見出し画像

イーゼルが少しずつ腐っていっている

喫茶店でここ1週間のことをふりかえった。ゆっくりとそんなことをする時間がそもそもなかったから、昔からやっていたように、ノートに自分の考えや今の状態をゆっくりと、だらだらと書き出してみた。色々なことが整理できて、その整理が正しいのかどうなのかは一旦置いておくにしても、辛さの原因みたいなものはなんとなく掴めたような気がする。

つまるところ、ここ1週間の自分に迫っていたのは、ただの忙しさだけではなかった。それだけだったらむしろ歓迎というか、それによって自分につく忍耐力や筋力みたいなものが得られると思って会社に入った部分が多いから、忙しいということは良いのだけれど、問題は、忙しさが向かう先の内容にある生理的な拒否反応みたいなものだった。

ここでも繰り返し、繰り返しとなえ続けている「わたしらしく」あるということ。わたしは自分で言うのもなんだけれど、わたしのことが大好きで、あられもないことを言えば、それなりにすごい人だと信じていて、信じてあげなくちゃ、だってこんなに素敵なんだから、と思っていて、そのことをいつか「ほらね、そうだったでしょ」って自分に言いきかせて「ほんとだね」って心を開いてもらいたいと常々かんがえて、毎日を過ごしている(「自己実現」というかたい言葉を使ってしまえばそれまでのことかもしれないけれど)。

わたしの好きなわたしらしいわたしが、今の自分の毎日に生理的な拒絶反応を示している。突き詰めて言えば、全然心ではいいと思っていないこと、自分の感覚に合わないこと、そういうことに「いい」と言い続けて、先へ進むことが大切で、そうでなければ本当にたくさんの人に迷惑がかかってしまう。でもそのたくさん人の中には、わたしが大好きで、人生を救ってくれた、と思うくらいの、尊い人たちがいて、だから前提として、進むことを止めることはできない。そりゃ、自分の生理的な「これはやりたくない」なんて、些細なことと言えば些細なことで、こんなこだわりはしょーもないことで、頭がかたくって、主観的なだけで、すごく幼いだけなのかもしれない。その稚拙さを盾にとられてしまうと、わたしは稚拙なことが好きではないから、「そうですよね」と笑って、やり過ごして、今の仕事を続けていくだろうし、この1週間そうしてきた。けれど、そう簡単にわたしらしさは消えないから、思い出せるように、こうして言葉を毎日書いているのだから、笑った分だけ夜になると辛くなっているのも事実で、それを無視して先に行こうとしていたからこんなにも辛かったのだと、なんとなく思いあたった。

だから寂しいけれど、一旦この毎日書いていたエッセイをやめようと思う。とりあえず今は明日を、明後日を生き抜いていかなくっちゃいけないから、わたしらしさを思い出さないように、機械的で、わたしの嫌いなわたしで過ごしていることを、黙って見過ごせるように、言葉を紡ぐのをやめようと思う。

こんな時がきてしまってわたしは悲しい。わたしの心のあり方のせいかもしれない、と思いたいけれど、でも環境は確かに今、わたしを押し殺してでも先に進まなくちゃいけないような、そんな感じで。

でも生き抜かなくちゃ、生き抜いてまた文字を書けるようになったら、わたしらしさを生活の中で取り戻して、わたしを大好きといっても大丈夫な毎日になったら、これをやり過ごしたら、その時に改めて、今の環境について考え直そうと思う。

わたしがわたしらしくあること。それ以上の夢も目標もわたしにはない。高校生の時、果てしない逡巡の最中にノートに何重にも丸をつけ「何よりも、たるいまこととして生きること。」って書いたことを、わたしはたぶん死ぬまで忘れることができないだろう。

「毎日毎日とは言わないけれど 嫌なことが次から次へとやってきて なんとなくの寂しさが夜に向かってくる」

日々の生活に訪れる「嫌なこと」がこの歌のように、わたしらしさを彩る一色になっていればいいのに。今は絵画を立てるイーゼルが少しずつ腐っていっているのがわかる。だからとても悲しいけれど、これ以上辛くなったら耐えられそうにないから、ここでいったん筆をおく。


いいなと思ったら応援しよう!