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「幸か不幸か」と言うとき、だいたい不幸寄りな気がする

積読チャンネルが好きだ。毎週の楽しみになっている。
先日、「人生が変わった読書体験を語ろう!」という回があった。

ド田舎なので読書"しか"娯楽がなかった側面もあるが、幼い頃から読書が好きで、いろいろな本を読んできた。社会人になってペースは落ちているが、今も定期的に本を買って読んでいる。
こちらを契機に自分はどうだろうと振り返った時、「これだ!」というものが思いつかなかった。



思い出の本…というよりシリーズを3つあげると以下になる。
①『マーリン』(トーマス・A・バロン著 海後礼子訳)
母親にもらった中で、最も夢中になった思い出。
アーサー王伝説は知らないのに、マーリンだけ知っている(変な)状態だった。
②『怪盗クイーン』(はやみねかおる)
なぜか同世代のオタクが全員履修している。少し前に大人買いして積んでる。
③『金田一耕助』(横溝正史)
『夢水』からミステリーに触れて、ここに行き着いた。

家族が特別本好きというわけではなかったが、大人になって振り返ると非常に協力的だったと思う。
小学生の頃は週一で図書館に連れて行ってもらっていたし、誕生日やクリスマスプレゼントはだいたい本だった。本を読んでいるときは邪魔をされず、借りる/買う本に対して保護者のチェックは入らなかった。当時の自分がどこまで理解していたかは不明だが、子供が読むには難しかったり血生臭すぎるものもあった。

ただ、「人生を変えた」まではいかないように感じる。
読書自体が好きになった、このジャンルが好きになった、友達と話題にできて楽しかった等、なんらかのきっかけになったのは確かだが、それで大きく人生が変わってはいない。
私の「人生を変えた」ものは本ではなく、もっと身近な人間たちによる現実だったと思う。
自分自身ではどうしようもない出来事が定期的に訪れ、人生の方向性を決定づけられてきた。物心ついたときには母子家庭だった、元父からの養育費の支払が止まった、弟が不登校になった、親代わりになることが義務化された…等々。(我ながらかわいそう)

しなくていい経験をしてきた。
それが今の自分を形作っているが、語るときには「幸か不幸か」を使いたくなる。
客観的に見て不幸だと思われる事実に幸の可能性を付加して、どうにか50:50に持ち込む祈り。あるいは、少しでも「これがあってよかったんだ」と肯定したい願いによる。

母子家庭で養育費が止まった過去があった故に「経済的に独立した方が幸せになれる」と強く考えるようになった。小学校の卒アルでは将来の夢に弁護士と書いていた。払われなくなった分を回収しつつ、高い年収を求めてのことだったと覚えている。周りが漫画家や学校の先生、お嫁さん・お母さんの中、可愛げがなさすぎる。
そんな過去がなくともその考えに至ったかもしれないし、結婚して子供を育てるという地元での幸せルートに入っていたかもしれない。



どうしようもない出来事が起こるたびに、「私の幸せ」はこうだと定めて行動し続けてきた。結果、現在幸せを感じて生きている。
ただ、どうやったってしんどい過去は消えない。それをどうにか許すために、これからも「幸か不幸か」を使ってしまうんだと思う。

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