音楽は開いたドアや窓から燃えかすのような夏の通りへ流れ出ていく
昨日は服を買った。服を買うときはみんな何を考えているのだろう。人といると、結構沢山、「これかわいい」という話になってきて、それは一応、会話の糸口としての面もあるし、実際にそれなりに「かわいいな」と思えるものは沢山あるのだけれど、なんというか、そこに確固たる「これだ」感がないと、わたしは妙に手に取れなくって、いやそれも含めてみんなそうなのかもしれないけれど、何周もして、ようやくなんとなく自分の中で「これかもしれない」という哲学(というには言い過ぎだけれど)が着々と積み上がっていって、おぼろげながら運命的な、これだなあ、という確信めいたものが訪れるのを待つので、すごく時間がかかるのだけれど皆さんどんな感じですか。小さい頃から服を選ぶのに慣れているひとはそんな時間はかからないのかもしれないし、わたしの言っていることがさっぱり分からんの、という人もいるだろうけれど、昔オペラの演出をした時に、衣装を担当してくださった方が「身に付けるものには自分の感覚を通したいよね」とおっしゃっていて、それが妙に胸に残っているのだ。やっぱり少し運命論的に、まるで自分の魔法の杖を選ぶみたいに、着る服や、できれば、家具だったり文房具だったり、しまいにはだけれど、毎日のように触れる音楽や本や映画だって、選びとっていけたら、それはすこぶる紳士的だなあ、と思う。雑食であることも勿論大切なのだろうけれど、そこらへんは塩梅なのだろうけれど。古着屋で気に入ったものを沢山買って日変わりで着る、なんていう着方だって、取り敢えず売れているものや、安い家具や文房具や、音楽や本を買うことだって勿論ありだろうから、これはわたしの、それも気分に大きく左右された考えだとは思うのだけれど。
電車に揺られながらモニク・アースのラヴェルを聴いていて、またアリス・マンローの短編集「ピアノ・レッスン」に書かれていた一文を思い出す。
「白髪の女の子は見苦しい格好でピアノに向かって座り、頭を垂れ、そしてその音楽は開いたドアや窓から燃えかすのような夏の通りへ流れ出ていく」
なんだか最近はずっと、自分がクラシック音楽を好きだということが、その理由も含めて、改めてわかってきたような気がしていて、生活は少しずつ、「何かしなくちゃ」という焦燥よりも「このままで」という落ち着いた認識に変わってきている。それが良いのか、悪いのかは置いておいて、随分と生活にゆとりが出てきたように思う。