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「TAR」天才アーティストの本当の罪深さ。

どうも、安部スナヲです。

2023年米アカデミー賞ノミネートのニュースが聞こえて来た頃から、ケイト・ブランシェットが主演女優賞にノミネートされたというこの映画が気になってしょうがありませんでした。

ただでさえバケモノ級の存在感をもつ彼女なのに、「これこそが最高傑作!」と絶賛され、その役作りは常軌を逸していると…。

それ以来ずっと、狂気の女性指揮者を怪演するケイト・ブランシェットを想像してはクラクラしていました。

【リディア・ターって何者?】

世界の有名なオーケストラのなかでも、最も権威ある「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」で、女性初の首席指揮者として活躍する一方、作曲家としてはEGOT(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞のすべてを受賞)を達成。さらには女性指揮者を育成する財団を立ち上げ、名門ジュリアード音楽院で教鞭をとる…。

とにかく音楽家としてある種の頂点を極めたのが、この映画の主人公・リディア・ター(ケイト・ブランシェット)です。

たとえとしてまったく的確じゃないですが、クラシック音楽に暗い私には、佐渡豊と坂本龍一を足したような感じ?と考えると、そのキャリアのすごさをイメージしやすかったです。

レナード・バーンスタインに師事した彼女は、その精神性や哲学を受け継ぎながら、ベルリン・フィルでまだ録音されていないマーラーの交響曲第5番の音源化に情熱と執念を燃やします。

ストイックな音楽家である一方、権力を乱用し、団員や生徒へのセクハラでオーケストラも財団プログラムも不当に支配する彼女は、人としてはハッキリ言ってクズ、鬼畜、不届者です。

この映画はそんな不届者が不届者ゆえに輝かしい栄光から転落する…そんなハナシです。

出典:映画.com

【ケイト・ブランシェットのスゴ味】

一応断っておきますが、リディア・ターという人は実在の人物ではありません。

なのですが、私はこの映画に没頭するなかで、これは実在のカリスマ女性マエストロの伝記だと思い込んでいました。

何故そんな思い込みを抱いたかというと、まず前述したリディア・ターのキャリア含め、彼女と相関する有名音楽家や団体が実名で登場すること。

そして何よりも演じ手のケイト・ブランシェットには「何らかのホンモノ」が憑依しているとしか思えなかったからです。

エンドロールみたいなオープニングのあと、スクリーンに姿をあらわした彼女は少しヤツれて見え、シチュエーションからすぐに緊張していることがわかるのですが、それは緊張による身体的反応を抑えようと悶絶している人の表情で、これが演技というだけでもスゴい。

その人は自分の知るケイト・ブランシェットとは明らかに別人で、例えば最近の映画だと「ドント・ルック・アップ」でのベテランキャスター。あるいは「ナイトメア・アリー」での心理学者。これらで見せてくれたお得意のインテリお色気爆弾はなりをひそめ、代わりに生気を垂れ流しているような悪魔的妖気を放っていました。

とにかく女優としてのケイト・ブランシェットにひそむ狂気、執念がそのままリディア・ターという人物に反映されているかのようで、そのスゴ味を受け取るだけでエネルギーを使う映画です。

出典:映画.com


【「時間を操る」「芸術と人格」】

およそ野暮ったい説明セリフなどはなく、スマートかつ意味深なシーン展開中心ににすすんでいく本作ですが、冒頭の約15分ほどでしょうか。いきなり頭痛がするくらい膨大なセリフで、音楽とは?芸術とは?ということについて、あるいはターの信念について滔々と論じられます。

ひとつは講演会でインタビューを受けるシーン。

「指揮者は人間メトロノームですか?」というインタビュアーの問いに「一部はそうだ」とこたえつつ、真実は「時間を操る」のだとターは言います。

それを伝えるためにベートーヴェンの「運命」を引き合いに出す。あの出だしの「ダダダダーン」は微妙に休符になっていて、音が出るタイミングは指揮者によって決められる。一聴あたりまえに聞こえますが、なるほど、バンドで「ワン・ツー・スリー」とカウントを出すのとも似て非なるというか、あの出だしの微妙さを思うと、何十人もいる管弦楽団が一斉に音を出すことが如何に至難であるかがわかります。

そう思ってマーラーの5番を聴いてみると、ひとつひとつの符割りをとってみても相当複雑かつセンシティブ。これをまとめるのはまさに時間そのものを束ねる感覚だという主張に納得が行きます。

もうひとつは音大での講義中、マックスという生徒がバッハを非難してからのやり取り。

アフリカ系で全性愛者である彼は、性差別主義者的で白人至上主義的なバッハの作った音楽は好きになれないと言います。

これ対して彼女は怒涛の反論、徹底的な理屈でマックスをやりこめ、最後に「バッハの才能が性別や出自で格下げされるなら、あなたも同じ」と言います。

ここまで言ってしまうと今のご時世、完全にアウトですが、リディア・ターという人物をよくあらわしている発言です。

この2場面で示された「時間を操る」感覚と、「芸術と人格」の概念は、後々この映画のすべてに関わる重要な前提理念になっています。

【キャンセルカルチャー】

リディア・ターの同性パートナーであるシャロン(ニーナ・ホス)はバイオリン奏者でオーケストラのコンサートマスターです。

2人は養女であるペトラを一緒に育てていますが、劇中ハッキリ示されるようにターは「父親」であり、家事いっさいはシャロンが担っています。

出典:映画.com


そしてターのスケジュール管理から身の廻りの世話から何でもこなすフランチェスカ(ノエル・ミラン)は、付き人かマネージャーかと思いきや、次期の副指揮者に指名されるほどのマエストロです。

さらに、新人チェリストのオルガ(ソフィー・カウアー)は明らかにターの性的趣向により優遇されます。

出典:映画.com



このように、ターの支配は多分に家父長的というか嘗ての男社会におけるそれに近いです。

有能な人間はゴロゴロいる。だけどそのなかでも、清濁合わせ飲むような世渡りに耐え得るものだけが出世するという、薄寒い現実が示されています。

昨今、世間をザワつかせている大手アイドルエンターテイメント業界における性加害問題にも通じますが、絶対権力者の慰み者になれば世に出られるという歪んだ構図は、表に出ても出なくても、昔も今も残念ながら蔓延っているようです。

そのように権力が不当に行使されることを、決して許してはいけませんし、まして芸術やら音楽やらエンタメが至高のものである筈はなく、それらが特別だと思いがちなアーティスト側のエゴには辟易します。

だけどそれはそれとして、矛盾するようですが
、作品や功績は尊いものだと私は思っています。

何故なら受け手が感動した事実は消えないからです。

そんな不届者の作った音楽なんて2度とごめんだと思っても、それを聴いた時の感動はずっと残っています。

だからこそ不祥事を知ってショックを受けた時、ファンはその感動ごと封じ込めなくてはいけない苦痛を強いられるのです。

アーティスト側の罪深さは、そういうことだと思うのです。

もっとも、キャンセルカルチャーの多くは、別にファンでも何でもないただの野次馬のネガティヴキャンペーンなのでしょうけどね。チャンチャン。

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