わたしはいつかの時点で
「もう帰りたいなあ」しか言わない入社2年目のズッコケ二人組が曇天の下、昼飯を探して彷徨い歩き、大層な食欲すら見出せず麺をすすろうということになってラーメン屋さんに入ったのが午後1時、久しぶりの博多ラーメンにこれでもかというほど紅生姜を入れてスープの色を赤く変色させる同期を半分白い目で眺めながら、「そんなに旨いかい」とそろそろ自らの椀にも紅生姜をいれた昼下がりである。クラシック音楽の話になって、わたしは偉そうに、「でもセロニアス・モンクなんかさあ、絶対クラシックの文脈では評価されないわけじゃん」とかなんとか、鼻につくことこの上ない「じゃん」を響かせてはみたものの、いやあんたちゃんとモンクを聴いたことあるのかえ?と自らが恥ずかしくなった。ので、同期に(彼はジャズに詳しい)モンクのオススメアルバムを聞き、帰り道にそれを流して帰った。多分前にも書いたと思うけれど、わたしのストレス解消法、というか、何か人々が飲酒やディズニー行きなどによって生み出す「打ち上げ快楽」感を生み出せるのは本の大量購入のみであって、それをするためにデパートに入り化粧品売り場の地上階フロアをすり抜けていくものの、まあ執拗に絡んでくるモンクであった。何度も同じフレーズを繰り返す反復は、「印象を薄味にさせてムードを作る」劇伴などによく使われる技法だけれど、モンクの反復は一回一回こちらに「ですよね?」って言ってくる感じで、全く風景に溶け込む気がない。その音の形になんだか変に納得する。同期が「モンクを特別好きって人はあんまり出会ったことない」って言ったことや、自分の「文句がクラシックの文脈で評価されない」発言の元となった随筆のニュアンスも
一体わたしはどれほどのものを「ああ、あれね」と名前だけの知識でやり過ごしてきたのか。勿論、そうやってやり過ごすほかないほど、現代の書物は読解に沢山の知識を必要としているし、人生と熱意には制限がある。けれどもねえ、なんだかそれに対して無自覚のまま「じゃん」と言った自分がすこぶるはしたなく見える訳でして。
あ、頭がいたいと言い訳に筋トレやらずに布団に入ったけれど、なんか嫌な感じがしてやってから寝た。それって結構良い心構えだと思うけれど、今週末まで持つかなあ。わたしはいつかの時点で、自分を信頼することを、心のどこかで諦めているような気がする、それは致命的なくらい良くないことかもしれないけれど。