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普通の子供になるのを恐れていた

お昼時、村上春樹の「村上ラジオ」を手に取ったら、一番はじめに「何かがあって、「さあ、今日から変わろう!」と強く決意したところで、その何かがなくなってしまえば、おおかたの人間はおおかたの場合、まるで形状記憶合金みたいに、あるいは亀があとずさりして巣穴に潜り込むみたいに、ずるずるともとのかたちに戻ってしまう。決心なんて所詮、人生のエネルギーの無駄づかいでしかない」と記されている。そのことは時間をかけてゆっくりとわかってきたつもりだけれど、けれども幾分やれやれと思いながらも、自らの決心みたいなものに付き合わなくてはいけない日があって、それがまさしく今日だった。

具体的な話をしよう。わたしはギターを弾いてうたうことと、ピアノを弾くことが好きで、どうせなら表に出したいと思っている。けれど、その出し方をずっと決めあぐねている。youtubeにだす?いやそしたら映像何つけるのよ、とかなんとか。折に触れて、そのことについて何度も考えるのだけれど、もう行き着く先はわかっていて、結局のところ「わたしは音楽をする人ではなくて、音楽で何ができるか考える人なのよ」という結論にたどり着く。わたしは音楽が好きだけれど、でも本当に演奏することの音感というか、センスというものがない。ないという意識が誰がなんと言おうとあまりにも強いので、自分を音楽を演る側の人間として認定しない。てなわけで、根本的なエネルギーが不足している。だから「どうせなら表に出したい」とぐるぐると考え始めるときは、結局疲れ切って夜になって終わる。村上春樹のいうとおり、「人生のエネルギーの無駄づかい」をすることになる。

ていうか、こんなわたしの、わたし自身の中だけのしょうもない話を、仮にも誰からもアクセス可能なネットの海に書くことが許されてよかろうか、と思うけれど、そこも含めてまあ、日記として考えれば良いか。

それと、これは余談だけれど、村上春樹の文章をしばらく読むと、脳内の言葉が村上春樹の文章のテンポになるという謎の現象が起こる。わたしだけなのかな、他の作家にもちょっとあるけれど、村上春樹は比べようもなく強い。思考のテンポ、密度が春樹的になっていく。というわけで、この文章もいくらか「村上春樹的」になっているかもしれないけれど、当然のごとくわたしの文章はひらひらととっちらかってばかりで春樹さんのシンプルで強靭なものとは程遠い。とはいっても、もしわたしが「もっとも書くことを教わった人は?」という質問を受けたとしたら、間違いなく「村上春樹」と答えるくらいには、わたしの血潮にはすでに春樹成分が織り込まれている、少なくとも、わたしは肉感的にそれを強く感じている。

「いつだって普通の子供になるのを恐れていた」

村上春樹がウィルコが好きと言っていて、学生時代よく聴いていたこの曲を聴きかえした。昼下がりに街を歩いたら霧吹きをされているような湿度で、思わず腕まくりをして歩く。先ほど引用した箇所の最後に、「逆に「別に変わらなくてもいいや」と思っていると、不思議に人は変わっていくものだ。変な話だけどね」と書かれていて、そうよね、「やりたい」と思うことよりも「やっていること」の方がわたしを変えてくれてきたもん、と思う。それは重々わかっていて、それなのに「やりたい」に振り回された一日。何度だって唱えなくっちゃいけないみたい、もう起承転結の「承」なのよ、あなたは。この日記だって昨日書いたときに「15週連続投稿」みたいな通知来てたじゃん。続いているものを続けるだけで、わたしはすごいところまでいける。もうその毎日の中にいるんだって。普通の子供になるのを恐れる必要はもうない。どうしようもないくらい、わたしはもうわたしでしかないのに、始まっているのに。

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