歴史変動12 2023.1.23
岩波文庫日本書紀(三)P222L3~L7安閑天皇元年閏12月、是の月の条に関東は武蔵国造笠原直使主(カサハラノアタイオミ)と同族の小杵(ヲキ)の国造をめぐる争い事が記載されて居ます。わざわざ、使主と小杵は名だとの注が付いて居ます。
小杵は性阻(ヒトトナリウヂハヤ)くして逆(サカ)ふこと有り。心高びて順(マツロ)ふこと無し。密に就(ゆ)きて援(タスケ)を上毛野君小熊(ヲクマ)に求む。而(シカウ)して使主を殺さむと謀る。使主覚(サト)りて走(ニ)げ出(イ)づ。京(ミヤコ)に詣でて状を言す。朝庭臨断(ミカドツミサダ)めたまひて、使主を以て国造とす。
🟢子杵を誅(コロ)す。🟢
此処の京とは、北九州福岡県行橋市です。是年、太歳甲寅(西暦534年)と有ります。狗奴国出身の継体天皇(皇后は雄略天皇系統)は半島戦に敗北し522年に崩御して居ます。欽明天皇と政権が並立して居たとの見方が有ります。倭王武ー雄略天皇も半島戦で敗北し、半島勢力が北九州に押し寄せて来て居る時期です。筑紫の大善寺玉垂宮には、物部アラカイによる倭国本朝が成立して居ます。
小杵とは、上毛野君を頼って埼玉県の逃れた🟣武烈天皇、牛慈🟣では無いでしょうか。
地方の国造の争い等は、沢山有ったと思われます。何故武蔵国の事ダケ記載して有るのでしょうか。しかも、国政には何の影響も無いのにです。
つまりは、一階の国造では無く、⭕️元天皇⭕️だからでしょう。
しかも、公にはされて居ない豊樹入彦系列が誉田別天皇として摺り替わって居るのです。だから、上毛野君小熊が出て来るのです。522年半島戦で退却したのは、近江上毛野君です。(同P208L4)
小生は、何処迄も、追求して行きます。