競争
このタイトルの言葉を聞いて、読者の皆さんはどう感じるだろうか?
僕はこの言葉への印象が加齢と共にネガティブになってきた。
今の僕は30歳を超えて、そろそろ人生の健康寿命としては折り返しの地点にいると思っている。
この段階ではもちろんまだ様々な競争に参加できるし、参加しなくちゃならない(競争から逃げられない)ことも多々あるだろう。
それでもアラサーの僕から見れば、そろそろ競争という人間の営みが、どこか脂っ濃く、若者の特権のように感じてしまい、喜々として競争に参加していた10代や20代の頃の自分と比べて、今は「参加させられている」感覚を覚え始めたのは偶然ではないように思う。
この「〜〜させられている」感覚というのが、例えば「仕事をさせられている」とかの「厭々ながらも必要に迫られてすること」の感覚に近いのは間違いなく、今の僕からすれば様々な競争という人間の営みはもはや「仕事」の感覚なのだ。もちろん「仕事」と例えるからにはポジティブな意味合いもあって、目的を達成したときの達成感や信念としてそれをすべきとする使命感や集中しているときの高揚感なども、競争という営みを通じて感じることができる。
それも当然、我々生物は長い進化の歴史の中で競争という営みを自然に行うように選択されてきたわけで、それに対して神経的な報酬が作用するようにできている。特に雌雄の性別がある生物なら更に性淘汰の原理が働くので一層適者生存だけでなく弱肉強食の意味合いが強まる。
こういう理論としての競争は、自分が高々人類という生物である以上避けては通れないと理解しつつも、昨今のSNS社会で露骨になってきた「上には上がいる」がインフレし尽くした格差には「もはや競争ですらない」とすら思うようになった。
だってそうじゃない?皆が皆「せーの!」で手持ちのカードの強弱だけでマウントの取り合いをしているだけで、そこにカードを揃える準備の努力はあるとしてもプレイングは殆ど要らずに、肩書や資産や容姿や遺伝のポジショントークをしているだけだ。
それは果たして本当に競争なのか?
最初から結果の分かっている価値比較を競争と言いながら、多くの人が楽な勝ち逃げを狙っているように見える。近年の流行語に親ガチャがラインナップするのも、やたらハイレベルな状態からスタートする異世界転生モノが流行るのも、結局は「現世では取り返しが付かないから来世で夢を見よう」という若者全体の諦めが透けて見えてくる。
つまり現代社会では競争とは名ばかりで、ひたすら生まれつき持っているカードで優劣を付けているだけの、ゲーム性の薄い競争を延々と皆が皆やっているのだろうと。
それくらいには格差が拡大しているし、しかもSNSによる可視化で上の上が無慈悲に下の下にマウントを取っているような社会なのだから、もはや「地元じゃ負け知らず」なんて物言いは死語となってきたし、全員の井の中の蛙が外に出て大海を知った世界が現代社会で、果たして競争とは意味があるのだろうか。
いや、競争はたしかに存在してはいる。どの分野でも最上位者達は日々熾烈な競争に明け暮れている。ただ、最上位者や上位者よりも下の人々は、実質競争に参加できない。そういった下の人々のアイデンティティは如何様にして確立し社会に貢献するにはどうすれば良いのだろうか?
ユヴァル・ノア・ハラリは著作『ホモ・デウス』にて「人類の格差は延々と拡大し、何れ少数のホモ・デウス(神)と大多数の無用な人々の二極化した社会になっていくだろう」(要約)と予言している。
つまり、下層の人々はいずれ社会から無用の烙印を押され、ただ生きているだけの人生を歩むことになっていく。
そう考えれば皮肉にも、我々人類は各々の人生を豊かにするためには「競争に参加したい」と思うようにできていると言える。競争に参加することこそが人生を豊かにすることなのだから、そのギラギラとした世界観からは逃れようがないのだろう。
今の僕は、競争から降りたいのではなく、一時的に競争に疲れていただけだったのかもしれない。
この疲れを癒やしたら、また自分の人生を豊かにするために「行けるところまで行ってみよう」というポジティブな気持ちで競争の世界に復帰して「人生」という奇妙なゲームに参加することになるだろう。
競争疲れも身体の一時的な反応であり、我々は本質的に競争を欲している。