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歴史認識6 2022.11.3
五十迹手は、大鰐と同じ様に、神功皇后軍に鞍替えしたと、日本書紀は伝えて居ます。
本当でしょうか?
五十迹手一族は、全て消去されて居ます。つまりは、敵でしょう。
味方の様に記載しただけです。
神功皇后の祖先には開化天皇が居ますが、開化天皇の子の日子坐王の横に息長の名が入って居ます。天照大神の関係者の向津姫の一族と書いて有ります。
此れは、邇邇芸尊では無く、本当に、名古屋市の熱田神宮の関係者、建振熊の一族でしょう。
邇邇芸尊は、饒速日政権から禅譲を受けて訳では無く、武力で押し出したのです。
其のやり返しです。
福岡県在住の物部氏系統の開化天皇第3子彦坐王娘の狭穂姫(崇神天皇子孫の上毛野君の遠津祖八綱田が放火し征伐、岩波文庫日本書紀ニP28L13)の子の誉津別尊の第二子(の子、第一子は第二の日本武尊です。)が五十迹手です。鞍替え出来る筈は、有りません。五十迹手子の籠坂王や忍熊尊も征伐されて居ます。
福永晋三氏が、万葉集の難読歌の第9番歌を読み下しましたので、此処に載せて置きます。
万葉集第9番歌 額田王作歌
静まりし 大波騒げ 吾が背子が 居立てたし兼ねつ 厳橿が本
熱田神宮の物部氏の建振熊の事でしょう。
三国史記の新羅本記によると、倭族が攻め込んだのは、364年です。
此年に武内宿禰の子の誉田尊ー応神天皇を出産して居ます。応神天皇は、在位41年の404年崩御です。
神功皇后52年条(同P184L3)に七枝刀の記載が有ります。銘文に泰○四年と有ります。泰和四年369年に製造され、神功皇后52年372年に倭国に贈与された物です。
神功皇后55年百済の肖古王薨去と有ります。百済第13代近肖古王(在位346年~375年)375年の事です。
神功皇后13年条(同P170)に、此の御酒は・・・の歌が有ります。前の条は5年条、次の条は39年条です。応神天皇出産が364年ですから、神功皇后13年は376年です。崩御は、372年~376年の間と思われます。
375年7月に高句麗が百済に侵攻して来て、11月に近肖古王は薨去して居ます。
もしかしたら、神功皇后も出陣して居たのかも知れません。敗北崩御かも知れません。