「マイ・エレメント」直進方向にのみ加速する水=ウェイドの善良性。
どうも、安部スナヲです。
ピクサー最新作「マイ・エレメント」観て来ました。
四大元素(水、土、風、火)が共存する「エレメント・シティ」で、火の女子エンバーと水の男子ウェイドが出会い、恋に落ちるハナシ。
まず映画が始まるや焦らすことなく展開される「エレメント・シティ」のハジけるような極彩色とディテールに圧倒される。
まさに不思議の国への扉を開けた感覚だった。
そのうえでよく見ると、例えば火が暮らす「ファイアタウン」は石でできてるとか、そういうところもちゃんとしている。
さらに驚くのはキャラクター造形の細かさで、エレメントそれぞれの特性がそれこそ一挙手一投足にまで反映されている。
顕著なのはエンバーが癇癪を起こすと爆発するところだが、それだけではなく、ちょっとした感情の起伏によって炎の色や大きさが変わる。
ウェイドにしたって、光や背景が透けたり、凹凸によって物が歪曲したり、場面場面の状況に応じて、逐一描写が変わるのだ。
そのほかのエレメントも「土だとこうなるよな、風だとこうなるよな」と初めて見るものだけど、いっこいっこのモーションが原理的に「わかるー!」となるのが尚楽しい。
とにかく、そのような視覚効果の斬新さだけでも楽しめる。
エンバー、ウェイドはじめ、それぞれのエレメントが示す人種・社会階層はとてもわかりやすく、これはもうメタファーというより、エレメント=アイデンティティと置き換えられる。
ウェイドは市役所に務める公務員で、高層マンションに住み、超フレンドリーな家族や親戚は建築家だったり芸術家だったりする。これは白人富裕層と捉えて妥当だろう。
一方、海の向こうからエレメント・シティに渡って来て、混沌とした下町で雑貨屋を営む親のもとで暮らすエンバーはアジア系移民2世(これについては実際に韓国移民2世である監督・原案のピーター・ソーン自身の素性がそのまんま投影されている)
つまりエンバーとウェイドの禁断の恋は、火と水という性質の相容れなさを、人種と家柄のロミジュリ構造に重ねられている。
基本プロットは、相容れないと思っていた者同士が互いの良いところを認めることでやがて惹かれ合い、いろんなシガラミに阻まれながらも愛の力でそれらを乗り越えて、ついぞ結ばれるの?結ばれないの?という、ここまでストレートなのは久しぶりに観たというくらいストレートなラブストーリー。
そのストレート過ぎる「愛の力」的価値観が貫徹されているのはウェイドであり、何ならあの世界はそんなウェイドを中心に回っているように、私には見えた。
気弱で泣き虫なウェイドはすべての人(あ、エレメントか)の気持ちがわかり、すべてを肯定できる。
みんなが彼のような考え方で他者に優しくすれば、みんながしあわせになれる。何だかそう言われているみたいだった。
エンバーは自分の癇癪の「本当の理由」をウェイドよって気づかされるが、そもそもすべてはウェイドという大きな掌の上で成立している世界なのだから、そんなことははじめからお見通しなのだ。そんな印象すら覚えてしまう。
あと展開の潔さという点で驚いたのは、クライマックスに向かうところのあるシーン。
一度は心を通わせたが、いろいろ考えたらやっぱり2人はいっしょになれない運命であると悟ったエンバーはウェイドに背を向ける。
そして父・バーニーがエンバーに店を継がせる、そのお披露目パーティにウェイドが乗り込んで来る。
この時、ウェイドは拍子抜けするほど、何の躊躇も見せず、その場にあらわれるなり「君と僕がいっしょになれない4つの理由」を述べ、その打開策から心構えまでを、まるで「1分間プレゼン」かというほど端的に説明するのだ。
フツウこういうシーンは「卒業」の結婚式場からエレンを連れ出す時くらいのテンションになるはずだが、いわゆる映画的情緒たるタメも余韻も緊張感もいっさい切り捨てて、ただ直進方向にのみ加速するウェイドの善良性に亜然としてしまった。これ如何に!
なぁーんて、格好つけて穿った見方をしてはみたものの、クライマックスでウェイドに最大のピンチが訪れた時には「頼む、こんな純粋でいいヤツを殺さないで〜」と祈る私の目には涙らしき「水」が溜まっていました。
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