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生きているのは個人(365夢Screen113)

必要とされれば技術はあるはず。

状況が整えば人も現れるはず。

にも関わらず新たに開けてくる
世界の展望が見えてこない。

それはただ過不足なく回転する社会の
ビジョンがないからにすぎない。

だが実際はそのビジョンもある。

そしてこの失われた30年間をつうじて、
日本はそのビジョンの適用可能な状態で
ずっと待ちつづけている。

域内の生産力が総需要を超えてしまった社会では、
経済を回す主動因は生産力ではなく、
消費力に移っているのだ。

これまでのやり方に倣って
いくら生産技術に資本を投入しても、
百発百中でヒット商品など生産できない。

消費者にたどり着けなかった製品は
たんに物資の無駄になるだけではない。

その間人間活動の流れに同伴する
「お金」の流れが滞っているということだ。

細くなる「お金」の流れを求めて
ますます不安定な低賃金労働に人は集まり、
従来と同レベル程度の生活を維持するだけのために
従来とは比較にならないほどの
不安とストレスを抱えることになる。

その間国民の税金を集めている国家は、
なんとか新たな世界での主力商品を確立しようと
賭けのような生産力競争に税金を投入しようとする。

だがそれは思うに任せない賭博のようなものだ。

政治家・官僚が一旦手にした権益を
なかなか手放せない気持ちはわかる。

だが、その権益を抱えれば抱えるほど、
「お金」の動きは自然な必要を満たす形で
流れることを許されないわけだ。

総生産力が総需要を超えてしまった社会では、
これまで社会福祉として考えられてきた活動分野は、
経済の修道院分野であることを
認識しなければならない。

消費こそが経済を回す主動因なのだ。

そしてここで肝心なのは、
「国家」「政府」などは抽象概念であって
実際の社会の構成メンバーではないことを
司会する必要がある。

実際に感じ、思考し、構想し、行動しているのは
生きた個人であることを忘れてはならない。

政治家も官僚も、我が身のために動く。
それでかまわない。

個人はすべて自分のために動けばいいし、
そのために存在している。

みんなが必要な生活資金をまず受け取り、
安心して生存できる環境の中で、
自分が一番したいことをすればいいのだ。

その夢のような社会を創造するために必要なのは、
「自由貨幣(減価通貨)」による「生活通貨」を
国民すべてに必要なだけ直接支給することだ。

それが「国家」にできる最大限の貢献だ。

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