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議論スペース「人は言葉がなくても考えられるのか?」の背景と経緯

この記事は7月10日21:00~22:30に@Advance_Hackerのアカウントで実施されるTwitterスペース「人は言葉がなくても考えられるのか?」の告知と予備知識のまとめです。

経緯

以前僕とレートムさん(@le_thm)がTwitterスペースで話していた時に、ふと「人は言語がなくても思考できるんじゃないか?」と思い、話題に出してみると、レートムさんは「僕は人間の思考は言語がないとできないと思っています」と返し、そこから神経心理学や哲学などの発想を交えながら僕とレートムさんとで熱い議論が始まりました。その時はお互いカジュアルに議論していたので準備が十分にできておらず、「ここから先は各専門家に委ねるしかありませんね…」とお茶を濁した形で終わってしまいました。そしてまた今度お互いしっかり準備した上で議論してみようということになり、今回の議論スペースが企画されることとなります。


背景となる論点

■言葉(言語)の定義

人間が音声や文字を用いて思想・感情・意思等々を伝達するために用いる記号体系。およびそれを用いる行為。

広辞苑[言語]より

言語は、人間が用いる意志伝達手段であり、社会集団内で形成習得され、意志を相互に伝達することや、抽象的な思考を可能にし、結果として人間の社会的活動や文化的活動を支えている。
~中略~
言語と非言語の境界が問題になるが、文字を使う方法と文字を用いない方法の区別のみで、言語表現を非言語表現から区別することはできない。抽象記号には文字表現と非文字表現(積分記号やト音記号など)があり、文字表現は言語表現と文字記号に分けられる。言語表現と区別される文字記号とは、文字を使っているが語(word)でないものをいい、化学式H2Oなどがその例である。化学式は自然言語の文法が作用しておらず、化学式独特の文法で構成されている。

Wikipedia[言語]より

以上による言語の辞書的定義から、その記号体系としての性質や機能を抽象的に捉えることで、以下のように幾つかの本質的な定義を用意することができます。
・文字や音韻など記号的表象に置き換えられる表現体系
・自然言語や人工言語を含めた文法が定義される表現体系


■考えること(思考)の定義

思考は、考えや思いを巡らせる行動であり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法など模索する精神の活動である。広義には人間が持つ知的作用を総称する言葉、狭義では概念・判断・推理を行うことを指す。知的直感を含める場合もあるが、感性や意欲とは区別される。
~中略~
広義と狭義
思考とは、何らかの事象や目標などの対象について考える働きまたは過程の事であり、対象となるものの意味を知る、または意味づけを行うことで働かせる理性的な脳や心の作用を言う。これには二つの意味がある。
広義には「心」が動くことそのものを言い、「内化された心像・概念・言語を操作すること」である。このような意味では、思考とは、心の中で自発的につくられた観念が、時間の経過とともにそれぞれが連鎖し変遷する「心的過程」のひとつと言うことが出来、人間は常に何かを思考している。逆に思考をしないためには心を空にする特別な修練を積む必要がある。
狭義には、何らかの目標達成や問題解決のために行う一連の情報処理を指し、思考する対象の意味を理解しながら進められる認知的な行動である。ここで思考が使う情報とは、記憶の中に分布するホログラムと言える。そして思考は、組織化された外部情報を成分要素とする内的なシミュレーションと定義される。これによって人間は様々な予測を得る。しかし、その予想精度には、精確で豊富かつそれらが有機的に繋がった情報(知識)を元に精確なモデルを構築し、それをさらに精確なシミュレーション(思考)に掛ける必要がある。

Wikipedia[思考]より


■思考するには言語が必要か?

・神経心理学からの考察(vanの主張)
ここでの思考の定義は上記の狭義の定義を扱います。その場合、我々は思考をする際に脳の長期記憶から様々な概念や表象を参照していると言えます。その時の長期記憶は陳述記憶と非陳述記憶の大きく分けて二種類に大別されます。

陳述記憶、非陳述記憶とは、長期記憶をその内容から区分した記憶の分類法である。陳述記憶とはイメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる記憶である。陳述記憶はさらにエピソード記憶と意味記憶に分類される。一方、非陳述記憶とは意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶である。非陳述記憶には手続き記憶、プライミング、古典的条件付け、非連合学習などが含まれる。それぞれの種類の記憶に応じて、心理学的・神経解剖学的に別々の記憶システムが働くと考えられている。ここでは、陳述記憶、非陳述記憶に含まれるさまざまな種類の記憶に関する概説と、その神経基盤について述べる。

脳科学辞典[陳述記憶・非陳述記憶]より

ここでの非陳述記憶(言語で陳述できない記憶)に分類される手続き記憶(物事の操作の順序・アルゴリズム等)が最も顕著であり、我々が思考をする際に無意識的な処理を行っていることの証左であると考えています。従って「人は言葉がなくても考えられる」と結論付けました。


・哲学からの考察(レートムさんによる記載)
vanさんは神経心理学の観点から、私たちが何かを考えるということについて説明してくださいました。 その説明によると、これまで学んできた記憶を頭のなかで操作することで、さまざまな目的や課題に立ち向かうというのが「思考」ということになっていました。 ここで重要なのは、例えば「自転車の乗り方」についての記憶、すなわち非陳述記憶に分類される手続き記憶のもつ役割です。 この手続き記憶は、物事の操作や順序についての記憶で、言語化ができないものだとされています。

ところで、例えば「自転車の乗り方」についての記憶は、哲学の文脈ではknowing how(実践知、「~の仕方を知っている」)と呼ばれます。 こうした実践知は、knowing that(命題知、「~ということを知っている」)と伝統的に区別されてきました。 たとえ自転車に乗ることを可能にしている物理学的な条件や身体のメカニズム等の全てを知っていたとしても、それは自転車の乗り方を知っていることにはなりません。

むしろ「私は自転車の乗り方を知っている」と言えるのは、私が実際に自転車に乗ることができるからだと考えられます。 「自転車の乗り方なんて知っているよ」という人がいたとして、彼が自転車を漕ぎだすなりすぐにこけてしまったら、彼は自転車の乗り方を知っているとは言えなさそうです。 したがって手続き記憶は、私たちの行為なくしては空虚なものだということになります。

では今度は、「私は行為している」といえるのがどのような場合かについて、次のような例を考えてみましょう。 ある未開の民族が「ジテンシャ」なる未知の塊に乗せられたとします。 彼は「ぺだる」と呼ばれる部分に足をかけ、故郷の村に似たような構造の汲み上げポンプがあったことを思い出し、懐かしさからそれをガシャガシャと踏み始めました。 「ジテンシャ」は軽快に走り始めましたが、当の本人は思い出に夢中でそのことに気付いていません。 彼は自転車の乗り方を知っているのでしょうか。

そうは言えなさそうです。彼は知らず知らずのうちに自転車に乗っているのです。 したがって、自転車の乗り方を知っていると言えるためには、奇蹟的に自転車が走り始めるだけではなく、〈それを使って私は走ることができる〉というもう一段上のレベルの認識が必要であると言えます。

たしかに私たちの行為には、一見すると言語を使って考えずともできるように思われるものがあるかもしれません。 しかし実際に行為する際には、典型的には「それを使って私は~できる」=「それは~するためのものだ」といった、言語なくしては獲得しえない知識も必ず必要となるように思われます。


以上のような論点を背景として踏まえた上で、議論スペースを聞くとより分かりやすいかと思われます。

議論スペースを実施するにあたって

今回の議論スペースでは、リスナーの中からスピーカー登壇者も若干名募集しております。このテーマの議論に興味を持って下さった方々がいましたら、当日のスペース内でリクエスト申請を行ってください。
事前に各種資料などで調べておくとよりこの議論が面白くなると思います。

もしこのスペースで暴言や誹謗中傷などの迷惑行為や議論の趣旨にそぐわない発言などが多々見られればホスト権限でスピーカー登壇をご遠慮させていただくこともあります。ご注意ください。

では、当日の議論スペースでお会いしましょう!

追記:議論スペースの録音公開

当日の議論の様子を録音していましたので、ここに公開します。