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5.三千院 阿弥陀三尊坐像

京都北東部の自然豊かな大原にある三千院。苔むす庭園、四季折々の美しい景観の境内には季節を問わず、多くの人が訪れる。
往生極楽院おうじょうごくらくいんというお堂は、極楽浄土そのものを表現して造られているため、一歩入ると極楽浄土にいるような感覚を味わえる。
天井や三方の壁には極楽浄土や阿弥陀如来が描かれ、内陣まで入り座ると、今回ご紹介する阿弥陀如来像とちょうど目線が合うようになっている。

像の詳細

国宝に指定されている。
三千院 往生極楽院本堂(阿弥陀堂)所在
木造漆箔しっぱく ヒノキ 寄木造よせぎづくり
像高 阿弥陀如来232.0㎝ 観音菩薩132.2㎝ 勢至菩薩132.7㎝
平安時代(脇侍わきじの勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の久安4年(1148)の作とわかる墨書ぼくしょが発見された。)

墨書ぼくしょ‥墨で書かれたもの
漆箔しっぱく‥漆を塗った上に金箔を押したもの

阿弥陀三尊について

阿弥陀三尊あみださんぞんとは、仏教における仏像安置形式の一つ。
阿弥陀如来を中尊ちゅうそんとし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式のこと。

中尊ちゅうそん‥中央に安置される仏像

  • 阿弥陀如来について
    阿弥陀仏あみだぶつ弥陀仏みだぶつともいわれる。
    西方にある極楽浄土ごくらくじょうどの教主で、無限の光明(智慧)と無限の命を持って人々を救い続けるとされている。
    南無阿弥陀仏を唱えるものを臨終の際に極楽浄土へ導く。
    阿弥陀如来像は、姿は釈迦如来像に似ているが、来迎院らいごういん阿弥陀定印あみだじょういんなど阿弥陀如来特有の印相いんそう(手のポーズ)があるので、手を見ると見分けがつきやすい。

阿弥陀如来はサンスクリット語でアミターバ、アミターユスといい、無限の光明を持つもの、無限の寿命を持つものを意味する。このことから、無量光仏無量寿仏ともいう。

  • 観音菩薩かんのんぼさつ勢至菩薩せいしぼさつについて
    菩薩は悟りを開く前の釈迦をモデルにしているので、釈迦族の王子時代の姿をかたどって冠やアクセサリーなどを身につけ、華やかな見た目をしている。
    観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。
    阿弥陀三尊像では脇侍として左右に配される。
    観音菩薩は単独で祀られることもあるが、勢至菩薩が単独で祀られることは非常に少ない。
    両菩薩の特徴として、観音菩薩は頭上の宝冠ほうかんに阿弥陀如来の化仏けぶつ(小さな仏像)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶すいびょう(水を入れる瓶)を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。

像の特徴

中尊ちゅうそんは阿弥陀如来、脇侍わきじ(左右の像)は向かってが観音菩薩、が勢至菩薩。
とりわけ珍しい特徴として、左右の菩薩像が大和坐やまとずわ(膝を少し開き、上半身を前屈みにする)という坐り方をしている。
このように、中尊は坐像、脇侍は跪坐きざとするものは、来迎形式らいごうけいしきの阿弥陀三尊像といわれる。
つまりこの三尊像は、人の臨終の際に阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩が極楽浄土から迎えに来たその来迎らいごうの瞬間を表現している。

跪坐きざ‥正座から、両足を爪立てた姿勢。

阿弥陀如来
八角形の台座に座し、衣の裾が台座にかかり、垂れ下がっている。
顔の輪郭は四角張っている。
印相(手のポーズ)は来迎印らいごういんといい、親指と人差し指をくっつけて輪っかを作る。これは阿弥陀如来が人の臨終の際に極楽浄土から迎えにくる時の印相。

観音菩薩・勢至菩薩
脇侍像は蓮華の花をかたどった蓮華座れんげざに座す。
中尊の左右の真横でなく、斜め前に出ているのが特徴で、来迎の様子を臨場感あふれるさまで表すための工夫と考えられる。
観世音菩薩は往生者を乗せる蓮台れんだいを捧げ、左側の勢至菩薩は合掌して往生者を迎える様子を表す。

丈六仏じょうろくぶつについて
丈六とは1丈6尺の略で、約4.85m。(1丈=10尺 1尺=約30.3cm)
仏の身長がこの大きさといわれることから、仏像は丈六を基準に造られている。
立像(立った像)の高さが1丈6尺の仏像を丈六仏という。
坐像(座った像)では半分の8尺(2.43m)の高さのものをいい、立った時に1丈6尺になることを想定している。(半丈六仏は約8尺の立像のこと。)

本三尊像の阿弥陀如来は2.32mと坐像の丈六仏(8尺2.43m)より少し小さく、観音菩薩・勢至菩薩は1.32mと半丈六仏(4尺1.21m)より少し大きめとなっている。

像が造られた背景

阿弥陀三尊像のうち勢至菩薩像像内から発見された墨書の銘文から、僧実照願主がんしゅとなって久安四年(1148)に勢至菩薩像を造立したことがわかった。
面貌の共通性、耳の彫法の一致、および木寄せ構造の類似などからみて、三躰は一具と判断される。

このころの大原は良忍りょうにんが始めた融通念仏ゆうずうねんぶつの運動が盛んだった。
大型の来迎三尊像を造立したのは、大勢が集まって念仏する融通念仏の信仰形態と関係があると考えられる。

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