「怪物」「アフターサン」
どうも安部スナヲです。
最近映画館で観た映画の感想を語ります。
今回は子供の苦悩が大人にわからなかったり、逆に大人の苦悩が子供にはわからない???みたいな感じの2本です。
「怪物」
「監督・是枝裕和×脚本・坂元裕二」というだけで、もうそこそこの完成度が担保されているというか「どうせ面白いんでしょ、スゴいんでしょ」とちょっと斜に構えてしまうのだけど、実際映画を観たらその斜に構えた期待値をさらに超えて来たのだからまいった。
物語はシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)が息子・湊(黒川想矢)の不穏な様子に気づいたところから始まる。
というのもこの湊少年、靴が片方なくなってたり水筒の中から泥水が出てきたりするだけなら、まぁ典型的なイメジフラグだが、故なく自分の髪をハサミで切るわ、突然失踪して見つけたかと思うと連れて帰る道中に助手席から飛び降りるわ、挙句「僕の脳は豚の脳」とか怖すぎる譫言を呟くもんだから悪霊でも憑いたか?オマエはエクソシストか?!っとツッコミたくなる。
流石に溜まりかねた早織が問いただすと、湊はどうやら担任教師・保利(永山瑛太)から体罰を受けたり罵倒されたりしているらしい。
これは捨ておけぬということで、学校に抗議すると、校長の伏見(田中裕子)も教頭の正田(角田晃広)も当事者の保利も、それこそ木で鼻を括ったような誠意ゼロのマニュアル対応。
おい!それ以上「ご意見は真摯に受け止め、今後は適切な指導に務めてまいります」って言うな。
こちとら長年組織のなかで、今まで何回胃をキリキリさせながらそのようなセリフを繰り返して来たことか…お願いだからもうやめてくれ、自分ごととしてフツウに辛いわ(´༎ຶོρ༎ຶོ`)
と、それはさて置き…。
かくして物語は、いろんな出来事と登場人物達の心象をミステリアスに絡ませながら「怪物だぁーれだ」の真相へ向かって行く…
この映画の構成は「羅生門」や「桐島、部活やめるってよ」なんかに代表される、いわゆる「視点スィッチ型章立てスタイル」つまり、ある時間軸をちがう人間の視点で描いていく。
それ自体は別に珍しくないのだけど、時系列の行ったり来たりが思った以上にハードで、各パートにおいていちいちグサッと来る印象を残したまま次のパートに移るので、気持ちを切り替えるのが大変。結構混乱した。
このあたりはもう1回観たらスッキリするのだと思う。
第1部、早織が学校に抗議に行くパートでは、学校側のなおざりなマニュアル対応にひたすらイライラさせられるが、保利の態度が尚更酷い。
挙動不審、無神経、人が喋ってる時に飴をなめる。コイツ絶対まともじゃないわと誰もが思うだろう。
このミスリード的な誘導にまんまとハメられ、第2部ではガッツリ保利へ感情移入させられてしまう。
嘘をつくのが苦手で、咄嗟の状況にうまく立ち回れない。こういう、ある種社会性と相反する純粋さは、大なり小なり誰もが抱える「生きづらさ」
保利の人間像が浮かび上がるにつれ、そのようなシンパシーを感じずにはいられない。うまいよホント。
からの〜第3部は湊とクラスメイトの星川依里の秘密のロマンスパート。
これは初恋的描写としてとても美しく、キラメキもトキメキもメキメキ伝わって来る一方、とても残酷でもある。
その残酷さのひとつは彼らのような弱い立場の子供を追い詰める大人=社会の残酷さと、もうひとつは彼らそのものが持つ残酷さ。
例えば依里の父(中村獅童)は依里の脳に豚の脳が詰まっていると言い、彼を「バケモノ」と呼ばわる。
この父じたい相当ヤバい人物であることが後に判明するが、依里も一筋縄で行かない問題児であることも要所要所に示唆される。
一見、素直で人当たりが良い依里には魔性が潜んでいる。
一方、湊はイジメられっ子の依里と、みんなの前では距離をとりながら、どうしようもなく好きなもんだから、葛藤に苦しみ、おかしくなっていく。
湊は嘘つきでズルい。だけど年相応の未成熟さを思うと、まだ健全だと思う。
もっとも謎であり疑問を感じた人物が伏見校長。
この映画を牽引していると言っていいほどの存在感ではあるが、彼女が抱える過ちと秘密、あそこまで辛くて悲しい背景を設定するのは、いくらなんでもやりすぎではないかと今でも思う。
しかしながらクライマックス、映画館のそこかしこから啜り泣く声が聞こえて来た音楽室でのあのシーン。
あそこでの校長と湊のやりとりを思い出すだけで胸がヒリヒリする。
あとこれが遺作となったということの感慨もあるけど、坂本龍一さんのスコアは素晴らしかった。
少ない音数と深い余韻。
あらためてご冥福をお祈りします。
「アフターサン」
ソフィ(フランキー・コリオ)は11歳の夏休みを普段は離れて暮らしている父・カルム(ポール・メスカル)とトルコのリゾート地で過ごした。
その時に家庭用ビデオカメラで撮影した映像を、あの時の父と同じく30歳から31歳になったばかりのソフィ(セリア・ロールソン・ホール)が振り返る…
映画は、ホテルの部屋でソフィがカルムにビデオカメラを向け「11歳の時、将来は何をしてると思っていましたか?」とインタビュアーの真似事をしながら無邪気に訊ねるところからはじまる。
知り合いから紹介された代理店の、おそらく格安ツアーなのだろう。
にしてもホテル側の手配ミスでベッドがひとつしかなかったり、リゾート施設内で工事をしていたり、なかなかついてない。
そんなハズレな状況に苦笑しながらも、カルムとソフィはそこで特別な数日を過ごすのだ。
日焼け止めクリームを塗り合いっ子し、プールや海で泳いだり、旅行者の若者らとビリヤードしたりゲームしたり、つつがない父娘の戯れが淡々と描かれる。
あまりに淡々としているので、はじめは退屈だった。
こんな他愛のないホームビデオのような映像をいつまで見せられるのかと思ってしまった。
しかし、ボーっと見てるとあわや見逃してまいそうなカラムのどこか虚ろな様子…
彼は何かに苦悩している。
そのことが言葉の端々、態度の端々にそこはかとなくあらわれてくる。
ソフィはそんな父を気づかいながらも、もどかしさを感じている。
そして象徴的なあのセリフ…
一日楽しく遊んで部屋に戻ったソフィは疲れた体をベッドに横たえ、カラムに言う「最高の日を過ごしたあとは、何だか落ち込む」
よくわかる、散々はしゃいだあとは大抵反動でそうなる。
だけどこのセリフは、カラムの漠然とした不穏さを示している。
このあたりから、少しずつ映画のトーンが変わっていく。
そして終盤、泣きじゃくるカラムと傍らのポストカードに書かれたメッセージ。
それを見た時、心が掻き乱された。
そしてあのラストシーン。
私はこの映画を2回観た。
淡々とした中に匂わせや予兆が潜んでいて、尚且つ決定的な結論は示されないので、1回では受け止め切れないことが多い。
そして1回観たあと、カラムとソフィの想い出があたかも自分の子供の頃の記憶に溶け込んでいったような気持ちになり、またあの父娘に会いたくなった。
映像も魅力的だった。
安いフィルムのような軟調でボンヤリした質感、褪せたターコイズブルーの空と海が印象的な色彩がとても目に心地良い。
各カットの構図がまたどれも面白い。
シンメトリーの使い方、反射の写り込み、フレームインフレームなどを駆使し、ラフなようで計算され尽くした画づくりはボーッと眺めていてもいいし、読み解くように凝視してもいい。
そして何といっても音楽の使い方が、過去イチ級に好みだった。
全編通じてズシリと揺蕩うシンセかストリングスのメインテーマも良かったが、要所要所に挟み込まれる90年代のブリットポップやオルタナロックは時代性と心象を絶妙にあらわしていた。
最高だったのは、ソフィがリゾート施設のカラオケ大会で歌ったR.E.M.の「Losing My Religion」
あのシーンでのソフィの絶望的な音痴さと、何故か不機嫌なカラム、会話をすればするほど険悪さを増して行く年頃の娘と未成熟な父のリアルが、尚更愛おしかった。
そしてクライマックスのダンスシーンで流れるクィーン&デヴィッド・ボウイの「Under Pressure」は歌詞のひとつひとつがカラムの心の声とオーバーラップする。
そして昂揚感が頂点に達する前、「This is our last dance(これが最後のダンス)」のリフレインの途中でプツリと切れ、虚空に放り出される。
そこから次の場面までの妙な空白…
そのあとにあわれるのは光か闇かはわからない。
2人の旅は終わり、カラムは「大好きだよ」と言ってソフィを見送ったあと、やっぱり光か闇かわからないところへ消えて行った。
11歳のソフィはカラムの苦悩を何となくしかわからなかっただろう。
だけど31歳のソフィにも、きっと何となくしかわからないのだと思う。
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