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【短編小説】海の夜さんぽ

こんにちは、深見です。海が好きです。

海の夜さんぽ

 磯の香りがしました。
 ここから数キロ先には海があり、湿度や風向きによっては海の匂いが運ばれてくることもあるにはあるのですが、こんな乾いた冬の夜に、風もないのにふわりと漂うのは、なんだか不思議な気がします。
 それに、風に乗って飛んできたというよりも、私のすぐ足元から立ち上ったような濃厚な香りだったのです。やっぱり、どうしても不思議です。

 足元を見ますけれど、もちろん海なんてありません。フローリングの床と、キャスターが付いた椅子の脚、室内用靴下を履いた私の足。それから、同居者(人間ではない)の怪訝な顔。
「どうしたの、足元なんか見て」
「海の匂いがしたから」
「さっき、窓の外までは来てたけど」
「来てたの? 海が?」
 カーテンを開けて、窓の外を見ます。真っ暗闇の中に、民家の明かりと街灯だけが浮かんで見えます。ちょっと向こう側には、業務スーパーの大きな看板も、ライトアップされてぼんやり佇んでいます。海なんて、どこにもありません。

「ないよ」
「ないね。さっきはいたんだけどね。でも、匂いがしたんなら、部屋の中まで来てたのかもよ」
「部屋の中まで?」
 念の為、戸締りを確認します。私は海が好きですが、勝手に部屋まで入って来られるのは、さすがに愉快ではありません。

 今度、海が入って来ようとしてたら、とめてね。同居者にそう頼みますと、同居者は「そう?」と首を傾げます。
「でも、ときどき寝てるときなんか、お部屋は全部海になってるし、脳みそまでぜんぶひたひただけど」
 初耳です。脳みそひたひたは困ります。でも、もしかして時々、深い深い海の底に沈む夢を見るときは、海が脳みそに染み込んでいるからなのかもしれません。
「とめてもきかないと思うけど、でも一応、とめてみるけどね」と、同居者は約束してくれました。それで少しは安心して、その日、私は眠りについたのです。

 もうお分かりかもしれませんが、その夜は、海の夢を見ました。私は道を歩いていて、後ろをずっと、海がついてくるのです。

 私のくるぶしを、波がぱしゃぱしゃ洗います。私は磯の香りと一緒に、車道の真ん中を歩きます。
 中央分離帯には、真っ白な楕円の殻を持つ貝が群れを作っており、その上を、黒いマンタが悠々と泳いでいきます。街灯かと思いきや、そこに引っ掛かっているのは光るクラゲで、たまにぷうっと膨れては、燐光を吐き出しながらしゅるしゅるとしぼむのでした。

「おかしい。普通、海は波より下にあるものなのに。波は私の足元にあるのに、海が私の頭上にあるのは、どう考えてもおかしい」
 私が言いますと、「おかしくない、おかしくない」と、背後の海が言いました。
「海の底に波打ちぎわがないだなんて、あなた、行って確かめてみたことあるの。海の底にも、波はありますよ」
 そうかしら。でも、海本人(人?)がそう言っているのだから、そうなのかもしれません。私は海の底まで降りて行って、波打ちぎわを探したことはありませんし。見たこともないものを思い込みで決めつけるのは、よくないことです。
 私が納得したので、海は良い気持ちになったのか、波を躍らせて細かなあぶくを立てました。あぶくは私の足首をつたい上がって、室内用靴下のようになりました。


 そうして、海と一緒に歩いていますと、いつもの業務スーパーの看板が見えてきました。この道は、私の家まで続いている道です。
 業務スーパーの駐車場には、車の代わりに同じくらいの大きさのイソギンチャクが停まっています。建物の中は真っ暗ですが、よく見れば、天井まで届くほどの立派な海藻が、ゆらゆらひしめき合っているのが分かりました。

「昔はここずっと、海だったの」と、海が言いました。
「埋め立てられて、今は陸だけど。だから時々、ここまで来るんだ」
「そうなんだ。じゃあ、昨日ウチまで来てたのも、あの辺りまで海だったから?」
「そうだよ。でも、あの辺りが海だったのは、もっと昔の話。地面が揺れて、海底がぐぐって起き上がったから、今は陸だけど」
「そうなんだ。もっともっと昔は、どこまで海だったの?」
「もっともっと昔は、どこまでも海だったの。だから時々、どこまでも行ってみるんだ。どこまでもどこまでも、行けるんだよ」
「私の夢の中までも?」
「そう。あなたも、昔は海だったから」


 そうして、ぱちっと目が覚めました。まだ朝日がのぼる前、波の底のような青白い光が、部屋を薄ら明るく照らしています。
「おはよう」
 同居者が挨拶をしましたので、私も「おはよう」と返しました。
「海が来たのに、追い返さなかったでしょう」
 文句を言いますと、同居者は「だって」と拗ねたような声を出します。
「ぼくも、ひたひたになっちゃったんだもん」
「脳みそまで?」
「そう、脳みそまで」
 だったら、仕方ありません。

 胸いっぱいに空気を吸い込みます。磯の香りはせず、つんと冷たい朝の空気が鼻に沁みました。
 夜の間に、海は私の部屋を満たして、裏手の山まで上がったことでしょう。私の脳脊髄液は海水にとってかわられて、私は海の底の波打ちぎわを散歩して、そして朝になれば、海は何事もなかったかのように地球の窪みに納まるのです。

「昔は私も、海だったんだって」
 私が言いますと、同居者は眠そうに「ふーん」と言って、すぐに寝息を立て始めました。
「昔はみんな、海だったんだね」
 同居人はもう寝てしまったので、これは私の独り言。

 私も二度寝をしようと思ってお布団をめくると、どうやら海がほんの少し引っ掛かって、残っていたのでしょう。磯の香りが鼻先を掠めたかと思いますと、何千何万という透明な稚魚たちが、布団の中から舞い上がりました。
 私は寒いのを我慢して、窓をそっと開けてあげます。そうしますと、布団から漏れ出した温かな黒潮に乗って、稚魚たちは朝の空へ、あるいは海へ、帰って行ったのでした。


おわり

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