ここだけの話。(作品ハイライト)




#1 先輩は、


「私、むかしからこの土地が好きじゃなくって。ずっと思ってたんですけど、新発田って変わりなくてつまらなくないですか? 私、早く東京行って、毎日景色がコロコロ変わるようなところで過ごしたいなって思ってて」
 高校からの帰り道。足元を見ながら呟く私のそんな言葉に、先輩は笑っていた。
「はは、ちょっとだけ分かるよ、でも僕は新発田も好きかな」

 先輩は私のふたつ上で、部活での関わりはたった数ヶ月しかなかった。
 それでも私のことをよく気にかけてくれて、こんなに部員が多い部活でも時々先輩が顔を出した時には絶対声をかけてくれた。誰とでも平等に仲良くするような先輩が、私のことだけはちょっと特別だって思ってくれてるみたいで嬉しかった。
 先輩が自習室から出る時間は部活が終わる時間とちょうど同じで、週三日の部活がある日は駅前までの十五分の帰り道を「暗いから」って送ってくれた。
 それから私も部活がない日は自習室に行くようになって、ほとんど毎日一緒に帰るようになった。新発田駅の向こうに家がある私と違って先輩は駅で電車に乗っちゃうから、逆に私が先輩を送っているみたいになってたけど、ちょうどいい距離感で横に並んで歩く、あの感じが心地よかった。
 先輩は私よりも背が高かったけど、いつも少し猫背だった。
 ある日の帰り道、秋の終わりの、気温が如実に下がり始めた頃だった。今シーズン初めてつけたマフラーが自分の視界にほんの少しだけ入っていた。隣を歩いていた先輩は、話が落ち着いた折を見て、ぽつりと言った。
「僕、東京の大学行こうと思ってるんだよね」

 先輩は新発田が好きって言ってたから、この土地に残って新潟の大学に行くんだとばっかり思っていた。だからあの帰り道でそう聞いて、すこしだけびっくりした。でも、先輩も私と同じように東京に行こうとしてるんだって知って、嬉しくもあった。
 その言葉通り先輩は東京のむずかしい大学に行った。ひとつ上の部活の先輩たちの噂によると、彼は文化構想とかいう学部に行ったらしい。
 私と先輩の仲が良かったことを知っている同級生はそれなりにいたけど、一緒に帰っているところを見た人はそんなにいなかった。みんなからは部活繋がりで仲がいいだけだと思われてたし、ましてや私が先輩に密かに思いを寄せているなんて、知っている人はたぶん一人もいなかった。

 先輩が卒業するときに伝えようと決めてた思いは、「第二ボタンください」のひとことも言えないまま桜と共に散っていった。

#2 村田って、

 私が高校二年生になって先輩が新発田からいなくなってから、放課後がちょっと暇になった。部活のない週二日、自習室に行く代わりに教室でひとり、ぼーっとすることが多くなった。
 出席番号順で決まった窓際の席はぽかぽかしていて居心地がいいし、教室は掃除が終わるとすぐ空っぽになる。

「水島、ひとりでなにしてんの?」
「あ、村田」
 ガラガラと申し訳なさそうなドアの音を立てながら入ってきたのは、村田だった。
 彼とは出席番号が前後だから、席替えがないうちのクラスでは今年になってからずっと席も前後だ。そんなに話したことはなかったから、いつもなにか考えていそうでなにも考えていなさそうな男の子だなとか思っていた。
「いやさー、教室に数学の教科書置いてきたことに、家着く三十秒前に気づいた。絶望だよね、明日の数学の予習諦めようかと思った」
 彼はそう言っていかにも重そうなリュックサックを机に置いて、教科書といつ配られたかもわからないプリントでパンパンになった机の中を探し始めた。
 家まで残り三十秒のところまで行ったんだったら家にリュックサックを置いてきたら良かったのに、とか思ったけど、それよりももっと言いたいことがあった。
「え、あのさ、数学明日じゃなくない? 確か金曜日だった気がする」
「うそ」
「ほら、時間割」
 後ろの壁に貼ってある時間割表を指差す。村田もその指の先を見る。
「……マジじゃん、損した。俺数学苦手だから絶対やっとこうと思ってせっかく戻ってきたのに」
 机の上のペンケースからシャーペンを取り出しながら、提案してみる。
「せっかくだし今やっちゃったら? ついでに私もやろうかな」

 彼は本当に数学ができなかった。数学が苦手というより、数学が下手だった。私も数学は苦手だけど、私が教えられるくらい、彼は数学が下手だった。苦手なのはベクトルの範囲だけだと言ってたけど、ベクトルの計算に使うための三角関数すらも怪しいくらいだった。
 初めて村田とちゃんと話した。会話のテンポもあうし、結構面白い人なんだって知った。明日、ちょっと振り向いてみて、後ろの席の村田に話しかけてみようかな、なんて思った。

#3 夏休みの、

 新発田駅から駅前通りをまっすぐ歩いている。
 私が小学生だった頃はこの通りにもまだ活気があったけど、最近はどんどんシャッターの降りた店が増えてきて、それなのに新しい店ができる気配がないことに正直呆れている。店が倒れていくだけのこのまちでこれ以上何ができるというんだろう、なんて思っていた。
 十分ほど歩くと喫茶店に着く。祖父の喫茶店はもう開店してから四十年以上、地元の人に愛されてきた。うちの高校の人たちはほとんど来ない、私の数少ない落ち着ける場所だ。
 先輩が卒業してから、私は小学生の頃のようにまたこの喫茶店に祖父に会いに通うようになっていた。

 村田とはあれからよく一緒に勉強をする仲になった。掃除が終わって空っぽになった教室で、窓際の席を向かい合わせにして勉強をした。
 高校二年の夏休み、補習を無事ギリギリ回避した私たちは授業もないのにわざわざ学校に集まるのも億劫だったので、祖父の喫茶店で勉強をすることになった。

 新発田駅前の雁木の下、干上がりそうなほどに暑いのに集まって話をしている町内会のご長寿の皆さん。熱中症で倒れないかちょっと心配で時々視線を送ってしまう。
 そんな私はベンチに座り駅前のデイリーで買った棒アイスを齧っている。溶けかけたアイスが棒から滑り落ちる瞬間に、村田が自転車に乗って現れた。
「あ」
「ごめんお待たせ、え、なに、アイス? いいな」
「へへ、あとひと口だったのに。あとでバニラアイス食べよっか」
「水島のじいちゃんの喫茶店ってなんでもあるの?」
「結構あるよ、私が好きなもの勝手に置いたりしてるし。裏メニューってやつね」
「それなんかいいね、ボトルキープみたい」
 そんな話をしながら歩く。駅前通りは雁木が日除けになるから、いくらか涼しい気がする。
「へー、俺ここら辺全然知らなかった。俺んち{五十公野}(いじみの)の方だからさ」
「え、じゃあ東中?」
「うん」
「私第一中」
「あ、じゃあ結構近いんだ」
「JR挟んでるからあんまりそう感じないけどね」
「俺一中行ったことあるよ、中学ん時部活の試合で」
「そうなの? 何部だったの」
「卓球」
「あーちょっと分かるかも、やってそう」
「褒められてるの? いま俺」
「高校で続けなかったの?」
「あー、入部はしたけどすぐ辞めちゃった。中学の時みたいにガチでやりたかったんだよね、高校の卓球部はなんか俺にはゆるすぎて」
 なんて、雁木の天井を見ながら話す村田。やりたいことがやりたいようにできないからって、やろうと思えばやれることすらも辞めちゃうなんて、私にはちょっと分からなくて、ふーん、なんて相槌を打った。

 一人で歩くとそれなりに長く感じる喫茶店までの道のりも、人と話しているといつのまにか着いてしまう。シャッター街に近いこの通りだから、開いているお店はわかりやすい。
 喫茶店のガラス戸を開ける。
 瞬間、クーラーの冷気とともにコーヒーでもCoffeeでもない珈琲の匂いと机の甘い木の匂いが鼻腔に届く。角地の店だから、夏の陽射しが店内に入り、テーブル席を仕切る磨りガラスに反射して柔らかく広がっている。
 店の中にある額縁とか置物とか、そういうアンティーク雑貨たちは私が物心ついた頃にはもうあった。祖父のお気に入りコレクションたちだ。
 カウンターの奥に祖父がいて、カウンター席のお客さんのためにコーヒーを淹れている。
「いらっしゃい、良いとこ、座れて」
 祖父の柔らかい声がした。入って左側の商店街沿いの席に座る。窓が大きいから店内で一番明るい場所だ。
「何にする?」
 村田がキョロキョロと店内を見回していたので、メニューのドリンクの欄を差し出しながら声を掛ける。
「ココアある?」
「あるある」
「あ、じゃあホットココア」
「ホットでいいの? 夏なのに暑くない?」
「うん、俺一年通してホットココアが好きなの」
 クーラーで冷えるから温かいものが飲みたくなるって気持ちはわからないこともなかった。けど、夏はやっぱりアイスココア派だ。
「おじいちゃん、ホットココアとアイスココアひとつずつねー」
「夏だってのにホットって、ええのか?」
「あ、俺一年通してホットココアが好きなんです」
 村田は、夏でも缶のホットココアが飲みたいのに、夏の自販機は売ってくれてないんだって嘆いている。この数十秒で二回も同じ説明をした村田に苦笑いをしつつ心の中で謝っておく。
「水島のじいちゃんの店、めっちゃ雰囲気いいね。なんかレトロって感じ」
 村田は店内を見回してそう言う。カウンターの奥の棚に入っている食器コレクションが気になっているようだった。
「でしょ、私が生まれるずっと前からやってるの」
「え、じゃあなんで店の名前が水島の名前なの?」
「私が生まれた時に名前変えたんだって、おじいちゃん私のこと大好きだから」
「なんかいいなー、俺のおじいちゃん厳しいからさ」
 村田は少し寂しそうな目をしてそう言った。ひとりっ子でそれなりに大事に扱われていた私と違って村田の家は兄弟が多いからそんなに構ってもらえないのかもしれない。

「はい、お待たせね」
 目の前に置かれるココア。結露したグラスと湯気を出すマグカップが同じテーブルに並ぶ。
 ありがとうございますと言って一口飲んだ村田は、大きめのため息をついて。
「え、めっちゃ美味しい、今まで飲んだ中で一番美味しいかも」
「ははは、それは良かった。おかわりあるすけ言いな」
 村田のその言葉に祖父は嬉しそうに返した。祖父のココアは家で作るよりも甘くて美味しい。理由を聞いたら牛乳と生クリームを混ぜて入れるんだよと教えてくれたことがあったけど、家ではどうにもうまく作れなくって、結局いつも祖父のところに来て飲んでしまう。
「で、」
 数学のワークと青チャートを広げながら本題に入る。夏休みに出されたこの課題を終わらせるために集まったんだった。
「やらなきゃ、これ」
 村田は途端にこの上なく嫌そうな顔をする。
「うえー俺マジで逃げたい。てか青チャなんて見たところで分かるもんなの? 入学した時に買わされたのに一回もちゃんと見てないよ。多分今頃ばあちゃんの漬物石。」
「え、見てみる?」
「いやいい、絶対見てもわかんないし」
「黄チャとか買ったらいいのに」
 黄チャ買ったところでできるようになる気しないし。だいたい俺高校数学は不等式の時点で絶望してるからいいの。
 とかなんとかぶつぶつ言いながら両手でマグカップを持ってホットココアを啜る村田。窓に入る日差しは夏なのにここだけ冬を切り取ったみたいで、でも袖はまくっている村田がどうもアンバランスで面白かった。
 そんな彼を置いて、私はアイスココアを一口飲み、数学ワーク討伐の旅に出た。

 ココア三杯分くらい数学ときどき古典と戦って、夏の日も傾くような時間になった。昼からやっていたからか、今日はいつもよりも長く勉強している気がする。
「あー、アイスたべたいかも」
 思い出したように村田が言った。そういえば、私がさっき言ったんだった。
「おじいちゃん、アイスある?」
 厨房に声を掛ける。祖父は顔を出して、手でバッテンを作った。
「ごめんねー。暑ぇすけ、買い出しに行けてねえのさ。ちょうど昨日切らした」
 残念、ここのバニラアイスはたぶんホットココアより美味しかったのに。
「まじかー。ごめん村田、期待だけさせちゃった」
「いや全然、時間も時間だしそろそろ帰るかな」
 そう言って村田は机の上に散らばっていた課題を片付けて席を立った。

 帰り道、また駅まで村田を送った。
 でもやっぱりアイス食べたいねって話になって、駅前のデイリーでパピコを買って、白新線沿いの私の家までパピコを食べながら歩いた。
 村田の自転車は二人乗りができるタイプの自転車じゃなかったから、べつにもとから二人乗りする気はなかったけど、村田は自転車を押して、ゆっくりふたりで歩いた。駅前で解散でもよかったのに、そっち方面の方が帰りやすいからって村田は言った。

 夏休みの間、私たちはその日の終わりにはかならず次の日の約束をして、今日が何日かもわからなくなるくらい毎日こんな日を繰り返した。

#4 夏休みも、

 八月二十一日は土曜日だった。その日も私と村田は喫茶店に集まって、一緒に勉強をしていた。
「進路希望調査表書いた?」
 A4の紙を取り出しながらの村田からの質問は、突然のように思えた。
「あ、私それの存在完全に忘れてた」
「始業式提出だよ、そろそろマジで考えないと」
「えーでも、正直まだ高二じゃん、後からでもどうとでもなるって思わない?」
「いやそれがさ、俺最近ちょっと悩んでて」
 村田の目は妙に真面目だった。そういえば最近、帰り道にこういう顔をしてることが多かった気がする。
「どしたの」
「俺、大学行くのやめようかなって」
 本当に突然だった、し、予想もつかないことを言うなあ、なんて妙に冷静になってしまった。
 うちの高校はだいたい学年の五分の一は地元で一番の国立大学に進学する。そうじゃなくてもほとんどの人が大学に進学するから、大学に行かないっていう選択肢があること自体が私にとっては不思議でならなかった。
「俺さ、そんなに頭良くないし、今から頑張ったところで行けるところなんて限られてるから、それならいっそ高卒で働いた方がいいんじゃないかなとか思って。」
「そうなの? でもべつに成績だって私とそんなに変わんないじゃん。絶対今から頑張ったら大丈夫だよ、まだ高二じゃん」
「そうなんだよな。でも、諦めるなら今のうちに諦めないと。中途半端に頑張ってから結局最後に無理でした〜ってなるのは、俺はやりたくないの」
「でも、先に諦めちゃってあとから行きたくなったらどうするの」
「だから覚悟がいるし、悩んでるの。俺の家兄弟多くてさ、親からしたら次男坊は働きに出てくれた方が助かる、っていうしさ。」
 難しい話だけど、村田の気持ちが最優先されるべきでしょと思って、聞いてみる。
「……村田は大学行きたくないの?」
「…………そりゃ行きたくないわけじゃないよ。だけど、俺もう挫折とか無力感とかそういうの味わいたくないんだわ。」
 そう言った村田の、ホットココアを見る表情をまっすぐ見ることができなくて、私は窓の外を見た。
 少しの沈黙があって、なんだか話が途中で終わってしまいそうだったから、何か言わなきゃって思って、絶対に今言うタイミングじゃないことが口に出た。
「でも私は、絶対東京行こうって思ってるよ」
「……え、水島東京行くの?」
「うん、あれ、言ってなかった?」
「うん、普通に新潟大とか行くんだと思ってた。」
「ううん、無理だよさすがに国公立は。五教科七科目できるほど要領よくないし。逆に私は村田も東京の私大行くんだと思ってたよ、数学やる気なさそうだったから」
「いや、東京は行かないかな。俺地元の方が好きだし、田舎だけど。そこそこなんでも揃ってるし。水島だけじゃないけど、なんでみんな東京に行きたがるのか俺にはあんまりわかんない」
 あんまりわかんない、の一言が引っかかって、つい言い返したくなる。
「新発田より東京の方が絶対楽しいよ。私、毎日同じ景色見るの飽きちゃったんだ。この道だって廃れてくだけで新しいお店とかできる気配ないし、なんか将来どうなるんだろうとか思っちゃうし。でも東京は毎日景色が変わるっていうじゃん、そこで暮らしてみたいの。それに、」
 それに、先輩が先に行ってるから。とは言えなかったから、「それに」をアイスココアで喉に押し込んだ。
「でも、絶対東京行くから。」
 村田は私の言葉に、ふーん、とだけ返して、テーブルが静かになった。それから喫茶店を出るまで、当たり障りのない会話だけをして時間を費やした。

 帰り道、新発田駅前。いつも寄っていたデイリーには行かないで、ロータリーの手前で右に曲がる。ずっと前だけを向いていた村田が、急にわたしの方を向いて話し出す。
「夏休みありがとね、おかげでだいたいの課題は終わらせられた」
「ううん、私も余裕で終わったから、助かった」
「俺たぶん、月曜から忙しくなるから、夏休み集まれるのは今日が最後だと思う」
「お祖父ちゃんの手伝い?」
「うん。俺んち農家だからいろいろ教えてやるって、じいちゃんが」
「そっか」
「水島のじいちゃんにもココアありがとうございましたって伝えといて。めっちゃ美味しかったですって」
「うん、言っとくね」
「ほんとありがとう。じゃあ」
「じゃあね」
 一瞬の迷いののち、三歩先で自転車に跨ろうとする村田の後ろ姿に問いかける。
「ねえ、わたしと村田って、ちゃんと友達だよね」
「うん」
 村田は首を傾げて笑って、わたしに手を振って先へ行った。はっきり分かったわけじゃないけど、なんとなく、これで終わりな気がした。
 村田とは、それっきり話さなくなった。

#5 受験ってさ、

 新学期が始まって、やっぱり席替えはなかったから、席は前後のままで。声くらいかけた方がいいのかなとか迷ったりしたけど、私が後ろを振り向くことはなく。
 ココアのダマみたいなごく小さなわだかまりだけが喉に引っかかっていた。
 村田と私はこれまでもクラスメイトといるときはそんなに話したりしてなかったから、私たちが全く話さなくなっても不思議がる人はいなかった。それから文化祭があったり中間期末考査の期間があったりしたし、修学旅行もあったけど、特に話すこともなかった。
 今年の夏のことは、紙袋に押し込んで冷凍保存したみたいに、そのまま固まっていた。

 第一志望宣言を提出して、私は東京に行くためにそれからの一年間を受験に捧げることになった。高校三年のクラスは、友達もそれなりにいて、当たり障りのないものになった。
 そういえば、学校で村田を見かけることが少なくなった気がする。
 クラスも遠くなったし、私もそんなに休み時間に廊下に出たりとかしなくなったからかもしれないけど。会ったら会ったでなんとなく気まずくなっちゃいそうな気がするから、逆にこれでよかったかなとも思う。
 部活も引退して、学校に遅くまで残る用事もなくなった私は、また祖父の喫茶店に通うようになった。祖父の喫茶店はいつも常連さんの適度な話し声が柔らかく広がっているから、心地よく勉強できた。
 祖父は、たったひとりの孫である私が新発田を出て東京に行くって言ってるのに、何も言わないでただ応援してくれた。

 時々、村田がふらっとこの喫茶店に来たりしないかなとか、考えないこともなかった。けど家の方向は逆だし来るわけがなくて、そのまま高校3年のなんのイベントもない夏が過ぎて、あるかも怪しい秋が終わって、冬の匂いがする頃になってきた。
 先輩の後を追って絶対行こうと決めた大学は、この時期になってもE判定のままだった。それでも先輩のいる学部に行くって決めてたから、やるしかなかった。ホットココアを飲みながら、祖父が店を閉めるギリギリの時間まで居させてもらっていた。
 迫る受験当日と勉強の進捗が、私を焦りへと追い込んでいく。でも、私には頑張る理由があった。窓際のテーブル席、雪が窓の外に高く積もっている。テーブルの端に置いたスマホの画面が点いて、通知が一件浮かびあがった。

   せんぱい:最近勉強捗ってる?応援してるよ

#6 東京に、

 三月四日土曜日は、卒業式の次の日だった。
 私はキャリーケースを転がして、祖父の喫茶店の前に来ていた。
「おじいちゃん、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
 私は祖父の優しい声に、うまく返事をすることができなかった。期待と協力に応えられなかったのに、祖父は私を優しく慰めてくれた。
「良えんだ、結果はどうあれ頑張ったんすけ、おめさんは東京行ってもうまくやっていけるさ。」
「……ありがとう。時々電話するね」
 それで私は喫茶店を出て、東京へ向かった。
 たぶん、つぎここに帰るときはこの喫茶店が終わるときなんだろうな、と、ガラス戸を振り返って少し考えた。

 新潟発、東京行きの上越新幹線の、発車のベルが窓から微かに聞こえてくる。座席に寄りかかって、スマホの写真アプリを開いて、昨日の卒業式の写真を見返す。
 真っ先に昨日開いてそのままだった三年二組のクラス写真が出てきた。
 スライドしていくと、仲良くしてくれていた部活の友達やクラスの女の子たちとかと撮ったツーショットがたくさん出てくる。友達にも恵まれて、なんだかんだ楽しい高校生活だったなんて思う。
 私以外にも、東京に出る友達は多くいた。他の子達は三月中に荷物をまとめたりして三月の下旬に地元を出るなんてことを言っていた気がするし、間違いなく私が一番初めに上京する自信がある。卒業式の次の日に意気揚々と東京に出ようとする人なんて私以外いないと思う。
 荷物はもう、進路が決まってすぐに借りた東京の学生マンションに送ってあるから、あとは身ひとつで東京に出るだけだった。
 なによりも早く東京に出たかった。むしろこの一年、それしか考えてなかったかも。新幹線が動き始めて窓の外の景色も変わりはじめたころ、ぼんやりと窓の外を見ながら、そんなことを考えていた。
 あーそういえば、村田に最後の挨拶するの忘れちゃったな。でもまあ、いっか。
 その時、テーブルに伏せておいたスマホが少し揺れた。
「先輩だ」
 スマホをひっくり返して通知を確認するよりも先にそうつぶやいていた。先輩とは、受験期もそれなりに連絡をとっていたし、ずっと応援してくれていた。先輩からのLINEを返す前に、少しスクロールしてトークを見返す。
 結局先輩と同じ大学には行けなかったけど、東京のほかの大学には受かりましたってことを伝えたときに、じゃあ迎えに行くから上京する日は教えてね! って、言ってくれていた。
 東京に出たっきりぜんぜん帰ってこなかった先輩に久しぶりに会えるのと、先輩と一緒に憧れの東京を歩けることが嬉しくて、舞い上がっている。

   今新幹線で向かってるところです!
   1時半くらいには着くとおもいます。

 そう返信して、たぶんもう帰省するとき以外は見ないであろう窓の外の新潟の景色を、もう少しだけ楽しむことにした。

 先輩からは「銀の鈴のところで待ってる」ってLINEが来てたけど、どこにあるのかわからないから、とりあえず地図を見ようと思って、駅構内をうろうろする。でも肝心の地図が見当たらない。目がちかちかするくらい多いスーツ姿の人たちの間を通り抜けながら地図を探す。
 東京駅は、思っていたより何倍も音に溢れていた。座っているだけで地域のおばあちゃんたちの井戸端会議が全部聞こえてしまう新発田駅前とは違って、耳を澄ませても何も聞き取れない。
 ちょっと頭がくらくらしそうになったそのとき、雑音をもかき分けるあの声が、私の背後から聞こえた。
「いた! よかった」
 絶対に聞き間違えるわけがないその声に安心しきって振り向くと、そこには先輩に似ていて、先輩よりもずっと東京の人間みたいになった先輩がいた。
 猫背気味だった背中はピンとしていて、すらりとした足は長いコートがよく似合っている。
 あの頃目にかかりそうなところまで伸ばしていた前髪は綺麗に分けられていて、あの頃は制服姿しか見たことがなかったけど、きっとあの頃より確実におしゃれになった。
 会えた嬉しさと、変化への感激と、少しの寂しさと、二年間のブランクを感じる。
「先輩、」
「久しぶりだね、元気してた?」
 ひとつだけ、安心した。先輩の笑った顔は変わっていなかった。

   先輩、今日はありがとうございました!
   久しぶりに会えてうれしかったです。
   また来週よろしくおねがいしまs|

 先輩に送る、お礼のLINEを考えている。
 帰り際に先輩は、バイトの休みは土曜日に入れてるから土曜日だったらいつでも会えるよ、って言ってくれたけど、「また来週おねがいします」なんて言っちゃっていいのかとか、かれこれ三十分は打ちかけの文面と睨めっこしている。
 大学からそう遠くない和泉の学生マンション。とりあえず大きな家具だけは出したけど、まだ小物たちは積み上がった段ボールの中に入っている。
 まだ乾かし切っていない髪のまま、木枠にマットレスを乗っけただけのベッドに横になって、今日のことを思い出している。
 あのあと私達は、山手線に乗って新宿駅に向かった。先輩の言うところによると、「東京に来たらまずは新宿でしょ! なにかがあるってわけじゃないけど」だそうだった。
 新宿は新発田とは比べ物にならないほど高いビルがたくさんあって、やっとこの景色を見れたんだとか、この風景が日常になるんだとか思うと、すごく嬉しかった。
 三時ごろに入った喫茶店は、山手線でこのお店がない駅はないというほどチェーン展開しているそうで、祖父のそれよりもシンプルだけどその分洗練されているように思えて、私は口角を上げながらカフェオレを飲んだ。先輩はブラックコーヒーを飲んでいた。
 東京のお洒落さにいちいち感動する一日だった。
 東京に来た当日なんだしいろいろやることもあるでしょって、ほんの数時間しか一緒にいなかったけど、いろんなことを話せたと思う。二年ぶりに会えた先輩の前で、多分に緊張しながら、よく頑張った、私。
 新発田ほどじゃないけど、まだ結構肌寒い東京の夜。乾かし切っていない髪をそのままにしていると上京早々病院のお世話になってしまうような気がするから、さすがに乾かそうと思ってベッドから起き上がる。
 ドライヤーはたぶん、まだ箱のなかだ。

#7 東京だ、

 二週間後の土曜日。東京に来てから初めて買った服を着て、新宿駅構内を彷徨っている。
 先輩の最寄り駅は高田馬場だから、京王線沿線住みの私と待ち合わせするには新宿駅がちょうどいい。でも、京王線からJRの改札の前へ行くのはまだまだむずかしいと思う。
 なんで東京ってこんなにクモの巣みたいな駅ばっかりなんだろう、来るたびに道が変わってるような気がするし。
 結局先輩へのお礼のLINEには「また来週おねがいします」なんて書けなくて、そのあとにやりとりした何通かで次の次の週の予定をたてる話へ持っていった。

「みっけ」
 やっと人混みを抜けてひと息ついたとき、後ろから待ち構えていたように先輩の声がした。ほんとうに先輩は私のことを見つけるのがうまいし、私は先輩の声を聞き分けるのが得意なんだ。
「せんぱい」
「おはよ、じゃあ行こっか」
 先輩が東京を案内してくれるっていうから、コースは全て任せてついていくことにした。
 まずは明治神宮に向かう。歩いて二十分くらいで着くっていうから、私たちは新宿駅を出て道沿いを歩くことにした。
「東京ってこんなに目的地と目的地が近いんですね」
「そう。一見遠そうだから俺の友達なんかは電車ばっかり使ってるけど、ほら俺らは田舎出身だから、二、三駅ぶんくらいは余裕で歩けちゃうよね」
「歩けちゃいますね」
 そんな話をしながら、私は、先輩の一人称が僕から俺に変わっていたことに気づいてしまった。それはこの二年間での変化を感じるには十分過ぎるほどわかりやすくて、少し残酷なほどだった。だから、私はそれに気づかないふりをした。

 日中は明治神宮、原宿周辺を散策して、夕方になったら恵比寿に移動して、夜はガーデンプレイスの展望台で夜景を眺めた。
「他の展望台もいいんだけど、ここはスカイツリーと東京タワーが一緒に見えるんだ」
「わ、ほんとですね」
「だから俺のおすすめ」
 新発田にいる頃から、東京タワーとスカイツリーは私の憧れだった。東京の地理感覚はまるでなかったから、同じ窓からふたつ同時に見られる展望台がほとんどないなんてことは知らなかったけど。
 手前の赤い三角と奥に小さく見える水色のすらりとしたタワーは対照的に見えて、私はそれに見蕩れていた。
「……東京だなー、」
 そんなふうに呟いた私を斜め後ろで見ていた先輩は、ふと一歩近づいて、私の頭に手を伸ばした。
 突然の出来事だった、頭を撫でられた私は振り向くことができなくて、そのままふたりで、ひとつの窓から東京の夜景をまたしばらく眺めていた。窓ガラスに反射して微かに映る先輩と私は、きっと、東京じゅうで一番幸せに見えていた。

 帰り際、丁度桜が咲いてるから見に行こうって話になって、目黒川沿いの桜並木を歩いている。桜の花びらたちが街灯に呼応してちらちらと笑っている。
 桜は散ってもまた咲く。待っていれば毎年、同じ時期に。
「俺今年は就活があるから忙しくなるけど、いつでも呼んでくれていいからね」
 先輩は桜から目を離して私の方を向いて、そう言って笑った。私は、この人のこの顔をずっと見ていられればそれでいいな、なんて思った。
 そう思いながら先輩の瞳を見て、たぶんこの人もそう思っているんだろうな、と、少しの希望をのせながら思った。
「ありがとうございます、じゃ、よろしくおねがいします。」

#8 新生活と、

 新生活はびっくりするくらいスムーズに始まった。
 大学には意外と地方から来た子が多くてすぐに馴染めたし、結構たくさんの人と知り合いになれた。それなりに充実した毎日を送れるようになって、ほんの少しだけ抱えていた上京への不安なんか気づいた頃には飛んでいった。
 段ボールだらけだった部屋はすぐに大学生らしい一室になって、靴箱の上には3連フォトフレームを飾った。連なっているその写真の真ん中は、ガーデンプレイスの屋上から撮った夜景だ。
 毎朝、玄関の靴箱の反対側に置いた全身鏡で身だしなみを確認して、鏡の中に映る写真を見て、家を出る。かなりQOLの高いルーティーンを送っていると自負している。

 先輩とは、あれから結構な頻度で会ったし、いろいろなところに行った。
 たぶん、恋人という名前をつけてもいいというような関係なんだと思う。はっきり口にするのはどうにも恥ずかしいから、言葉にはしてないけど。
 先輩の就活予定とわたしの少し多めに履修した授業の合間を縫って、少なくとも月イチ以上は会った。私より二年先に東京の人間になった先輩に案内してもらって、田舎出身のふたりで歩いて東京巡りをたくさんした。浅草橋から浅草経由で上野に行っても体力はありあまっていた。
 私の家でもう何度見たかもわからない恋愛映画を見たあと、深夜三時半に首都高四号の高架下に躍り出て、行く宛てもなくふたりで歩いた。時計の針が止まって見える現象のことと、ミネイロンの惨劇のことを、映画をなぞるように何回も話した。
 新しい机を買うために先輩の車でわざわざ船橋のIKEAまで行って、ついでにゴールデンレトリバーみたいな犬のぬいぐるみを買ってもらった。「きなこ」と名付けたその犬はいま、私のベッドを占領している。
 それなりに充実した毎日だ。そう思いながら、気づいた頃には東京に来て二回目の桜も散って葉桜になっていた。

 五月も半ばを過ぎて、陽射しも暖かいというよりも少し暑いというほどになってきた。
 先輩の就活は順調に終わりを迎えようとしていた。

   せんぱい、面接どうでした?

   結構いい感じかも!
   来週会ったときいろいろ喋るね

   楽しみにしてます(^ ^)

 ベッドに腰掛け、トークを開いて画面を眺めている。先輩との会話は数日前で終わっていて、小さくため息をつく。明後日また会う約束をしてるから、きっとそろそろ連絡が来る。
 その時、スマホが震えて着信音が鳴った。祖父からの着信だった。通知をタップして電話に出る。
「おじいちゃん」
「なじらね、元気してるろっか」
 電話越し特有のくぐもった祖父の声を聞いて、きっと喫茶店のカウンターに置いてある固定電話からかけてるんだろうなと思った。
「なじょも、毎日楽しく過ごしてるよ」
「そうかい、そりゃよかった。さっき、おめさんの母さんが来てよ、おめさんの話になったもんだからさ、どしてるろっかね、って気になってさ」
「そっか、そういえばこの前の仕送りありがとうね」
 母が毎月送ってきてくれる仕送りの段ボールには、時々祖父も何かを入れてくれる。
「いんや、そんくらいしか送れねぇすけさ。ココアもたくさん入れたすけ、飲んどけて」
「うん、ありがとう、でもあのココアはおじいちゃんが作るから美味しいんだけどね」
「ははは、なら飲みに帰ってこいて。去年は帰ってこねかったんだすけ、今年は夏休みとかに帰ってくるんろ」
「あー、予定が見えないからまだわかんないかも。」
 と言いながら、壁にかけてあるカレンダーをめくって確認する。七月も八月も、ほとんど予定は埋まっていた。大学生活に夢中で、新発田に帰省することをそこまで考えてなかった。でも、先輩も今まで一回も地元帰ってないだろうし。
「そうか。まあ、いつでもいいっけさ、たまには顔を見せれて。おめさんは孫なんだすけ」
「そうねー、行けるときに行くね」
「そういやあ、最近は村田くんがよう来るんさ」
「村田が?」
 村田のこと、すっかり忘れていた。
 高二のころに時々一緒に勉強したような記憶がある。夏でもホットココアしか飲まないようなやつだった。
「村田くん、農協で働いててよ、この辺で働いてるんだろも、毎日来るんて」
 なんとなく思い出した。たしか、高卒で働くとか言ってたっけな。三年も経てば、いろいろ覚えてないこともある。
「村田かー。元気そう?」
「元気だて。孫みたいでさ。ははは」
「そっか、よかった」
 それから数十分、近況報告とかをしたけどなんとなく上の空だった。
 村田か。結局卒業式のときも話さなかったんだよな。そういえば、なんで話さなくなっちゃったんだっけな。
 電話越しに、祖父の「ああ、山田さん!」という声が聞こえる。
「じゃあ、常連さん来たっけさ、また今度」
「うん、ばいばい」
 思い出したついでに、村田に久しぶりに連絡してみようかと思ったけど、考えてみたら、村田のLINEのアカウントすら持っていなかった。
 背伸びをして、ベランダに出ようと立ち上がる。IKEAで買った犬のぬいぐるみの横に放ったスマホが通知音を鳴らした。

   せんぱい:明後日、何時にする?
        新宿待ち合わせでいいかな

 通知をちらっと見て、後で返そうと思いながら窓を開ける。初夏の匂いがした。

#9 新宿と、

 東京に来てから三度目の桜が咲いて、先輩は大学を卒業して、内定していた外資系大手企業に入社した。

   今度入社祝いしたいんだけど、いつ頃会えますか?

 敬語とタメ語が入り混じったようなLINEを送る。敬語じゃなくていいのに、って何回も言われているのにいまだに敬語が抜けない。
 IKEAで買った机の上に三越の紙袋が置いてある。入社祝いのために買った腕時計は、もう三週間くらいそのままになっている。
 去年は先輩の卒論が忙しかったり、私も一年生の時より授業を多く入れたりサークルの活動も本格的になったりしたから、一昨年よりは会う頻度が下がって会わない月もあった。
 だけど、それでも夏休みには小旅行もしたし、ふたりの関係は大丈夫だと思っていた。大丈夫なままだと思っている割には連絡の頻度も確実に下がっていたし、半ば大丈夫だと思い込んでいるようなものだった。

   あー、来週の金曜日の夜なら空いてるかも

   わかった! 近くなったらまた連絡します

 最近、先輩の語尾に「かも」が付くことが多くなった気がする。それだけじゃない、最近先輩のことばや動きのひとつひとつに気になるところが増えてきた。
 多分私は、気づかないふりをするのが上手いんだと思う。

 四月二十五日は金曜日だった。夕方の五時半過ぎ、新宿駅南口の、いつもの待ち合わせ場所に私は立っていた。
 手には入社祝いの腕時計が入った紙袋を提げて、右手のスマホでインスタグラムを開く。私は昔からあんまり写真投稿とかするタイプじゃなかった。写真はよく撮る方だけど、インスタに載せて人に見せるより、自分ひとりで見返すほうがいいと思っていた。
 そういえばこの話、この前先輩としたな、先輩もインスタに写真は載せないタイプだったな。そう思いながら、フォローしている人たちのストーリーを見ている時、先輩からLINEが届いた。

   ごめん、今日行けなくなった。
   明日でも大丈夫?本当ごめんね

 先輩は言い訳をしないタイプだった。理由を言ってくれないタイプだ、なんて表現してもいいのかもしれないけど、先輩は言い訳をしないタイプだ、って、あえてそう言っておく。

   わかりました、じゃあ明日のこの時間で

 たぶん、入社直後はいろいろ忙しいんだろう。だからしばらくはしょうがないや。しばらくしたらまた、前みたいに沢山会えるようになる。
 今日が明日になっただけ、だから大丈夫、大丈夫。

 折角というほどでもないけど、新宿に来て何もしないで帰るのももったいないと思ったから、サザンテラスのスターバックスでホットココアを買ってそこら辺を散歩することにした。ココアのブレべミルク変更は想像の数倍は甘くて、祖父の作るホットココアの味に少し似ていた。
 新宿駅南口とNEWoManの間の甲州街道を、新宿御苑方面に向かって歩く。
 ムラサキスポーツの上のカラオケまねきねこで朝まで歌い続けたこととか、船橋のIKEAに新しい机を買いに行く前にここの都市型IKEAで下見をしたけど、結局気に入るものがなくて船橋まで行くことになったこととか。街並みを見ながら、そんなことを思い出す。
 IKEAの前で左に曲がってしばらく進んだところには花園神社があって、なぜか私たちは唐獅子像の細道の方からその神社を見つけたんだった。ちょうど桜が散ったあとだったから、また綺麗に咲いた頃に来ようね、なんて話をしたっけな。街の景色ひとつひとつに思い出が結びついている。
 新宿と私は、先輩とともにあった。

 新宿の大衆居酒屋で飲みながら話す。各々が各々の会話を展開させているこの空間は、聖徳太子が現代に現れたとしても一人分すら聞き取れないくらい混沌としている。一ヶ月ぶりの先輩は、すでにスーツベストを着こなしていた。
「最近どうですか?」
「最近ね、すっごい忙しい」
「会社の雰囲気とか」
「あー雰囲気ね、みんな楽しそうだよ。同期も結構いい感じ」
「よかったです」
 食べかけの焼き鳥の串を揺らしながらそう話す先輩は、さっきからずっと斜め下しか見ていない。私は、そろそろプレゼントを渡そうと思って、紙袋を持ち上げながら話しかけようとする。
「あの「あのさ」
 先輩も、私と同時に話し始めようとしたらしかった。
「あ、ごめん、なんか言おうとした?」
「あ、じゃあ先、どうぞ」
 先輩は、ずっと斜め下しか見ていなかった視線を私の方に移して、この上なく言いにくそうに話し始めた。
「あの、さ、俺ら、もう会うのやめよっか」

 もしこのとき私から先に話していたら、何かが変わったのか。
 それとも、腕時計を渡せたところで結果は同じだったのか。
 先輩は、この二年と少し、いや、高校生の頃から、私のことは妹のように可愛がっていたと言った。それは、私と先輩の関係が「先輩と妹みたいな女の子」以上でも以下でもないことを教えてくれたようなものだった。
 社会人になったらいろいろ変わることも多いし、もう今までみたいな関係じゃいられないと思う、だからもう会わない方が良いかもしれない。私の方だって今年は就活で忙しくなるだろうし、同輩ともっと遊んだ方が良いと思うよ。
 先輩のとっ散らかった主張をまとめると、だいたいこんな感じだった。
 じゃあ先輩は、今まで私のことをなんだと思いながら私と会っていたんだろうか。少しでも、私との時間に何かを見出してはくれなかったのだろうか。
 それだけじゃない、いろんな気持ちが頭をよぎった。それで、なにか言い返そうと思って、先輩の目を見て、何も言えなくなってしまった。
「じゃあ、そうしましょう、楽しかったです、今まで」
 グラスに残っていたレモンハイを飲み干して、お代を置いて席を立った。
「でも、私は、先輩と知り合ってからずっと、先輩のこと好きでしたよ」

 京王線のホームで電車を待っている。紙袋はまだ私の手の中にある。
 外部音取り込みモードにしたワイヤレスイヤホンから、電車の接近を知らせるアナウンスが聞こえる。音楽は聴かずに、ただ閉塞感のあるホームの音を聞いていた。
「これ、どうしよ」
 紙袋を見ながら呟いた声は、隣で並ぶサラリーマンに届く前にホームへ滑り込む電車の音にかき消された。

 結局、私だけが大丈夫だと思い込んでいただけで、はじめから何も大丈夫じゃなかったってことだ。先輩の言葉が「別れようか」じゃなくて「会うのやめようか」だったことで、すべてが分かった。
 あんなにすぐに帰らなくても、もうちょっと未練がましく思い出話とか仕掛けてみてもよかったかな、どうせ最後だったんだし。なんてこと、ぼんやり考えながらさっきの先輩の表情を思い出す。
 ああ、いいや、あの人に何を言ってもどうしようもなかったな、たぶん。
 それに、去り際は綺麗な方が美しい。
 アスファルトの上に散らされた桜の花びらたちが、人々に踏まれて茶色く貼りついていた。

#10 それでも、

 それから就活が本格的になって、あの人のことで感傷に浸る暇なんてなくなった。
 キャンパスも変わって家から遠くなったけど、幸い一、二年の頃の私が授業を多めに履修しておいてくれたおかげでそこまで忙殺されることもなく、淡々と日々が過ぎていった。
 それでも東京駅を使うときには上京一日目に先輩と会った時の、あの高校の時から何も変わっていなかった笑顔を思い出してしまうし、IKEAのゴールデンレトリバーはまだベッドを占領したままだ。

 帰路につく京王線の車内で、インスタグラムを開く。ストーリーのトップに、見慣れたアイコンがあった。先輩だった。インスタには投稿しない派だったのに、珍しいな、なんて思って、軽い気持ちでストーリーをタップする。
 見覚えのある場所だった。
 というか、私がこの前やっと写真立てから取り出して破いてゴミ箱に捨てたその写真の、その場所で間違いなかった。東京タワーとスカイツリーが見える場所。
 先輩が「だから俺のおすすめ」って、言ってた場所。
 きっと、同僚の女の子と行ってるんだろう。あの人の常套手段なんだ。
 はじめから何もわかってなかった先輩のことが、もっとわからなくなった。これ以上、知らない姿を覗いて知ってしまうくらいなら、全部知らない方がいいや。
 先輩のインスタのプロフィールを開いて、右上を押して、赤字を押した。
 さっきまで灰色の「メッセージ」のバーだった場所が、水色の「ブロックを解除する」になった。

 夏、インターンの帰りにふと立ち寄った神宮前交差点、新しいビルが完成しているのを知った。上京して間もない頃、先輩に案内してもらって初めてここに来た時は、まだ工事中の仮囲いがあったはずだ。交差点を渡りながら、グランドオープンの看板すらもうないそのビルを見つめた。
 思い返してみると、それだけじゃなかった。むかし先輩と立ち寄って雪見だいふくを買ったコンビニがいつのまにか駐車場になっていたり、好きだった本屋さんが閉店して空っぽになっていたり、二人乗りをした公園のブランコが使用禁止になっていたり。最近、そういうことばっかりが目に付くようになった。
 東京は毎日のように景色が変わっていく。
 東京のこういうところが好きでこの土地に来たかったんだよなと、この二年間いちいち感傷に浸っていた。なのに、ここにきて、変わっていく東京が私の思い出をひとつひとつ塗り替えていってしまうような、やっと見出した東京での居場所がすり減っていってしまうような、そんな喪失感をおぼえた。
 東京の景色はどんどん変わっていって、東京の人たちも変わっていくのに、私だけが変われないままでいる。私だけが、電池が外された時計みたいに、初めてこの場所に来たときのまま、止まっている。

 あるかも怪しい秋が終わって、息を吸い込むと鼻がツンとする季節になった。
 たん、た、とん、たん、と、鉄階段を降りる音がバラバラに混ざる。
 東京の冬は滅多に雪が降らなかったけど、去年のクリスマスは確か雪が降っていたような、それで貿易センタービルから雪の積もる東京タワーを眺めたんだ。先輩は、展望台に登ったら東京タワーが見えなくなっちゃうから、東京タワーは近くのビルから眺めた方が良いんだって、言ってたな。
 なんて、ゼミで知り合った男友達と赤い鉄骨の階段を降りながら考えている。物を落としそうな金網のすきまから、冷たく乾いた空気が吹き寄せてきて、私はコートの袖口を伸ばして指先を隠す。
 それから彼に連れられて、薄っぺらいレトロを売りにしたような喫茶店に入った。最近よく流れている曲ばかりが流れている店内。クリスマスシーズンはだいたいこの三曲ばかりが耳に入る。
「……ね、水島ちゃんもそう思うよねー」
「うすい。あ、じゃなくて、え?」
「え?」
 ホットココアの味がどうにも薄くて、彼の話は全然頭に入ってこなかった。

#11 そろそろ、

 ふらふらした毎日を送りながら、気づいた頃には秋冬インターンも終わって、年を越して、同輩たちも次々に内定が決まっていくような、そんな時期になっていた。
 私もそれなりに就職活動をしてきたはずだったのに、はっきりした見通しは立っていないままだった。

 今日も面接を受けた。
 会場を後にして傘を差し品川の街を歩く。履き疲れたパンプスは、雨の街を歩くにはさらに不便だ。雨宿りしようと足早に港南口から品川駅に入る。さっき水溜りを踏んでしまって、足先から冷えてきている。
 ホームで何か飲み物を買おうと自販機を眺める。どの自販機でもだいたい右下にあるはずのホットココアが、この自販機では売っていなかった。
 この寒い時期にホットココアが売ってないなんてこと、あるんだ。と思った時に、夏の自販機は缶ココアを売ってくれないなんて嘆いていた村田のことを、急に思い出した。
 そういえば元気にしてるのかな、なんて、ぼんやり考えた。スーツ姿の人々が立ち尽くす私の背後を通り過ぎていく。
「東京、さむ、」
 家の近くの自販機には、缶ココアは普通に売っていた。

 内定が出ないまま大学四年になって、もう数ヶ月が経とうとしていた。まだ大丈夫、なんて言い聞かせながら、全然大丈夫なんかじゃないとは気づいている。
 似たような会社たちに画一的な志望動機を話すだけじゃダメなんだろうってことは薄々分かっていた。だけど、それしかできない日々を繰り返していくうちに、自分は本当は何をしたいのか、分からなくなっていた。
 ただ、東京という場所に憧れているだけだったのかもしれない、絶えず変わっていくこの街の一員でありたかっただけなのかもしれない。東京に流されきれなかった数年後の私がどう思っているのかは、分からない。
 誰にでも居場所が提供されるこの街に、私の本当の居場所は作れるのだろうか。そんなことを考え始めていた。
 ただ、木の幹みたいに大きくなった私の東京に居るという意地だけは、しおれることなく葉を茂らせ続けていた。

 今月の仕送りには生活用品といつもの粉ココアとともに、祖父からの手紙が入っていた。相談したいこともあるし、そろそろ顔を出してくれというような内容だった。
 東京に来てから毎日をしがみつくように過ごしていたからか、一度も帰省していないことすら忘れていた。そういえば、成人式にも行かなかったっけ。
 今日はゼミに用事がある。少し早いけど、そろそろ家を出る時間だ。手紙をテーブルに置いて、カバンを探して玄関まで行く。
 パンプスを履いて、靴箱の上の写真立てに入れたサークルの友人たちとの片瀬海岸での写真を、鏡越しにちらりと見る。
「一回、折れてみる?」
 玄関前の全身鏡に映るスーツ姿の自分に、問いかけてみた。蝉の声が、鏡のむこうの私にまとわりついていた。

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