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1月の日記-しなくてもいい

日々が常にわたしのわたしさを明かし続けている。そのことに、わたし以外の誰も気がつくはずはなく、そっと耳打ちしてくれることもない。わたしの日々はわたしのもので、それは確かに尊さを含んでいるけれど、日々はわたしのためにあるのではなく、ただ、そこにあるようにあるだけだ。言葉がいつも真ん中に辿りつけず、周縁を点々と跳ねてばかりいる。

2024 日記を書くこと

0126
仕事が終わらなかったんだけれど、12時過ぎくらいに帰った。どうしても行き詰っていることがあって、それを考えるだけで頭がズキズキとした。寒い道を君島大空聴きながら帰って、一つ一つの動作を確かめるようにゆ〜っくり服を脱いで、シャワーを浴びて、化粧水をして、お布団にはいって40分くらい目を閉じていたら、ようやく「あ、こうしたらいいじゃん」って浮かんで飛び起きて携帯にメモをした。6時にかけていたアラームを7時半に設定しなおして寝た。

0127
朝から駆け抜けるように仕事をした。とりあえずここまできたら一旦業務に丸がつく、という日だった。9時過ぎに帰れた。家には脱ぎ捨てられた服やら飛び散っている(ほんと飛び散っているという形容がふさわしい)髪の毛やらがたくさんあって、ちょっと掃除をして、でも眠くて、とりあえず寝た。

0128
テリー・ライリーのコンサートに行った。赤ちゃんが泣いていても音楽の妨げにならない、どころか、赤ちゃんの鳴き声すら音楽の一つになっていたのが印象的だった。晩年のクラシックのピアニストとかがそのオーラで空気を張り詰めさせ、ある種の孤独の中で演奏を始めることがあるけれど、それとは両極端にある、空気を大きな音響の中に包み込むような演奏だった。とってもよかった。立ち見だったんだけれど、目を閉じてゆらゆらと揺れた。自分がその調和の一部になれたような気がした。CDを買って帰る。

0129
「傷物語」を映画館で観る。総集編じゃなくフルで全部見ていたから、映像はなんとなく覚えてけれど、何せかなり前の話だったし、何より、「物語シリーズ」は自分にとって「最も影響を受け、そして過ぎ去った青春」って感じだったから、久しぶりに見て、自分の原点がここにあると痛感してしまったと同時に(正しくは新房さんが監督に入っていた初期の、だけれど)、阿良々木君を筆頭とする、なんていうのだろう、性欲まじりの「青春」としか呼びようのない人間関係の形に、なんというか、うぅ〜って思いながらみた。
阿良々木君の優しさはどこまでいっても性欲と結びついており、それはある意味で実直ではあるけれど、だからこそ、世界が内的に閉じていて(「物語シリーズ」では一切のモブキャラが描かれない)、そして、中途半端である。けれども、そこにどこまでもずぶずぶとはまっていけてしまう本物の優しさ、というか、自己犠牲を持った羽川翼というヒロインがいて、その輝きだけが、脆く、時間制限付きの美しさがある。
「物語シリーズ」で一番好きなのは「猫物語(白)」だ。阿良々木暦のことがわたしはすごく嫌いで、だって昔の自分と、今の自分に残っている自分の嫌いなところそのものだから、だから、阿良々木君が主人公から距離のある「ヒロイン」として扱われている「猫物語(白)」に惹かれる。「花物語」もそうね。ああいう、ただ格好いいだけの中心軸から外れた存在でいる時だけ、阿良々木君を肯定できる。自分が人間関係のうちそこにいると心地よいのと一緒で。

0130
初谷むいの「わたしの嫌いな桃源郷」が一つの物語みたいでとてもよかった。なんだか、素朴な、けれど切実な「わたしはなんでこの世にバッドトリップしてきてしまったのだろう」という感覚がそこにはあって、ずっと夢を見ているみたい、と、現実を生きていることをなお、信じていない雰囲気がそこにはあった。同じ年だった。たくさんの付箋を貼ったけれど、貼りすぎてしまったので、もう一度読み返して回収していこうと思う。明日は誕生日。

0131
誕生日だった。好きな上司から保湿クリームもらって使ってみたらすごい塗りやすくて助かる。後輩もコーヒーの粉を買ってくれた。ほんで、誕生日限定ということで掌編をセットにオンラインストアを売ったら、「これくらいが上限かな」と思っていた数より2つ多い注文がきて嬉しかった。予想を超えたことはもちろんだが、なんとなく、世間の認知度というか、「こういうイベントをしたときにはこのくらいの人が買ってくれる」という自分の感覚と世間の実際がリンクしてきた感じが嬉しかった。そこから始まる感じがあるよね。27歳こそいわゆる「飛躍の年」というやつにしたいと思うけれど、まあ、しなくてもいい。


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