【縣青那の本棚】 バリ山行 松永K三蔵
バリエーション登山。
一般の登山に対して、同じ山頂に至る別のルートを登ることを言うらしい。そして一般的には行程がより困難なものとなる。そこには標識などは無く、自分の裁量で正しい道を見つけて進まなければならない。更に一般ルートのように整備がされていないのが普通だという。
松永K三蔵さんの『バリ山行』という小説が芥川賞を取ったというニュースを見た時から、「あ、これは読んでみたい」と直感的に思っていた。他の情報媒体でもちらほらと目にしたあらすじや論評などによると、そのバリエーション登山の場面がふんだんに出てくるというではないか。
本格的な登山経験は一度も無いくせに、妙に〝登山憧れ〟だけはある私は、正規のルートから逸脱して更に奥深く分け入る、引率者もいなければいざという時助けてくれるグループの仲間などもないバリエーション登山というものに秒で惹かれた。昨年の秋からソロキャンプを始めなぞして自然と睦み、親しむ醍醐味を覚えてしまった私はこのバリというモチーフに最初から強烈な興味を覚えていたので、好物を最後まで取っておくように、文藝春秋を手に入れた後もこの作品を読むのを自分におあずけにしていた。審査員の先生方による各作品への選評を読む時も、内容に触れてしまうので『バリ山行』の部分に差しかかると目の焦点をオフにして咄嗟に目を逸らすなどというトリッキーなことをしたほどである。
そこまで楽しみにして、いざ読んだ本作はさて、いかがなものだったかというと……。
結論から言うと、「大好き」だった。
まず冒頭から作者が繰り出す登場人物の面々が個性豊かで面白い。主人公は、リストラされた後の再就職で外装修繕専門の社員50人に満たない中小企業の営業課にいる。その規模の会社だから社内はどこかアットホームでのんびりした雰囲気。社員全体も概ね仲がいい。事務の若い女の子がいたり、嘱託のベテラン先輩社員がいたり、いつも明るくておちゃらけているザ・営業といった感じの年下の同僚がいたり。社長は先代の甥っ子でいかにものんびりした〝金持ち喧嘩せず〟といったタイプ、先代の時からいる常務に中間管理職の口やかましい課長やイマイチ存在感の薄い部長、ああこんな会社って全国に沢山ありそうだよなあと思いつつ、それぞれ個性的に活写される彼らの人間模様を面白く眺める。
事実、中盤辺りで会社の雲行きが怪しくなってきた時期の叙述は長く、それに主人公の苦悩が相まって雰囲気は暗く重いのだが、この闊達な人間模様の描写によって退屈に感じずに済んだ。
そして、この物語のキーとなる人物が、妻鹿さんという珍しい名字のベテラン社員だ。妻鹿さんはこの小説の最重要キャラクターで、この妻鹿さんが行うバリについて行くことで、主人公は大きく心を揺さぶられ、その後自身の中に無意識に起こる変化を見出すことになる。
主人公が妻鹿さんと供に山の中へ分け入り、初めてのバリ山行を行うシーンは圧巻。作者も実際バリをやっているのかな、と思うくらいにその行程ごとの描写は端々まで生き生きとしてリアルである。
バリのシーンが長いという声もあったようだが、私としてはちょうどお腹いっぱい、充分満足というところだった。何より主人公の目を通して、自分もバリ山行に参加しているように感じることの出来るくっきりとした臨場感が良かった。
ところで、興味を掻き立てられてならない妻鹿さんとは、こんな人物である。
勤続15年以上、推定40歳、父親と福祉作業所に通う弟の3人で市営団地に住み、会社行事にはたいてい欠席で、立ち上がると意外なほど背が低い。癖の強い髪に僅かに白髪が混じり、色黒で彫が深く、太い玉のような下がり眉の、典型的な縄文顔をしている。
仕事では融通が利かないぐらい熱心で、プロフェッショナル。仕事に支障を来せば些細なことでも「キレる」と他の社員からは煙たがられている。
そんな妻鹿さんは防水工事のエキスパートで、他の誰もが諦めた建物の漏水問題を、長年の経験と粘り強く緻密な調査で原因を突き止め、見事に解決したりする。
かと思えば、会社の方針変更に逆らい、こっそり材料を持ち出して既存顧客の為に独断で修理に応じるといったこともする。
主人公が妻鹿さんと辿ったバリエーションルートの中で妻鹿さんの取る行動を見ると、逐一妻鹿さんの仕事への向き合い方に通ずるものがあることに気づく。
鬱蒼と繁った草叢を行き来して上へ登れるポイントを探す時の集中力は、屋根に上ってその上を歩き回り、注意深く漏水箇所を探す時の集中力に重なる。均された登山道をグループの仲間と連れ立って歩くことよりバリを選ぶのは、歯車のひとつとして上司の指示通りに動くことに徹し会社員の王道を行くことより、会社の方針に逆らい、単独でも長年つきあいのある顧客の為に動こうとすることに重なる。
見方によっては、妻鹿さんは自分勝手で独善的な人だとも言える。現実にそんな人がいたならば、そりゃ煙たがらずにはいられないだろうと思う。
けれど頑固職人さながらの妻鹿さんの生き方には、どうしても憎めない魅力的な一面が存在する。
妻鹿さんはカリスマティックで、かつヒロイックな人なのだ。
物語の終盤、予期せぬ出来事によって妻鹿さんは突然主人公の目の前から消えてしまう。
だが私は(読者は)、主人公と妻鹿さんが本当に分かれてはいないことを確認する。
かなり面白い小説だったので、いつかドラマか映画で実写化されたものも観てみたいなあ、という気持ちになった。
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