久しぶりに贅沢をする。手には冷たい感触。ごつごつとしたそれは自身の出番を静かに待っているようだった。


新社会人1年目の初任給は親へのプレゼントである温泉旅行チケットと、自分へのご褒美として海の幸、蟹に早変わりしていた。この先1か月はカツカツの生活がつづくのは火を見るよりも明らかな出費ではあったが、先の不安よりも蟹への期待が勝っていたのだろう、足取りはいつもより断然軽かった。

家に帰宅すると、さっそく蟹を調理台に置いた。
水に晒して解凍すれば、あとは剝くだけなんともお手軽。

では早速とパックを剝くと、そこには雄々しいチョキの手が。手に取り何となくじゃんけんをしてみる。
同じチョキではつまらない。あえて負けてみるかとパーを出してみる。そしてチョキで挟まれてみる。
うーむ、痛い。
小さいからと言って調子に乗っていたが、逆に小さいからこそ力が一点に集中しているようだ。

なんだか腹が立ってきたのでグーを出してやる。相手はもちろんチョキのまま。
そら見ろ勝った、お前はチョキしか出せないもんな。
嘲り笑ってまた挟む。痛い。何ならパーの時よりも痛い。凹凸したハサミが拳をえぐるように挟み込んでいた。前言撤回、これは負けを認めざるを得ない。チョキだけで生涯を過ごしてきたやつの意思は、そう易々と砕けるものではなかったようだ。


シンクに散乱したカップ麺の容器や前日からたまっている食器を端に寄せて見なかったこととして、水を張ったボウルに蟹を入れ、流水に晒し始める。
水の流れを作ることによって水温を下げないようにする、らしい。ここで蟹に浮かれすぎていたことから、どれくらいで解凍できるかしらべるのをわすれてしまっていた。

しばらくぼうっと蟹を見つめる。

いつのまにか水の流れる音が、川の流れる音のように思えてきた。なんとはなしに、手をチョキにする。なんだかサワガニになったような気分だった。
指を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。ふと思い立ち、本棚から埃をかぶったアルバムを引っ張ってきた。過去の自分が気になったのである。
まずは小学生。やんちゃな子供だったことは自覚しているのもあり、写真たちのほとんどは遊具に上ったり泥まみれだったりしていた。
しかしそうではないとき、遠足や集合写真では皆一様にピースをしているのだ。

中学校のアルバムも引っ張り出す。やはりピースだ。思春期真っ盛りであったため顔を隠していることが多いが、友達と一緒に写っている時などは恥ずかしそうにピースをしている。
それならばと高校時代のものも出してくる。うーむ、ピースしているな。この頃にはすでにスマホを持ち始めており、写真の数が急激に多くなっている。

しかしそれでも、それらの写真の多くはピースをしているものだった。
最後に大学時代から今にかけて。ガクリと写真の数自体は減っているが、ピースをしている写真の割合は健在であった。
なんだか気味が悪いような気がした。今まで生きてきた23年間、こんなにもピースをしてきたことに違和感を覚えなかったのだろうか。もしくはポーズを変えようとか、そういったことを考えたりしなかったのはなぜなのだろうか。

不安が募り始めたので、それを払拭するために友人に電話をかけることにした。どうやら暇していたのか2コールもしないうちに返事が返ってきた。
「どうしたんだ。いつものボイスチャットの時間にしては早すぎないか。」
「いやそれとは別件だ。少し気になることがあってな」
いつもの調子で話しかけてきていたが、こちらの様子がいつもと違うことを察したのかすぐに声のトーンを落とした。

「何か心配事でもあるのか?できる限りではあるが手助けするぞ、何があったのか教えてくれ。」

なんて素敵な友達を持ったのだろう。ほんの少しの情報だけで事態を察し、自分にできることはあるかと聞いてくれるこの心の広さ。やはり持つべきものは頼りになる友人というやつだ。

「ありがとう、その言葉が聞けただけでも嬉しいよ。」
「幼稚園来の仲なんだ、これくらいどうってことないさ。さ、何があったのか話してくれ。」
「ああ...」

ここで俺は、ついさっきまで頭の中をよぎっていたある不安を打ち明けた。


「実は俺、蟹かもしれないんだ。」
「......」


バツっ、と通話の切れた音がした。
回線不良だろうか。もう一度かけなおしてみる。今度は何コールしても出なかった。2,3回掛けなおすと、ようやく反応があった。

「一体どうしたんだ、電波の悪いところにでもいるのか?」
「どうしたんだ、はこっちのセリフだよ。さっきお前、何て言った?蟹?」

だから、と先ほどまでの自分の状況を細かく伝えた。自分へのご褒美として蟹を買ってきたこと。蟹にジャンケンで負けたこと。アルバムの写真のほとんどがピースであったこと。

はぁというため息が電話越しに耳に入ってきた。

「あまりにも突拍子のない話過ぎる...。けど、お前の言いたいことはなんとなくわかった気がするよ。」

うまく伝えられたか心配だったが杞憂だったようだ。少し安心した。

「とはいえアルバムの写真がそこまでピースの写真で埋まってるもんかね。あまり意識してなかったが、俺もそうなのかもしれないな...。」


引っ張り出してくるか、という声とともに足音が遠ざかっていった。しばらくすると、あったあったという声が飛んできた。

「どうだった?やっぱりピースしていたか?」
「ウーム。にわかに信じがたいが、確かにこの異様なまでのピース率は不気味に感じなくもないな。」
「そうなんだよ、だから俺がこんな考えに至ったのも仕方ないといえないか?」
「いや、それとこれとは別問題だろう。大方お前が久しぶりの蟹を目の前にして浮かれてたのが原因だ。」

お前遠足の前日とか楽しみすぎて眠れないタイプだったもんな、と一蹴された。もう一度アルバムに視線を落とすと、そこには眠たそうな目をこすってピースをしている小学生の自分がいた。

「まあそれでも不安に思うんだったら、自分の手の指の数でも数えときな。そしたら蟹じゃないことがあきらかだろ。」
手を広げ、ひぃふぅみぃと数える。
「5本、両手に5本ずつあるよ。」
「そうだろ、少なくともその時点でお前は蟹ではない。」
「でもチョキにすると蟹そっくりだ。これはどういうことなんだよ。」
「なんで自分から寄せにいってんだ、パーにしとけ‼」

ああもう、と小さくつぶやく声が聞こえた。

「...そうだ、お前、蟹は大丈夫なのか。解凍してたんだろ。」

そういえばと思い、慌てて台所に向かう。すでに蟹についていた氷は全て溶けており、真っ赤な甲羅が流水によってあふれ出ようとしていた。
片手で蛇口を占めて、同じ手で蟹をざるにあげる。

「助かった。もう少し遅かったら蟹があふれるところだったよ。」
「そりゃよかった。...今から食べるのか?」

ざるにあげた蟹を皿に移しながら、もちろん、と応えた。
しばらく何か考えているような雰囲気を感じ黙っているとやがて、そうだ、という声が返って来た。

「それなら最後に、一つアドバイスをしてやろう。」
「アドバイス?何のアドバイスだ?」
「次また自分が蟹だと勘違いしないように、さ。手を出してみな。」

手?手の下りはついさっきやったばかりだ。一体どうしたというのだろう。

「今から蟹を食べるだろ。蟹食った後に自分の指しゃぶってみな。ちゃんと手を洗ってからだぞ。そしたら、自分が蟹じゃないことがはっきりわかるはずだ。」

じゃあな、とだけ言い残し、相手の声は聞こえなくなってしまった。
蟹の盛られた皿を机に運ぶ。
蟹を前にしても、頭の中は先ほど友人の言ったことで一杯だった。
指をしゃぶれとはどういうことだろうか。それをすることによってなぜ自分が蟹ではないことの証明になるのか。
合掌をし、いただきますを告げる。とにもかくにも、まずは蟹を食おう。紆余曲折してはいたものの、本来の目的はそれだったはずだ。
ひとつ蟹のはさみを取り出し、パキリと折る。紅白のストライプがズルリと殻から溢れだし、詰まっていた蟹汁が流れ出す。汁がこぼれないように手を下に添えて、顎を挙げて蟹を口で迎える。繊維状にほどけるが、しかししっかりとした噛み応えに呼応するように旨味が滲みだす。
何て美味いんだろう。自分が今まで生きてきたのは、今この瞬間のためなのではないかと錯覚するほどの旨さに脳が痺れる。
しかし友人の言葉を忘れてはならないと、一つ食べ終わると台所に向かい手を洗った。そして指を口にくわえる。もちろん、味なんてするわけもなく、先ほどまであんなに美味しいものを食べていたのに、なぜこんなもの食わなければならないんだとさえ思い始めた。そう、こんな旨くもない自分の指なんて。
......。
気づいてしまった。友人が何を言いたかったのかを。俺が蟹ではない最大の証拠を。
俺は、こんなにも美味しくない。
そうだ、なぜこんな簡単なことを忘れていたのだろう。蟹は美味しいのだ。もし自分が蟹であるのなら、必然的にハサミの部分にあたる俺の指は美味しくなければならない。しかしそうではなかった。俺は美味しくなかったのだ。どうして美味しくないのか。単純明快、俺は蟹ではないからだ。
なんだなんだ、そういうことだったのか。
なんだかとても頭の中がすっきりしたような気がした。
もう一度蟹を食べ直しながら心の中で友人に感謝する。ありがとう友よ。おかげで自分を取り戻せた。そして蟹。美味しくてありがとう。
時刻はすでに11時を過ぎていた。明日は休みだ。いくらでもこの幸せな時間に浸ることができる。
窓の外には大きな満月が煌煌と昇っていた。その丸い形を断ち切るようにピースを作る。
幸せな夜は更けていく。

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