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百人百色#3 三羽さんの企画
三羽さん、よろしくお願いいたします
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#3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂
【1761字】
あれはいつのころからだろう。君のことを思うようになったのは。これまで過ごしたしあわせな日々のこと、些細なことで憤ったこと、さまざまな景色が蘇る。
君と出会ったのは桜の散るころだった。祇園の切り通しを抜けた辰巳のお社の辺りは仄かに明るかった。桜が舞う最中の君に、私はぼんやりと立ち尽くすばかりだった。目に映る景色が現実のものとはとても思えなかったからだ。
舞妓だった君はまだ十代だったはず。石畳の道沿いにぽつぽつと灯ったぼんぼりの下の君はしかし、得も言われぬ色香があった。今から思えば、私はその時、初めて女性の美しさを知ったのかもしれない。
君が石畳をおこぼを鳴らして歩く様は、奇跡のように思えた。
あっ!という君の声で私は我に返った。あの時、鼻緒が切れたのは、啓示ではなかったかと思ったりもする。
私は自分でも驚くほど素早く君の元に近づいていた。自分の靴を脱いで、君の足置きにした。そして懐の手拭いを歯で裂いて鼻緒を直した。しかし君はあの時の私のことなど覚えてもいないだろう。
「おおきに、おにいさん」
君はそう言った。私は切り通しを抜けて、宵闇に揺れるだらりの帯を見えなくなるまで見送った。
あの時、私はどうして後を追わなかったのだろうと、振り返る。
私は白川の川筋を辿って鴨川に出た。黒い闇から流れの音だけがしていた。私はその黒の中に身を沈めて歩いた。自分の中の沸き立つ気持ちを抑えたかった。黒い川面に浮かぶのは幻のような君の幻だった。冷たい風に吹かれながら、丸太町の我が家までふらふらと歩いた。
桜がすっかり散ってしまっても、私は君がいるはずもない切り通しに幾度も通った。君は舞妓。到底私には会いにいく術はない。なにしろ名前さえ知らないのだ。
毎晩、床に就いて見上げる闇には、君の姿があった。しかし実際に訪れる巽橋から、煌めく川面を眺めると、君の姿がどこで思うよりも鮮明に浮かび上がる気がした。
表の作業場で団扇を作っていると、外からおこぼの音がして目を上げた。こんなところをおこぼで歩く御仁などいるはずもない。障子の向こうを杖を手にした老人らしき影がゆっくりと通り過ぎて行った。
目を手元に戻すと団扇の骨が菊の花のように綺麗に開いていた。竹で作られる骨は団扇の形になるのには時間がかかる。一本の竹を鉈で細く細く割き、櫛形の木を噛ませて形を整える。そしてその形を固定させるために熱を当てる。しっかり骨が団扇の形に定まったところでやっと和紙を貼ることができる。
京都にある五つの花街からの注文もある。上七軒、先斗町、祇園東、宮川町、そして祇園甲部。
君がいたのは甲部。だからといって必ずしも甲部の舞妓さんとは限らないが。振り返ってみても、どんな柄の着物だったか、襟元はどんな柄だったか、どんな花簪だったのか、全く思い出せない。ただ、君の幻が浮かぶばかりだ。
ご贔屓の甲部から注文が入った。団扇には朱の文字で源氏名が入る。真菊、真千、美千子・・・この中に君の名前もあるはずと思うだけで心が躍った。
しかし祇園甲部の舞妓は百人にもなる。君の名がどれなのかはわかりようもなかった。
私の思いは空に浮かぶ雲の形のようなもの。それもひと月も前に見た雲を思い返すようなもの。
竹屋町での商談を済ませて、渡ろうとする信号が青なのを見て、私は歩を速めた。すると後ろから声がした。
「おにいさん」
「え?」
そこには普段着の女の子が立っていた。その美しい佇まいに背中が竦んだ。信号は点滅を始めていた。
「先日はおおきにどした」
「え?」
「鼻緒どす」
「ああ、あの時の、切り通しの舞妓さん」
「へえ」
「あの、お名前は」
車が走り出す音に言葉はかき消された。
「まことどす」そう聞こえたように思った。
目が覚めた。仕事場でついうとうとしてしまったらしい。
「まこと」
団扇を探すと「舞妓 真琴」が確かにあった。私はその団扇をさらに一握作った。あんなにも鮮明な夢はきっと何かのお告げだという気がした。
焚いたはずのない線香の香りがしていた。隣か、それとも裏からか、強い香りが漂っていた。
それからは団扇を床に持ち込んだ。奥深い闇の中、ほんのりと白い団扇に朱の「真琴」の文字が浮かぶ。それだけでしあわせだった。
時には団扇を手にしたまま、鳥の声を聞くこともあった。些細なしあわせ。しかしただそれだけが生きている喜びだった。
了
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