わたしたちは東京の養分
「この道は まるで滑走路 夜空に続く」という歌詞を聴いたとき、どんな素敵な道なんだろうと思っていたけれど、何度も家族で通ったことのある中央高速道だってわかった時、現実にはたくさんの形があるんだな、となんとなく思った。高校生くらいのときだったかな、見えている景色にも感情にも、たくさんの「こうであるかもしれない」が潜んでいて、それがただの高速道を「夜空に続く滑走路」にすることもできる。例えばちょうど、夜道を運転する横顔にやどるなにかとくべつな色気みたいに。
今日観た映画で、「わたしたちは東京の養分なんだよ」というセリフがあって、観終わったあとも靴ずれのようにじんわりそれが残った。東京、憧れの街、偶像の街、眠らない街、星のみえない街…現実にはたくさんの形があって、どれもが時たま正しい。ダイヤモンドの反射光が微妙な角度で色合いを変えるみたいに、街は時にわたしたちの味方をして、次の瞬間つめたくなる。
シティ・ポップを聴く帰り道には、玉ぼけするネオンサインを美しく思うこともある。身近なあちこちで声に出さなくても囁かれていた「わたしたちは東京の養分なんだよ」という言葉。気がついてはいたけれど、言葉としてそれを知ったようなきもち。
「愛してるって 言っても聴こえない 風が強くて」とっても好きだったサビ前からのながれ。「街の灯が やがて瞬きだす 二人して 流星になったみたい」
やっぱり、この曲の反射光はすてきだ、と微笑みながら帰り道をあるく。わたしは今日も、街のそんな部分だけ、上澄みだけをしずかになぞり「こうであったかもしれない」の一つになる。やっぱり、わたしはこの街と、この生活を抱きしめてみたい。そう思える日は、そう思ってみたい。