生産力>消費力(365夢Screen106)
1980年代、
資本主義の最先端である日本が
世界に先駆けて到達した状況とは、
域内の生産力が域内の消費力を凌駕したことだ。
資本主義の歴史ではじめて
ある特定の地域において
(域内)生産力 > (域内)消費力
という事態が起こった。
日本列島において
国内総供給力が国内総需要を超えたのだ。
これは何を意味するか?
資本主義の歴史において
ある特定の地域内にかぎるとは言え、
商品を生産してもそれが売れるとは限らない、
という事態が発生したということだ。
それまでの資本市議の歴史において
経済社会のいわゆる発展を牽引してきたのは
商品の生産力だった。
資本主義とは
より魅力的な商品の開発生産に向けて
最も効率よく資本を集めることに
最適化したシステムだ。
資本家は貪欲に
自らが投じた資本の利益拡大を求める。
投じる資本はより
確実な販売力を約束された商品の
開発・生産に向けられなければならない
このシステムは
魅力的な製品を開発・生産さえできれば、
その製品は多少の前後はあっても
必ず消費されるという前提に立っている。
それは工業製品の潜在需要は
つねに商品の生産力より大きい
という暗黙の共通理解があったからだ。
ところが、
1980年代の日本列島において
初めてこの前提が崩れた。
護送船団方式の大成功のゆえに
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』
と言われた日本の庶民の各世帯には
いわゆる三種の神器と言われた
「電気洗濯機・電気掃除機・電気冷蔵庫」
はもちろんのこと、
「カラーテレビ・クーラー・自動車」が揃い、
とりあえずそれ以上ほしいものがなかった。
起こったことは、
お父さんが会社からもらってきた給料で
お母さんが買いたい次の商品が
なくなったということだ。
もちろんそれまでも
資本主義の生みの親である
いわゆる西欧先進諸国の富裕層の間では
そういうことはいくらでもあっただろう。
しかし、特定の地域で
一般庶民を含めたすべての世帯において
これ以上買いたい物が特にない
という状況が起こったことはなかった。
それはありえないことだった。
だが1980年代に日本列島で
そういう事態が発生した。
こういう未曾有の事態が起こると
どういうことが起こるか?
お父さんは会社から給料をもらってくるが、
お母さんが特に買いたいものがないのだ。
そして日本列島の
庶民の家庭で起こったことは単純だった。
お母さんたちは
その給料を子供たちの教育費に回すか、
あるいは将来に備えて貯金することにした。
むろんこれは悪い選択ではない。
しかしじつは
これはいつまでもできることではない。
なぜなら、お父さんの会社は
その製品がお母さんたちに買ってもらえることで
お父さんに給料を支払っているからだ。
しかし、
商品の総生産力が総需要を上回って
しまった領域内においては、
商品流通の牽引力(つまり真の決定要因)は、
じつは「生産者」の手から
「消費者」の手に移ってしまったのだ。
この世界で必ず売れる商品を言い当てるのは
至難の業だといえる。
せっかくお父さんが
会社から給料をもらってきても、
お母さんがその給料を貯金したのでは、
お父さんの会社が保たない。
この事態に直面したとき、
ではそれまで国民を富ませる道を邁進してきた
日本の資本主義が取るべき方策はあったのか?
あった。
しかしそれは、
まったく未経験の新しい状態に対する
これまで誰も試みたことのない方策だった。
たがご存知のとおり、
日本はその道を取ることはなかった。
日本資本主義の代表者たちは
それまで生産力競争で世界と戦い、
勝ち抜いてきた歴戦の勇者たちだった。
生産力競争しか知らない彼らの目には
それ以外の経済政策というものは
存在しなかった。
彼らにその道はまったく見えなかっただろう。
そして国際金融システムの
支配者たちのミスリードに合わせて、
くるりと回れ右をして
過去の方に目を向け、
自分たちが通り過ぎてきた道を歩んでいる
国際労働市場の人たちと
労働力の価格競争をする道を選んだ。
その結果が失われた30年だ。
では、
日本資本主義が取りえた
他の道というのがあったというのか?
もちろん、あった。。
あったどころではない。
それは今もある。
世界中の他のどの国も取り得ない道が。
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