「サンクスギビング」「PERFECT DAYS」
どうも、安部スナヲです。
今回は正月に観に行った2本を。アメリカの「感謝祭」の日に連続殺人が起きるホラー映画と、ヴィム・ヴェンダース監督で東京のトイレ清掃員の日常を描いた話題の人情ドラマ。
【サンクスギビング】
何らかの祝祭日だか記念日だかに仮面をかぶった殺人鬼が血の気とリビドーを持て余したボーイズ&ガールズを次々に惨殺する。
こういう律儀なまでに由緒正しいテンプレートに則ったスラッシャー/ホラーは定期的に観たくなる。
アメリカに実在する(した?)「グラインドハウス」という、下品で過激な低予算映画を糞も味噌もいっしょくたに上映するスタイルを体験したことはないが、イメージとしては子供の頃、まだテレビで洋画が頻繁に放映されていた時代に、いわゆるゴールデン枠ではない時間帯やローカル局でかかっていた、チャチなジャンル映画が近いのだろうなと想像する。
本作は2007年にタランティーノとロバート・ロドリゲスがそのグラインドハウスの再現をコンセプトに企画した2本立「デス・プルーフ/プラネットテラー」のなかで、フェイク予告として収録されていた架空映画の本チャン映画化なので、そっち系の猥雑味みたいなものがそもそもの狙いではある。
だけどアップデートされるべきところはちゃんとされているので時代的な齟齬がなく、見やすい。
映像や撮影方法は今に見合って洗練されており、時代設定も登場する若者たちも無理なく現代の価値観上にある。
でありながら、惨殺死体だけが浮いたように作り物っぽく、豪快に首やハラワタを飛散させながらの「出血大サービス」。
まさに痒いところに手が届くスラッシャー/ホラーの醍醐味を味わせてくれる。
舞台がアメリカ郊外で、適度に凝り固まったコミュニティのなかでことが起きるのもポイント。
金持ち実業家ファミリーと保安官とハイスクール。それぞれの相関・因縁がわかりやすく、誰が犯人なのかの選択肢が、ある程度絞られてるのがいい。
現代性をもっとも感じたのは、やはり冒頭シーン。
ブラックフライデーのセール品を血眼になって争奪する人々はフツウに恐ろしいし、現実味がある分ゾンビ以上かも。
イーライ・ロス監督はインタビューで、他人を押し除けてまでセール品をゲットしようとする「倒錯性」に興味を引かれたことが、着想になったと語っている。
なるほど、確かにモノへの異常な執着や倒錯は現代の人の病みっぷりを象徴しているし、ギャアギャアはしゃぐ血祭りゴア映画であっても、そのあたりの現代性が担保されているのといないのとでは、こちらの入り方が変わって来る。
かといって「いちばん怖いのは人間」とかいって、おさまるところにおさめようとしていないところが好ましい。
本作の犯人も、復讐する動機はあるにはあるが、そんなのはただの行きがかり上の手続きに過ぎず、血祭りゴア映画の殺人鬼然とした、もはやサイコパスにさえあてはめるのはナンセンス!っていうくらいイカれてるから楽しいのだ。
だって真面目なサスペンススリラーだったら、ちょん切った頭部を祝祭ディナーのテーブルに並べたりしないよね、犬神家じゃあるまいし笑
にしてもあの「人間ローストターキー」はマジでヤバかったなー。特にオーブンでこんがり焼かれるまでの調理過程が。。。
あと憧れのジーナ・ガーションが開始10分かそこらで、あんなされ方で頭皮が捥げて死ぬのはフツウに悲しかったです。
【PERFECT DAYS】
こう言っちゃあ身も蓋もないが、基本、日々のいわゆる「ルーティーン」を見せられるだけの映画である。
ただそれによってこのヒラヤマ(役所広司)という、必要なこと以外は喋らない主人公の人となりがよくわかるのが楽しい。
生業であるトイレ清掃の丁寧な仕事ぶり、植物を愛で、好きな音楽のカセットを聴き、木漏れ日を見上げるときの微笑。
それらひとつひとつの所作や表情から、この男が何にこだわり何にこだわらないか、何が心地良く何を不快に感じるかが、それこそ自分ごとのように感じられる。
彼は間近にスカイツリーがそびえる、亀戸あたりの風呂なしアパートに住んでいる。
一見どミニマルで殺風景なその部屋には、可愛らしい植物や、好きな本やカセットが整然と並んでいて、あんな風に見せられるとそれはそれで素敵な空間に見える。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやパティ・スミス、あるいは小難しそうな純文学を好むあたり、実はやや反体制かぶれなロックオヤジであることがわかる(というかヴェンダース自身の趣味がそのまま投影されてるな)。
浅草の地下の大衆酒場は毎日行くけど、石川さゆりがやってる小料理屋は休日の楽しみにしてる。
安いコンパクトカメラで、他愛もない何かを撮り溜め、休日に現像に出す。
何から何まで微笑ましい。
ええことしてまんな〜。
穏やかに過ぎる時間は少しずつ変化を見せ、ただ温厚なだけに見えたヒラヤマも、怒ったり悲しんだり投げやりになったり、人間らしい側面があらわれる。
それは他者との関わりにおいて、より浮き彫りになる。
最も印象的だったのは、お調子者でいい加減な清掃員の後輩・タカシ(柄本時生)は実はダウン症の子と仲良しであると知ってからのシーン。
そのダウン症の子はタカシに会うといつも彼の耳をいじくり倒す、ヒラヤマはその光景をあとから思い出しながら、思わず自分の耳を引っ張る。
あの時の、口には出さないが「あいつ、なかなか良いとこあるな」という表情はたまらなく心温まる。
タカシが恋するアヤ(アオイヤマダ)は、やや記号化されてると思うところもあるが、まあ今の東京にいそうな若者である。
金髪ボブで目付きがクールでタメ口。厭世的な雰囲気を出しておきながら、パティ・スミスを聴いて涙し、「ありがとう」とヒラヤマのホッペにチュッっとやるとことか「おいおい」と思いながらニヤニヤしてしまった。
結局、自分が毎日同じことを繰り返していたとしても、体調もちがえば天気もちがう、何より他者との関わりがある。
相対するあらゆる事象が変化する以上、毎日同じなんてことはあり得ない、諸行無常ってやつだ。
セリフのなかでそれを象徴していると感じたのが、家出して数日転がりん込んで来た姪っ子のニコ(中野有紗)との会話。
隅田川を辿って海へ行きたいというニコをヒラヤマは「また今度」と去なす。
「今度っていつ?」と問い直すニコにヒラヤマは言う
「今度は今度、今は今」
映像も、ヴェンダースならではの寂寥感がありつつ美しい。
微妙な高さからの撮影で街のレイアウトと規模感を見せ、随所に映るスカイツリーが彩りを添える。
そして毎日眠りにつく時、ヒラヤマの脳裏に浮かぶイメージを抽象化した、あの影絵のようなシーケンス。
今日会った人、見た風景と感じた光、日常の営み全部が愛おしく思える映画でした。
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