どこにもない自由な時
SNSをひらくと、こういう風に過ごしてたかもだよね、っていう、知りあいの投稿がそこかしこに広がっている。タイムラインやストーリーは可能性のつながりで、「こうであったかもしれない」がひしめいている。それによって後悔が生まれるとか、優越感が、とか、間違ってもそんな話ではなくて(だってわたしの現実は強めに言えばただ現実なだけだから)、可能性のひしめきに息がしづらくなったり、逆に、思いを馳せたりする。
電車に揺られながら、最近はほとほとすぐに寝てしまうことがほとんどなのだけれど、起きているときは物語を分析している昔の哲学者のとても面白い本たちを読んだりして、「物語」に新たな角度で触れようとしてみている。物語をかんじるのはわたしたちが可能性の中に揺蕩う遊木だからだ。SNSの巨大な網は可能性をはりめぐらせる。もしかしたらこうであったかもしれないの絶え間ない交錯。つながりすぎるのはだから疲れてしまうけれど、私たちは可能性の中でしか温度を感じられないのもまた確かで
「どこにもない自由な時を 君といま感じ合うんだよ」という出だしで、今までつらつらと書いてきたようなかんがえのぐるぐるが全部ふんわりとした蒸気になって溶けて、早く家にかえって眠ろうって考えてた。あともう何週間かで長かった仕事の山を降って、返してないたくさんのメールもその道のりでちゃんと返して、それから呆れるほどねて、人とあって、それから、物語について改めてかんがえて、それから
「このままずっと、二人でずっと一緒にいれたらいいね」
このサビみたいに思えるような温度を、らしさを愛せるわたしを、とりもどして言葉を、また。