『となりあわせ』
毎晩あなたより後に寝て、毎朝あなたより先に起きては、隣で眠るあなたの顔や頭を撫でる。
ぐっすり眠るあなたは、そんなこときっと知らないし、どうして私がそうするのかもきっと解らないでしょうね。
*
喧騒の後の静けさは、闇とともに私の孤独を誘う。
食事中の会話、ガラステーブルに音を立てて着地する食器、味噌汁をすする音、見ていたドラマの声、携帯電話の通知音、上の階の子どもはあんな時間まで起きて今日も床を元気に鳴らしていた。
玄関の戸締まりを確認して、家中の灯りが消えているのを確認する。寝室にだけポツリとオレンジ色が灯されて、その眩しさに夜の暗さを知る。
ふとんを捲ると「ちゃんと」ベッドの真ん中に真っすぐ身体を横たえて夫の鑑人が寝ていた。起こしてしまわぬよう壁際へそーっと押しやり、自分が横になれるだけの隙間を作りながら、いつものやり取りを思い出した。
『ちょっと、なっちゃん。狭いんだけど』
『えー? 私はちゃんと真ん中に寝てるよ!』
『だからだよ!!』
『わあっ!! ちょっと押さないでよー、狭い〜!』
大の大人が二人寝るのにシングルベッドでは当然狭いのだけど、狭い狭いと言いながら陣地を取り合う、そんな他愛もないやり取りさえも私は愛おしいと思ってしまう。結局最後にはいつも、お互い自らベッドの半分を譲り合い仲良く眠る。
『ね〜。あっくんは幸せ〜?』
『どうした急に』
夫は決まって「幸せだよ」と答えるけれど、そういえば最近、質問の頻度が増えているからか「どうした急に」とは聞かなくなった。
「グオーーーーー」
突然の轟音で我に返る。ふっ、凄いいびき。幸せそうに眠る穏やかな表情には不釣り合いな音で、思わず笑ってしまった。
でも、安心する。夫のいびきも、シングルベッドが狭いために触れる身体から伝わる熱も、ぜんぶ安心する。ふとんの中でのオナラは勘弁だけど。
*
『40歳くらいまでだと思っていてください、今と同じ生活ができるのは』
心臓のカテーテル検査の付き添いに行った時に、別室で主治医の先生に言われた言葉だ。
『4,50歳からは身体が思うように動かなくなったり、体調を崩すことが増えます。仕事を変えられるなら早い方がいい。なるべく身体を使わない仕事、できれば在宅仕事だと尚良い。あとは貯金も大事です』
私が頼りなく見えたのか、貯金なんてことまでアドバイスをされた。けれども、そういった具体的年齢の話は、本人にはもう少しタイミングを見て話すのだという。
『でも、40歳って、もう10年ちょっとですよ……仕事のことだってそうです、やんわりでも早めに話してあげないと、本人は危機感が足りないっていうか……』
『鑑人さんも自分の病気のことはしっかり理解していますよ。自分の身体のことですから、ご自分が一番解っています。ただ、生物学的に男性はあまりメンタルが強くない、女性の方が強いですから——』
だから私がしっかりしなさい、そんな意味合いも含まれているんだろうか。二十代なんて権利や義務ばかり大人の仲間入りをしただけで、中身はまだまだ子供同然だ。小さな私一人では到底受け止めきれそうにない。それとも年齢の問題ではなくて、受け止められない私が子供なんだろうか。
もう数日入院の夫に笑顔で声を掛けて、病院を出たあと、帰り道一人で泣いた。
誰か、誰か——
荷の重さを一人で抱えきれそうにない。だけどこんな話いったい誰に言う。
友だち——いや、本人にもまだ伝えていないことを他人には言えない。
お義母さん——嫁がこんな私ではかえって余計な心配を掛けてしまう。
両親——ううん、心配することなんてなんにもない、幸せだよって一番伝えたい存在だ。
言えない、誰にも言えない。
涙が止めどなく溢れて、鼻で息が出来なくなってきた。
私はなにを今さら泣いている。夫の病気のことは覚悟の上でしょう。
新婚のとき「大変だね」と言ってくれた友人に「覚悟の上で結婚したから」と偉そうに答えておいて。実際に死の存在を目の前にした途端、そんな覚悟はまるで初めからひとかけらもなかったかのように崩れ落ちる。自分の無力さと迫り来るその事実に、為す術なく怯えてしまう。
*
でもきっと、それは大人も同じだ。
死を受け入れる覚悟なんて、結局、亡くしてある程度時間が経ってからやっと付くものなんじゃないのって、最近は思う。
夜はやっぱり、いろいろ考えてしまうな——
ふとんの中で物思いにふけていたが、ふと気が付く。
シーン……
さっきまでのいびきが聞こえていない。
隣で眠る夫の方へ耳を澄ます。寝息が聞こえない。
身動き一つしない身体。
呼吸に合わせて布団が膨らんでいるか確かめようとするも、あまり分からない。
いやいや、寝息なんてそんなに大きなものじゃないし、なにを要らぬ心配——
平然を装う思考とは裏腹に、身体は少し緊張しているのが自分でも分かる。
渇いた口内で息を呑むと、喉が張り付く。
自分の冷えた手を夫の顔へ近づけると、指先が少し震える。
そっと、夫の頬に触れてみた。
——あったかい。
ふとんを捲り、呼吸に合わせてお腹が動いているのが分かった。そのまま夫の胸に耳をくっ付ける。
トク、トク、という心臓の音とともに、ザシュー、ザシューという雑音が聴こえる。この音を聴くたび、切ないとも苦しいとも言い表せない、なんとも言えない気持ちが私を襲う。
けれどいまは、この音を聴いて安堵感に満たされた。
良かった、生きてる……
毎晩、先に寝たあなたが、ただ寝ているだけなのか、冷たくなっていないか、怖くて確認する。
毎朝、先に起きてあなたが、今日も無事朝を迎えられているかどうか、冷たくなっていないか、怖くて確認する。
いつ「死」が迎えに来てもおかしくない。
「死」と隣り合わせの毎日。
あなたが死んだら——
それは決して空想話ではなくて、毎日の生活の中で常に隣にあるもので。
いつか来るその日を後悔しないように、毎日大切にあなたとの時間を生きることを忘れずにいさせてくれるもの。
それでもやっぱり覚悟なんて到底できそうにないから、あなたが死んだらと思うと、怖い。また鼻が詰まる。
一人にしないで。
たいして可愛くないルックスの私を可愛いと言って、どんな料理も冷蔵庫の残り物で作ったものでさえ「旨い、美味しい、困る!」と言ってペロリと平らげてくれる。
お金の話に煩いところやすぐにカリカリしちゃうところも「なっちゃんがしっかりしていてくれるから家計が回ってる。いつもありがとね」なんて、感謝で返してくれる。
私のヘンテコな妄想話やたわいもない日常話に腹抱えて笑ってくれて、そうだ、このみっともないポッコリお腹も笑って愛してくれる。
あなた以上に私を愛してくれるひとはいない。
きっと客観的に見ればそんなことはないんだろうと思うし、もしかしたらきっと多くのひとが自分の伴侶に対して思っていることなのかもしれない。
それでも、本当に思う。
鑑人以上に私を愛してくれるひとは、後にも先にもいない。唯一親くらいかな。心から、そう思う。
『なっちゃんがいれば、俺は幸せ』
そういつも笑って言ってくれるあなたが生きていることが、私にとっての最大の幸せだから、
だから、
生きていて、
ただ、生きていて。
私は明日も明後日も、こうして隣で眠るあなたの体温を確かめるために顔や頭に触れる。
命を常に疑ってしまう、そんなどうしようもなく臆病で心配性な私だけど、あなたが生きていてくれたら、それだけで——
《プスゥ〜……》
ふとんの中からいや~な音が聞こえて、生温い空気が少し揺れた感じがした。
クッサい——
うん、生きてるなあ……
明日も明後日も元気に生きて、あとできたら、ふとんの中でのオナラは勘弁して欲しいけど。
寝室のゴミ箱に溜まったちり紙をリビングの大きなゴミ箱にそっと移し替えて、朝が来るのを待つ。
明日もいつもと変わらない朝が、私の心配をよそに当たり前な顔して、どうか訪れますように。