は進級して二年生になっていた。
 黒髪のおかっぱ頭に濃いめのメイクを施した同じクラスのユウ子が、昼食のきつねうどんを食べながら言った。

「春奈ちゃん、知らなかったの? 丸山くん、亡くなったんだって」

 ユウ子のその言葉に、目の前の光景が凍りついた。
「実はずっと長いこと病気だったらしいよ……。去年ぐらいから大学に休学届を出していたらしいんだけど、とうとう亡くなっちゃったんだって」
 続ける彼女の声が、遠くくぐもって聞こえてきた。
 え……。知らなかった。でも、え、休学してたけど、復帰して、進学は叶わなかったけど一つ下の学年で頑張ってるんだとばかり思ってた。
 そう言う私の言葉を、彼女は手を振って否定した。
「ううん。亡くなったんだって」
 先天性の病か何かを患っていたらしい、という噂があった。或いは学生生活に耐えられないほどの虚弱体質であったのか。いずれにせよ、丸山くんは自分の体調についてのことをクラスの人間には黙っていたようだった。もしかするとごく少数の、彼と近しい関係にあった男子達なら知っているかもしれなかったが、彼らにそのようなことをわざわざ質問しに行くわけにもいかない。

 若いのに、可哀想にね、とユウ子は言った。でもそれは、顔見知りの同級生に若すぎる死が訪れたことを知った人の抱く遠巻きな感情以上の何ものでもなかった。でも私は違った。私には、あの夜の丸山くんとのひとときの記憶があった。
 あの夜、丸山くんはしっかりと力強く、私を乗せた自転車を漕いだのだ。フラッとよろめいたけれどそれはお酒の酔いのせいで、その後私達は二人して笑い、お互いに色々な話をしながら自転車に乗り、ひとつの時間を共有した。

 あの夜に抱いた気持ちを目の前のユウ子に対して上手く説明することは不可能だと思ったので、私はそのまま黙ってやり過ごすことにした。私は彼女と同じように、顔見知りの同級生が若すぎる死に見舞われたことについてごく一般的な哀悼の意を示すに留めた。
 そして気持ちの底から甦ってきたあの夜の不思議な気持ちと、それを侵すように湧き上がる後悔とを同時に感じ始めていた。



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