人格(365日Screen099)
自分は身体の中にいるという
【内部の自己】とい架空の観念は、
以降印象的な出来事を記憶するための
参照点を形成する。
喩えるならば、
数珠玉をつなぐ糸の輪っかとなるわけだ。
こうして印象的な記憶が蓄積されるようになると
「自分」という虚構の観念は
単なる観念を超えた一種の現実となる。
いったんこの記憶の参照点が形成されると、
そののち発生する
印象的な感覚的・知覚的印象や目新しい思考は
新たな記憶としてこの参照点に結びつけられ、
頻繁に再生され確かめられるようになって、
もっともらしい物語を形成しはじめる。
繰り返し想起される記憶は、
架空の【内部の自己】を特徴づける履歴となり、
さらには【内部の自己】の人格を形成しはじめる。
こうして形成された【内部の自己】の人格は、
「自分」にとって
望ましかった出来事の記憶や、
疎ましかった出来事の記憶を積み重ねる。
そのけっか、
【内部の自己】の人格は、
望ましい出来事や疎ましい出来事に関する
「自分」なりの意見を持つようになる。
つまり、
ある種の出来事は起こるべきではなく、
別のある種の出来事が起こるべきだという
意見をもつようになるわけだ。
現に起こっている
知覚的・感覚的体験の【あるがまま】を
そのまま受け容れるのではなく、
それに対する抵抗が起こることになる。
この【あるがまま】に対する抵抗は、
身体化された過去の出来事の衝撃の記憶との
連携の織物として紡がれ続ける。
そのころには、
この【内側の自己】の身体ネットワークは
すでに堅固な形で形成されており、
この身体ネットワークの統合性を脅かす出来事は、
【内側の自己】の存続の危機として捉えられる。
つまり、
それは【内側の自己】に死をもたらすものとして
理解されるようになるということだ。
いまや【あるがまま】に対する「抵抗」は、
【内側の自己】の生存のための戦いとして
位置づけられるようになる。
「経験を苦しむ」活動は、
本格的な活動段階を迎えている。