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「ロボット・ドリームズ」あれほど粋でオトナな愛情表現ができるヤツを、ロボットにしておくのは勿体ない。
どうも、安部スナヲです。
あちこちからの、泣いた泣いたの草の根評判と、知人からのモーレツプッシュに気圧され、観て来ました。
正直、いちいち理屈で物事を捉える私にとって、この「ロボット・ドリームズ」はスンナリとは飲み込めない映画でした。
ただ映画の楽しみを何に見出すかによって賛否が大きく変わるという成り行きもありますので、そのあたりを紐解きながら感想を述べたいと思います。
【あらましのあらすじ】
ニューヨークで暮らす孤独な主人公・ドッグは、通販で組み立て式のロボットを購入する。
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その日からドッグとロボットはどこに行くにもいっしょ。次第に心を通わせて行く。
夏の終わりのある日、2人は海水浴に出かける。
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ひとしきり遊んだあと、ロボットに異変が起きる。
どうやら海水の侵蝕によってカラダが錆びたらしく、ビーチに寝そべったまま動けなくなってしまった。
ドッグは何とかロボットを連れて帰ろうとするが、1人で運び出せる重量ではない。
あの手この手で奮闘するも万策尽き、なす術もないままビーチは来シーズンまで閉鎖される。
離れ離れになってしまったドッグとロボット。
いつか再び会えることを夢見ながら、それぞれの日々を過ごすが…
【感想】
トム&ジェリーやルーニーテューンズを思い出させるドタバタ劇は懐かしくて楽しいし、何より80年代ポップカルチャーと華やかなりしニューヨーク(行ったことはないが)の面影が、これほど多層的に充溢したアニメ映画はないだろう。
しかし、肝腎要のストーリーとそれを成立させるための設定があまりに幼稚というか、ロボットを題材にした作品として必要最低限の条件が満たされていない。
それでも序盤までは、擬人化された動物とロボットが共生する世界観を受け入れて見ていた。
だけど物語上最も重要なフックである、ビーチで錆びて動かなくなる場面からはフラストレーションが溜まる一方だった。
まず、この物語はロボットが「錆びる」ことで悲劇に転向し、最終的に「泣けるハナシ」に結実するのだ。
「錆びる」とは、金属が酸化することである。このデリケートな化学現象が悲劇の引き金であるならば、ロボットの他の動力も科学原理に基づかねば不均衡だ。
これは私が理屈の奴隷だから重箱の隅をつついているワケではない(多少はつついてるか)
このような矛盾を「所詮ファンタジーだから」で済ますほど、今のアニメのリテラシー水準は甘くない。
重箱つつきついでにさらに言うと、例えばロボットの電源。ビーチに放置された状態では放電されていつかは落ちる。なのに電圧が弱まってる様子もなく、何なら雪に埋もれてもバッテリーはビンビンである。どうしたんだhey heyベイベ。んなことあるかーい!
2万歩譲って、コンピュータ制御と考えればちょっとは受け入れられるかな?と思ったが、どう見ても時代はインターネット普及以前であり、サーバーもバックアップもクラウドも無縁の環境である。
つくづく、ないわー。
何より問題なのは、ロボットへの道義的責任。
スピルバーグの「A.I.」では、既に冒頭シーンで「ロボットが人を愛するなら、それを受ける人間にも責任が生じるのでは?」と語られる。
ロボットと人との愛をテーマにするならば、ここがいちばん重要なのだ。
本作のロボットはフツウにオーナーと手をつないで街を歩くし、ホットドッグ早食い大会へのエントリー資格さえある。
ここまで人(敢えて人と呼ぶが)との共生が一般化されているということは、ペットまたはそれ以上の「家族」として、ひとしなみの尊厳を得て然るべき筈であって、間違っても通販で簡単に買えたり、壊れたからといって簡単にスクラップにされることがあってはならない。
このことから、さらに主人公ドッグの孤独について疑問が広がる。
彼が真に孤独なら、早いハナシ、友達かカノジョを見つけた方がよい。
そんなのは余計なお世話だし、価値観は人(犬)それぞれだから…とアナタは言うかも知れない。
だが彼は凧揚げをキッカケに仲良くなったダックというシティガール風の娘にアプローチしようとしていたのだ。
ということはつまりだ、ドッグは別にロボットしか愛せないオタクとかアブノーマルの類ではなく、フツウに恋愛してフツウにしあわせになりたい人(犬)なのだ。
もし妙齢の男ヤモメである彼の孤独が切実ならば、古いロボットを壊してしまったから新しいロボットを入手するなんてことで紛らわすのはあまりに不健全。友達なら止めねばならん。
と、まぁ結局ロボットは玩具なの?それとも人の代理なの?というところをどう捉えていいかわからないまま、最後までロボットにもドッグにも感情移入できずに終わってしまって、そのことばかりにモヤモヤして、この映画の良いところを味わい尽くせなかったのは、正直、勿体なかった。
散々文句言ったけど、物語の文脈はさて置いて、好きなシーンはいっぱいあった。
とりわけ音楽、ビジュアル、テーマ性のポップな連動は、この映画ならではの魅力であり、無条件にアガる。
個人的にハロウィンのシーンと、ブッカーT&theMG'sの「Hip Hug-Her」に乗ってラスカルがロボット再生作業を行うシーンはノリノリで見てた。
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そしてやっぱりあのラストよ!!
あれほど粋でさりげなく、オトナな愛情表現ができるヤツを、ロボットにしておくのは勿体ない。
ラストのロボットの健気な愛情と同じくらい、これから一生、アース・ウィンド&ファイヤーの「September」を聞く度に切なくなるであろうことが、この映画が心に残した爪痕である。
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