パンときみ、そしてゴールライン(作品ハイライト)
プロローグ
突然、地面が大きくゆれ始めた。「地震だっ!」と誰かが叫ぶのが聞こえた。体が下から上につき上げられて、大きく横にゆさぶられる。大人も子どもも立っていられなかった。テレビが台から転がり落ち、小さな女の子が泣き出した。近くにいた先生が、着ていた上着で女の子を包み、静める。
ゆれが落ち着いたタイミングを見計らって、建物の外に出る。全員の無事を確認したとき、防災無線が聞こえてきた。
『大津波警報発令中です。ただちに沿岸地区の方は指定された避難所に避難してください』
海の近くにある児童館の周りに、高い建物はない。先生たちが話し合い、遠くに見える高台を目指すことになった。そこにたどり着くことがたった一つの希望だった。
また大きなゆれが起きた。胸の中で、得体の知れない虫がうごめいているような、恐怖と嫌な感覚が押し寄せてくる。それを振り払うように足を踏み出す。さっきの女の子も、泣き顔のまま懸命に歩いていた。
大通りは津波から逃げようとする人や車でいっぱいだ。道路が割れたり、木が倒れたりしているところもあった。泣いている大人がいた。大声で家族を探している人もいた。とても混乱していた。
そこに、ヘルメットをかぶった男の人がかけつけた。その人が混雑する場所で道案内をしてくれて、少しずつ人と車の流れができていった。
「お兄さんは逃げないの?」
とたずねると、
「まだ、避難していない人に声をかけに行くよ」
という答えが返ってきた。
目標にしていた高台に着く寸前で、おなかの底に響いてくるような、低く、鈍い、聞いたこともないような音が聞こえた。ふりかえると、通ってきた場所は水に飲み込まれていた。見慣れた町の風景はなく、黒く濁った海があった。
みんなの誘導をしていたヘルメットの人を思い出し、思わず「お兄さん!」と声を上げたけど、届くはずがなかった。
第一章 パン屋と出会う
「お兄さん!」という自分の声で夢からさめた。夢の感覚がまだ残っていて、呼吸は浅く、体は鉛のように重い。スマホを見るとまだ五時すぎで、アラームをかけた時間より、ずいぶん早かった。
また悪夢の世界に戻されてはかなわない。そう思って、無理やり体を起こす。
カーテンを開けて光をあびると、現実の感覚が戻ってきた。気力はわかないけど、いつもどおりの自分になるように、のろのろと身支度を整えていく。そうしないと、また居場所がなくなるような気がするから。
真夏のような暑さが続くと思っていたら、六月なのに梅雨が明けたらしい。新潟地方気象台が発表したそうだ。朝早く起きてしまったせいか、その日は何度も眠気に襲われた。そして午後一コマ目の英語の授業中、とうとう眠ってしまった。
「相馬(そうま)くん、居眠りなんて余裕あるねー。定期テストも部活の大会も終わって、気が抜けちゃった?」
下を向いて固まっていたところを、担当教師のキャシーに気付かれたみたいだ。
「九月には次のテストも体育祭だってあるし、受験も近いから、居眠りしてる暇なんてないはずだよ。目ざましに、次のページ読んでみよっか」
周囲からクスクスと控えめな笑い声が聞こえてきた。
隣の席の成田(なりた)有希(ゆき)に助けを求める。有希が仕方ないなぁという感じで、自分の教科書を見せてくれた。おれはそこを開くと、大きな声でテキストを読み上げた。
椅子に座ったおれは、次の眠気に勝つために手の甲をつねる。その痛みのおかげで、残り時間はどうにか眠らずにすんだ。
英語の授業が終わった休み時間、有希がおれの顔をのぞき込んできた。
「キャシー、すっごく嫌味っぽかったね。でも今の紫苑(しおん)が心ここにあらずって感じなのは確かだよ。大会が終わってからずっとそう。悩みとかあるならさ――」
隣の席の有希とは、男女の違いはあるものの、同じバスケ部で家も近かった。小学生の頃は一緒に学校に通っていた。有希は、四姉妹の次女として揉まれてきたからなのか、元々の性格なのか、他人の表情の変化によく気が付くし、世話を焼きたがる。そんなやつだから、最近のおれを見ていて、ただ眠いだけではないと察したらしい。そっけない言い方をしているけど、心配しているように見えた。
「そんなんじゃねぇよ」
心配されることがうっとうしくて、軽く答えたおれは、有希から顔を背けた。今はとにかく放っておいてほしかった。
けど有希の言うとおり、中学最後の大会が終わった日から、おれはいつもだるくて眠いままだ。バスケ部で部長をつとめていたおれは、その日までは役目を果たそうと全力を尽くした。毎日の練習メニューやスケジュール管理、レギュラーになれなかったメンバーのケアまで。他の部長がやらなかったことまでやった。
チームとしては力を出し切ったと思うし、結果も悪くなかった。同じ三年の仲間に「いい形で終われて良かったな」と肩を叩かれたときも、おれはいつもどおりだった。
でも後輩から、「今日までありがとうございました。自分が責任を持って部長を引き継ぎます」と言われたとき、おれの中で何かが変わってしまった。体の力が抜けて、その場にへたりこんでしまいそうになった。なんとか倒れずにすんだのは、目の前にいた後輩が手を貸してくれたおかげだ。
その後すぐ動けるようになったけど、代わりにずっと気だるくて眠い感じが続いている。
それに加えて、最後の大会で自分が納得いくプレイができなかったことばかり、考えてしまうようになった。
部長を引き受けなければ、もっと自分のプレイに集中できたかもしれない。密かに目標にしていたことも、叶えられたのかもしれない。大会が終わり、ため込んでいた思いが頭の中をめぐり始めた。おれはもっとやれたはずだ。部長ではなく、一人のプレイヤーとして。
そんな思いが頭の中にずっとあるせいか、好きだった動画チャンネルも見なくなったし、SNSなんかにも興味が持てなくなった。全部わずらわしくて、できるだけ触れたくなかった。友人たちや家族と一緒にいることもおっくうで、一人になりたかった。
有希も女子バスケ部で部長をつとめ、大会終了とともに役目を終えた。おれと同じ状況の有希だからこそ、今の自分のことを伝えたくなかった。おれだけ未練がましくて、カッコ悪すぎるからだ。
「なんだ、心配して損したな。私は大会が終わったとき、一個悔しかったことがあって。紫苑もそういうことがあったのかなと思ったのに――」
「女子部だって、そんなに成績悪くなかったじゃん」
ばつが悪くて、なんとなく話をそらす。
「私、密かに目指してた人がいたんだ」
「へぇ、それは初耳だな」
「女子部で語り継がれている流奏(るそう)さんっていう選手がいてね。スリーポイントシュートの成功率が五十パーセントに届いてたらしいんだ」
「信じられないくらい高いな。プロでもそこまでの選手はいないだろ」
「しかも、そんなにすごい選手なのに、中学卒業後には全然名前を聞かなくなったんだって。怪我したとか、バスケ自体やめちゃったのかも。そんな風に消えちゃったから伝説の選手って言われてるみたい」
「有希はそんなすごい人を目標にしてたのか」
「目標は高いくらいがいいんだって。でも、もう終わっちゃった。私、伝説の人になれなかった」
そうやってオープンに話せる有希がうらやましい……とか思っていたら、誰かの視線を感じた。振り向くと、クラス委員長の古泉(こいずみ)聡(さとし)が立っていた。
「おい、相馬。お前、体育祭の役割はどうすんだよ。お前の分だけ希望が出てないぞ。さっさと出せ」
「そんなのあったか。適当に決めてくれよ。おれ、なんでもいいから」
「は? なんでおれがお前の分を考えないといけないんだよ。お前、クラスのこととなると、いつもそうやって人まかせにしてきただろ。バスケ部の元部長かなんか知らないけど、自分のことは自分で考えろよ。帰るまでに希望を出せ。おれはクラス委員長としてちゃんと伝えたからな」
聡らしく最後まで一方的にまくしたて、自分の席に戻っていった。それを見て有希が「何あれ、感じ悪い」とつぶやいた。体育祭うんぬんはどうでもよかったけど、「元部長」という言葉が引っかかった。部長なんてなりたくてなったんじゃねぇよ、と心の中で毒づいた。
午後の授業が終わると、おれは図書室に向かった。水原中学校の図書室は生徒以外の地域の人たちにも開かれているから、ここに来ると学校という枠から外に出た気分になれる。最近のおれにとって、唯一ほっとできる時間だ。どれだけぼんやりと過ごしていても、誰からも文句を言われない。
部活を引退したおれが図書室通いをするようになったのを見て、「紫苑って、そんなに本が好きだったっけ?」とニヤニヤしながらたずねてくるクラスメイトもいた。そんなやつには「急に読書にハマってさ」とごまかすことにしていた。実際は読書なんて大層なものではなくて、眺めるだけだったけど。
前にも本の力を借りていたことがあった。一緒に暮らしていたじいちゃんが亡くなった年のことだ。
じいちゃんは福島県浪江町で生まれ育った。そして同じ浪江町で、親父も、おれも生まれた。おれが四歳になる東日本大震災の年まで、おれたち家族はじいちゃんと一緒に浪江町で暮らしていた。
でも震災や津波、原発事故のせいで浪江町にいられないとわかったとき、一家で母親の実家がある阿賀野市に移住することを決めた。まだ幼かったおれのこと、持病のあるじいちゃんの通院のことも考えたら、浪江町に残ることはできなかった。じいちゃんは、よく浪江の思い出話をしていたけど、結局、再び浪江の海を見ることなく阿賀野で亡くなった。
じいちゃんが亡くなった頃、親父は今と同じく浪江町に単身赴任をしていて、母親は夕方遅くまで仕事に出ていて、妹は保育園に通っていた。小学四年生になっていたおれは、一人で留守番もできるようになっていたし、行こうと思えば阿賀野市内の親戚の家に行くこともできた。でもなぜか水原中学校の図書室に行くことが多かった。
図書室には小学生でも読みやすい本がたくさんあったし、少しだけ漫画も置いてあった。それに小学校の図書室とは違って、大人もたくさん来ていた。じいちゃんのような背格好の人もよく見かけた。だからそこに行けば、じいちゃんが亡くなったってことから、少し離れられるような気がしたんだ。
今のおれもその頃と同じ。現実から目を背けたくて、どこでもいいから、違うところに行きたかった。思いどおりにならないことを忘れたかった。
気が付くとすでに七時近く、図書室が閉まる時間になっていた。本を棚に戻そうと立ち上がったところで、図書室の棚橋先生から声をかけられた。
「相馬くん、悪いんだけどお願いがあるの。奥の席にいる人たちにも終わりの時間だって声をかけてもらえないかな?」
「おれが? 棚橋先生は?」
「今日は他に人がいないからカウンターを優先しないといけなくて。終わったら私も行くから。ごめんね」
棚橋先生はそう言うと、貸出カウンターに向かって行ってしまった。面倒だなと思ったけど、断る間もなく先生がいなくなってしまったので、閲覧コーナーにいる人たちに声をかけていった。
最後に隅の席にいる人に声をかけようとすると、左腕で頬杖をついたまま寝ていた。Tシャツに作業服のズボンをはいているから、中学生ではなくて一般の利用者みたいだ。どうやって声をかけようか考えていると、その人が突然声をあげた。
「捨てないで!」
起きたのかなと思って顔を見ると、まぶたは閉じているみたいだから寝言だったらしい。
体をゆさぶるのは気が引けたので、机をノックするように叩いたら、その人の左肘が机からずり落ちた。
「うわっ」
声をあげて体を起こした。今度は目をさましたみたいだ。
改めて見ると、色白、整った顔立ちで、大きな目をしている。その目でおれをじっと見つめてきた。起こされたことに文句でも言われるのか、と身構えていたら、予想外の言葉が飛び出してきた。
「もしかして、相馬紫苑くん?」
「え……そうですけど何でそれを?」
「あかりさん……あなたのお母さんと同じヨガ教室に行ってて。お母さんからあなたの写真を見せてもらったことがあるんだ。その写真のとおりだったから」
そう聞いたおれは記憶をたどった。
「あの……『みのりちゃん』ですか? ヨガ教室のみのりちゃんって、母親から聞いたことがあります」
その人が目を見開いた。
「そう、その『みのりちゃん』が私! 酒井(さかい)季(みのり)って言います」
「あの、髪が短いので『男』かと……」
「それはひどくない?」
「……すみません」
おれが謝ると、季さんは首をすくめて手を広げた。
「別にいいよ。昔からよく間違えられるから。『男だったらよかったのに』とも言われてきたし」
気まずくなり黙っていると、季さんが少し小さな声で言った。
「ところで私、寝てるとき変なこと言ってなかった?」
「あの……『捨てないで』って言ってました」
「口に出しちゃってたかー」
「はい、結構はっきりと」
そのとき、カウンター対応が一段落した棚橋先生がこちらにやってきた。
「相馬くんありがとう。あら、お友達? 悪いけど、続きは外でお願いしますね」
季さんと二人で図書室の出口へと急ぐ。靴をはき替えようと身をかがめたとき、頭上から季さんが言った。
「紫苑くん、もし放課後時間あるんだったらさ、手を貸してもらえないかな? お金は払えないけど、何かしらお礼はするから」
「え、なんでおれが」
「紫苑くんは背が高いし、体力もありそうだから。私今パン屋の開業準備をしてるんだけど、いてくれたらすごく助かる! 嫌かな?」
季さんが、また真正面からおれの目を見た。やはり目力が強い。思わず「嫌じゃないけど……」と答えてしまった。
「ほんと? ありがとう! ちょうど人手が欲しいと思ってたんだー。明日の授業が終わった頃、家に行くね」
うれしそうな季さんを見ながら、おれは後悔した。また、合わせてしまった。
期待をかけられると、つい応えてしまう癖がおれにはある。去年、部長を引き受けたときもそうだった。テクニックも体力も、身体能力も、おれより上のやつがいたけど、コーチから「お前なら二年と一年、両方のメンバーが納得してくれるだろう。やってくれるかな」と言われたら断れなかった。
季さんとは連絡先を交換して、「また明日」と別れた。連絡先を交換したとき、なんだかいい香りがした。
おれは一人で自転車に乗り、農道から帰ることにした。田んぼには心地いい風が吹いていて、風が通った場所だけ、スポーツ観戦する観客のウェーブみたいに、稲が順番にゆれていた。萌黄色の大海原みたいだった。
幼い頃はこういう場所を通るとき、船に乗る空想をしながら「出航!」とか言っていたな。あの頃は自分が面白いと思えるものをよくわかっていて、周りの目を気にすることなく、それにまっすぐ向かっていたと思う。
幼い自分の姿が、パン屋の話をしていたときの季さんと重なった。
なんだか、よくわからないことに巻き込まれてしまった。でも、家や学校と違う世界に行けるのは悪くない気がしていた。
翌日の放課後。夕方四時に季さんが自宅に来ることになっていた。動きやすくて汚れてもいい服装で、と言われたから、制服を脱いで黒いジーンズと茶系のシャツに着替える。それから、パン屋の開業準備って何をするんだろうと考えてみる。
パンについて知っていることといえば、朝食によく出てくるスーパーで買える食パンや、学校の近くにある「パン工房そら」の調理パンや菓子パンくらいだ。フランクフルト入りのパンとメロンパンが好きで、土曜日の部活が終わった帰り道、わざわざ遠回りして買いに行ってたっけ。
そんなことを考えていると、母親が帰ってきた。いつもよりかなり早い時間だ。
「ただいま」
「おかえり、こんな時間にどうしたの?」
「今日から季ちゃんのところでお世話になるんでしょ? 私も季ちゃんから連絡もらったのよ」
マジか。別に後ろめたいことはないけど、中三にもなっていちいち母親に連絡がいくのは面白くない。
「そんなことでわざわざ帰ってきたのかよ」
「大事なことでしょう。世間知らずの紫苑を連れて行くなんて、季ちゃんきっと大変だろうから、先に言っておいたほうがいいと思ったのよ」
「げー、言わなくていいよ」
言い合っているとインターホンの音が鳴った。母親がインターホンを受けて「はーい」と一段高い声で応じる。
「ごめんください、酒井季です」
昨日とは打って変わって、改まった様子の季さんの声がした。母親が玄関の戸を開けると、作業着姿の季さんがそこに立っていた。
「あかりさん、こんにちは。大事な息子さんをお借りしに来ました」
「季ちゃん、来てくれてありがとうね。紫苑、背は高いけど、あんまり器用じゃないの。役に立つかわからないけど、仲良くしてやってね」
このままだと母親のペースになる、と思い、おれは声を張り上げた。
「もういいから。大丈夫だから。引っ込んでてくれよ!」
「もー、最近いつもこんな調子なんですよ」
「中学生のとき、私もこんな感じだったと思いますよ」
「あら、そうなの?」
「はい。『一人で大丈夫だから』って言い張ってました。今思うと全然大丈夫じゃなかったんですけど」
季さんが笑う。母親も「そういう年頃なのよね」と言って笑った。「そういう年頃」と片付けられたおれは全然笑えない。この場を早く離れるため、もう一度声を張った。
「季さん、もう行きませんか?」
「あ、そうだね。話し出すとつい楽しくなっちゃって。じゃああかりさん、この続きは、次のヨガのときにでも」
「はい、楽しみにしているわね。紫苑、いってらっしゃい」
自転車の鍵を外していると、季さんが吹き出した。母親とのやりとりが面白かったらしい。
「昨日と全然違うんだね。ちゃんと子どもの顔してる」
「どうせまだ子どもですから」
「図書室にいたときは、大人っぽいなと思ったよ。家と学校で顔を使い分けてるのかな?」
「みんな、そういうもんじゃないんですか」
「うーん、『みんな』って誰だろう?」
季さんの質問にふいをつかれ、おれは間の抜けた言葉を返してしまった。
「『みんな』ってそれは……全員ってことじゃないんですか?」
「全員なんてあり得ないでしょう。『みんな』なんて幻想だよ」
そう答えると季さんは自分の自転車にまたがった。おれのと比べると古そうな自転車だったけど、手入れはされているみたいだ。
「よし、おしゃべりはこのくらいで。とりあえず、私についてきて」
季さんが走り出したから、おれも慌てて後を追う。
走りながら季さんを見ると、自転車のサドルからのびる足は、ダボっとした作業着に包まれているけど長そうだった。軽快にペダルを漕ぐ様子からして、何かスポーツをやってきた人なんじゃないかな。その姿は家で母親と挨拶をしていたときとは別人みたいだ。季さんも自分の顔を使い分けているのかもしれない。
農道を十分ほど走った頃、「石船戸遺跡」という看板のあるT字路で、季さんが左腕を肩の高さまで上げるのが見えた。そこで左折するらしい。
少し進むと今度は「紫球園」の案内の前で右腕を上げている。今度は右折だ。その後、やや細い道を進んだところで季さんは自転車を止めた。
「ここで引き取るものがあるから」
と言って、どんどん敷地の奥に入っていく。
「詩乃さーん、季ですー!」
季さんが声を張り上げると、前方にある倉庫から返事が返ってきた。
「季ちゃん、こっちこっちー!」
声のする方へ向かっていくと、山積みになっているダンボール箱の間から、手招きしている人が見えた。
詩乃さんは農作業用のつばが広くて大きな布のついた帽子をかぶっていた。目元以外はほとんど隠れていたけど、季さんの後からついてくるおれにも気が付いたらしい。
「あら、今日は一人じゃないのね」
「作業を手伝ってくれる、相馬紫苑くんです」
「ああ、相馬さんのところのー。こんなに大きくなったの。小さい頃によくブドウ狩りに来てくれたわね。うちのブランコが気に入ったみたいで、なかなか降りなくてね。でも妹さんが乗りたがったら、ちゃんと譲ってあげてたの」
詩乃さんの口から、自分でも覚えていなかった思い出を聞いて、顔が熱くなった。
このあたりに住んでいると、幼い頃の話を人から聞かされることがある。それはかなり恥ずかしい。「子どもの頃のおれ、頼むからそんなに出歩かないでくれ」と心の中で思った。
「あ、そうそう。季ちゃんにはアレを渡すんだったわね。ちょっと待ってて」
詩乃さんが倉庫の奥から黄色いコンテナボックスを持ってきた。
「まだ旬は先だから、少し小さめだけど」
中には巨峰が入っていた。見るからに新鮮そうだ。
「わあ、きれい! ありがとうございます!」
目を輝かせながら受け取る季さんを見て、詩乃さんは目を細めた。
「やっぱり季ちゃんは笑顔が一番ね。パン屋さんのスタート、私も楽しみにしてるから。晋さんと、貴久子さんにもよろしく伝えておいてね」
「あっ! おじいちゃんとおばあちゃんからも、詩乃さんによろしくお伝えするようにと言われました」
「季ちゃん、私が言わなかったら忘れてたでしょう」
詩乃さんの前でえへへーと笑う季さんは、小さな子どものように見えた。もう一度二人で詩乃さんにお礼を言って自転車のところに戻る。
巨峰の入ったボックスを自転車の荷台に固定しながら、季さんがおれの顔を見た。
「紫苑くんも、ここに来たことあったんだ。ちゃんとお兄ちゃんしてたんだねー」
「まあ……それなりに」
「私はひとりっ子だから、さっきみたいな話を聞くとうらやましいな。妹さんのことも、紫苑くんのことも」
一瞬、季さんの顔が寂しそうに見えたけど、「さて物資は得た。紫苑殿、参ろう」とか言いながら自転車にまたがって、そのまま出発してしまった。出遅れたおれは、慌ててその後を追いかける。
紫球園を出て、今度は255という標識のあるT字路に着いた。季さんのサインは右。折れたら水原町シードセンターの横を通り過ぎる。
その先は田んぼ、田んぼ、また田んぼだ。そして右側には防雪柵がある。この辺りは真冬になると暴風雪でホワイトアウトする。だから防雪柵が必要なんだ、と親父が言っていた。ぼんやりとした記憶だけど、浪江では見たことがないと思う。
この道をまっすぐ進むのかと思っていたら、季さんは右手を上げ、側道に入っていく。ついて行くと、季さんはレンガ色の小屋の前で自転車を止めた。おれの方を振り向いて「こっち」と合図し、小屋の中に入っていく。おれはその後を追いかけた。
小屋の扉は、長い間使われていないような感じがした。ドアノブを回すと、ギィィィっと音を立てて開いた。まだ日が落ちる前だというのに中は薄暗い。足元は土間のように地面がむき出しになっていて、壁際にレンガの山と、砂利の入った袋が置いてある。先に入ったはずの季さんの姿が見えないと思っていたら、奥にある扉から出てきた。
「ようこそ、私のパン工房へ」
そう言って季さんは、芝居がかった仕草で手を広げた。おれが状況をよく飲み込めなくて黙っていると、季さんは平然とこんなことを言った。
「見てのとおり、今はまだ空っぽ。これからつくるところだから。未来のパン工房ってところかな。紫苑くんに来てもらったのは石窯づくりに力を貸してほしくて」
「おれ、石窯なんてつくったことないですよ?」
「大丈夫、つくり方は私が教えるから。パンづくりの師匠のところでね、窯をつくり替えるときに一緒につくったことがあるんだ。そのときに使った図面もあるし、材料はもう大体そろってるから。後はつくるだけだよ」
「だけ……?」というおれの声は、季さんには届かなかったらしい。
「まあ今日は初日だから、ここの場所を見てもらうのと、石窯の土台づくりだけやろうかな。あ、私がつくったパンを食べてもらうのが先か。ここだとホコリがすごいから保管室に行こう。ついて来て」
保管室というのは、さっき季さんが出てきた部屋のことらしい。そこは他の場所とは違ってきれいに片づいていた。おれの家の二倍はありそうな、大きな銀色の冷蔵庫があった。壁際には小さなトースターやまな板などが並び、中央にある作業台らしきテーブルには詩乃さんのところで引き取ってきた巨峰が置いてある。
「季さん、さっきの巨峰はパンづくりに使うんですか?」
「ふふふ、これはねー特別なお楽しみ用なんだ。乾燥させて自家製レーズンをつくったらラム酒に漬け込んで、シュトレンっていう菓子パンにする。超贅沢! 考えただけで顔がゆるむよ」
そのゆるんだ表情のまま季さんは冷蔵庫に向かった。そして、おれが見たこともないくらい大きくて、すごく固そうな茶色いパンを冷蔵庫から取り出した。それを切るのに、ノコギリで木を切るように包丁を動かす。
きれいにスライスしたパンを、あらかじめ温めておいたトースターに入れると、香ばしくてどこか懐かしい香りが漂ってきた。レトロな音と共に焼き上がると、季さんはパンを皿にのせておれの前に差し出してきた。
「はい、まずは食べてみて」
渡されたパンはやっぱり固かった。これまで食べたパンで近いものがあるとすれば、フランスパンかな? でも、もっと中身が詰まっている。口に入れて驚いた。
「このパン、酸っぱい……」
こんなに酸っぱいのに食べても大丈夫なのか? それに醤油せんべいみたいな味がして、これまでに食べてきたパンとは全然違う。
「こういうパンを食べたのは初めてかな。私はパン種にルヴァン種っていうのを使ってるから、 乳酸菌が働いて、パンにも乳酸とか有機酸が残って酸っぱくなるんだよ。ヨーグルトの酸っぱさに近い感じかもね」
「パンなのにヨーグルト?」
季さんが言ったことの半分もわからなかった。でも、このパンが腐っているわけじゃなく、もともと酸っぱいものだってことはわかった。
「初めてだとおいしいと思えないかもね。私も子どもの頃はちょっと苦手だったなあ。全部食べられなくて、残して怒られてさ。全部食べなさいって」
そう言った季さんの目が潤んでいるように見えなくもなかったけど、おれの考えすぎかもしれない。
「このパン、今は酸味がきつい感じだけど、日が経つと熟成して食べやすくなるんだ。スープ系と一緒に食べるのがおすすめだよ」
季さんは話しながら残りのパンを丁寧に包み、冷蔵庫に入れる。
「持って帰って家でも食べてみて。大きいけど、塊のまま冷蔵庫に入れておけば二週間くらいはもつと思う」
パンを冷蔵庫にしまった季さんは、おれの方に向き直った。
「それじゃあパンの試食も終わったし、石窯づくりの説明をするね。ざっくり言うと、石窯づくりには構想、土台づくり、窯本体づくりの三つの工程があるんだ。紫苑くんに手伝ってもらいたいのは土台づくりのところ。ここから先は作業場で説明をするね」
保管室を出て再びがらんどうの部屋に戻ると、季さんが口を開いた。
「ここ、昔は豚舎だったんだって。近くの農家さんが豚の飼育をやめてから何年も放ったらかしてるって聞いて。そういうことならぜひ使わせてくださいって、ダメ元で頼んでみたんだ。そうしたら最初の二回は断られたんだけど、三回目にパンの師匠と一緒に頼みに行ったら『そこまで言うなら本気だろう』って譲ってもらえることになったの」
「普通、二回も断られたら諦めませんか?」
「普通って何? ここがいいと思ったら、粘るのが、私にとっての普通だよ。諦めるなんて無理」
その言葉で季さんとおれの感覚はかなり違うと気付き、口をつぐんだ。
「まあとにかく、ここを譲ってもらって保管室を整えたり、石窯づくりの準備をしてる。それで、肝心の石窯なんだけど今はこんな状態」
そう言いながら季さんが指差したところには、木の杭が六本打たれて、杭同士をつなぐように細い糸が張ってあった。
「石窯をつくる場所に水糸を張ったんだ。この後表面の土を掘って、バラスを入れて固めていくんだよ」
「水糸とかバラスって何ですか?」
「あー、そこから説明しなきゃか……。水糸はこれで、バラスはこれね」
季さんは杭の間に張られた糸と、近くに置いてあった小石の入った袋を指差した。はじめからそう言ってくれよ、とおれは少し苛ついた。
「今日は土台を固めたら終わりかな。ここ、まだちゃんとした照明を入れてないから日が暮れると作業できなくなっちゃうんだ。だから説明もここまで」
その後は季さんに言われるままに土を掘り、砂利をしきつめた。大した説明も受けてないのに、季さんが「もっと平らに掘って」とか「バラスはできるだけ隙間なく」とか、後から注文をつけてくる。それ、始める前に説明すればよくないか?
おれはさらに苛立った。でも途中で投げ出すのは嫌だったから、黙って作業を進める。
今日の分の終わりが見えてきた頃、季さんがパン屋の構想について話し始めた。
「私のパン工房では絶対にパンを捨てたくない。だからお店にたくさんパンを並べて売るんじゃなくて、注文を受けてからつくるつもりなんだ」
「夢の中でも『捨てないで』って言ってましたもんね」
「それはもう忘れてよ~。昨日は朝早かったから……」
そんな風に話しながら、砂利を入れたところを重たい棒で押し固める。力のいる作業だけど、季さんは慣れた様子だ。
「季さんはこういうの、得意なんですか?」
「開業のためにお金貯めようと思って、割のいい仕事を探したら土木系が多くてね。だから、少しは経験あるんだよ」
それならおれの手伝いなんてなくてもよくないか、って思ったけど、季さんのことをよく見たら、息を切らしながら作業をしていた。一人でもできなくはないけど、ちょっときついのかもしれない。そんなことを考えていたら、季さんの声で、またパン屋の話に引き戻された。
「それでね、開店してすぐに注文をとるのは無理だろうから、はじめは道の駅とか、イベントスペースとか、いろんなところに売りに行こうと思っているんだ」
「そんな形でやっていけるものなんですか?」
「やっていけるかどうかじゃないよ。その形でやることは絶対。だから実現するためにどうしたらいいか考えているところ」
おれには無謀な計画に聞こえた。おれが知っているパン屋は、行けばいろんな種類のパンがショーケースに並んでいて、その中から選ぶのが楽しいからまた行きたいと思う、そういう店だ。でも、もし注文しないとつくってもらえないんだとしたら、その店でパンを買おうと思う人はどれくらいいるんだろう?
そんな疑問が浮かんだけど、季さんの性格からして、聞いたら面倒なことになりそうだからやめておいた。和を乱さず周囲とつき合っていく、それがおれのやり方だ。
おれは幼い頃から両親に「地域の人との和を乱さないように」と口酸っぱく言われて育ってきた。浪江町から阿賀野市に移住してすぐの頃はなおさらだ。
阿賀野市の人たちはおれたち家族を温かく迎えてくれたけど、それも「被災した浪江町からの移住者」という肩書きがあったからだと思う。でも、そのせいで腫れ物に触るような態度で接してくる人もいた。そういう「かわいそうな人たちだから気を使おう」みたいな善意は、始めのうちはありがたかったけど、続いていくとストレスになっていった。
だからおれたち家族は周囲に合わせて慎重に言葉を選び、移住者であると思われないように行動することが習慣になっていった。
そうやって暮らしてきたおれたち家族と、阿賀野市で生まれ育った人たち。その間には、越えられない壁があるような気がする。そして季さんとの間にも、そういう壁があるんだろうなと思った。
その日の作業が終わった。送っていく、という季さんの申し出を断って、一人で家に帰ることにした。日が暮れたというのにじっとりと暑く、着てきたジーンズやシャツがまとわりついて気持ち悪い。心の中も昨日の夜のような軽さはなく、もやもやと曇っている。そんな気分だったせいだろうか。暮れた空は雲に覆われ、星一つ見えなかった。
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