聯合艦隊司令長官伝 (15)出羽重遠
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は出羽重遠です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
常磐回航委員長
出羽重遠は安政2(1855)年12月17日に会津藩士の家に生まれた。幼名は房吉といった。戊辰戦争では白虎隊にも参加していたとも伝わる。戦後、父親は高田藩にお預けになり家族は離ればなれとなる。赦免されて上京し海軍兵学寮に入寮した。明治11(1878)年8月16日に海軍少尉補を命じられた。海軍兵学校第5期生43名中第6位の成績だった。就役したばかりの装甲艦扶桑に配属された。砲艦鳳翔に移って明治13(1890)年8月12日に海軍少尉に任官する。その後乗り組んだ装甲コルベット龍驤では明治14(1881)年に海軍兵学校第8期生徒(八代六郎など)を乗せて、明治15(1882)年から翌年にかけて第10期生徒(山下源太郎など)を乗せて遠洋航海をおこなった。明治14(1881)年の遠洋航海はオーストラリアまで往復した。明治15年からの遠洋航海ではニュージーランドからはじめて南米を訪問し、ハワイを経て帰国した。ニュージーランドからチリのバルパライソに向かっていた明治16(1883)年2月27日に海軍中尉に進級したが、ペルーのカヤオからホノルルに向かう行程で多数の脚気患者を出し大問題となった。これをきっかけに高木兼寛軍医総監がかねてから主張していた兵食改革が断行されて大きく改善されたが、陸軍では高木の意見を取り入れず、のちの日清戦争では脚気で多数の犠牲者を出す。
帰国後は砲艦天城乗組、コルベット浅間乗組を経てイギリスで建造された巡洋艦浪速を受領するためにイギリスで出張を命じられる。出羽は航海長として浪速をイギリスから日本に送り届けるという重大な責任を負わされた。浪速に先だってフランスから日本に向かった巡洋艦畝傍は途中で消息を断っていた。帰国中の明治19(1886)年4月7日に海軍大尉に進級し、浪速は無事日本に到着した。帰国後は同型艦の高千穂分隊長に移り、さらに伊東祐亨の下で常備小艦隊参謀をつとめた。司令官はのち井上良馨に代わるが、常備小艦隊が常備艦隊に改編されると出羽は巡洋艦高雄副長に補せられる。艦長は山本権兵衛大佐だった。明治23(1890)年10月16日に海軍少佐に進級してまもなく、海軍省第一局第一課長として東京で勤務することになる。海軍大臣官房主事になっていた山本の推薦があったのだろう。軍政全般を担当する第一課長、人事を担当する官房人事課長を歴任したあと、砲艦赤城艦長として艦隊に出、さらにイギリスで建造された通砲艦龍田の艦長としてイギリス出張を命じられた。しかし出発前に日清戦争の危機が切迫して新編された警備艦隊(のち西海艦隊)の参謀長に補せられ、イギリス行きはなくなった。なお龍田は日本に向かう途中に戦争が起きたためしばらく足止めを食うことになる。
日清戦争中の明治27(1894)年12月7日に海軍大佐(当時海軍中佐の階級はない)に進級し、常備艦隊参謀長として威海衛攻略では伊東長官を、台湾平定では有地品之允長官を補佐した。日清戦争の先行きが見え始めると東京に呼び戻され、古巣の第一課長(のち軍事課長と改称)で対ロシア戦備の計画にあたった。3年あまりでふたたび(みたび)イギリス行きを命じられる。今度は装甲巡洋艦常磐の受領である。建造監督、受領検査、訓練、回航を経て日本に到着したのは1年あまりのちのことである。
第一艦隊司令官
明治33(1900)年5月20日に海軍少将に進級し常備艦隊司令官に補せられる。司令長官は東郷平八郎だった。横須賀鎮守府で所属艦船の維持整備を担当する艦政部長をつとめたあと、海軍省軍務局長に補せられるとともに海軍軍令部次長も兼ねた。軍政と軍令のキーとなるポストを兼ねるのは異例で、たぶんに人事の都合があったものと考えられるが、出羽ならつとまるとも考えられていたのだろう。日露間の緊張はますます高まり、開戦が不可避になると出羽はふたたび東郷のもとで常備艦隊司令官に補せられる。艦隊が戦時体制に変わると第一艦隊司令官に職名が変わり、防護巡洋艦4隻からなる第三戦隊を任され、千歳を旗艦とした。第三戦隊の防護巡洋艦は偵察や連絡、警備や襲撃など艦隊の耳目手足の役割をつとめる縁の下の力持ちだった。旅順封鎖が継続中の明治37(1904)年6月6日に海軍中将に進級する。旅順陥落によりロシア太平洋艦隊が無力化し、日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅すると日本海軍は自由に行動できるようになった。まだロシア領土を寸土も占領していない現状を鑑み、講和交渉をにらんで樺太を占領することになり、第四艦隊が編成されて出羽が司令長官に親補された。片岡七郎の第三艦隊とともに樺太全島を占領した段階で講和条約が成立する。
平時体制に戻ると第二艦隊司令長官に横滑りする。当時の第二艦隊は戦艦壱岐、海防艦沖島、巡洋艦千代田などを主力としていた。1年ほどで海軍教育本部長に転じ、明治40(1907)年9月21日には男爵を授けられて華族に列せられた。ふたたび第二艦隊に戻り、佐世保鎮守府司令長官を経て、実戦部隊の頂点である第一艦隊司令長官に親補された。明治がまさに終わろうとしている明治45(1912)年7月9日に海軍大将に親任された。出羽以前の海軍大将は例外なく薩摩出身か皇族で、会津出身の出羽が海軍大将にまでのぼったのは画期的だった。第一艦隊司令長官を2年度つとめて軍事参議官に退く。
翌大正3(1914)年、海軍を揺るがしたジーメンス事件が発覚する。査問委員長に選ばれたのは出羽だった。出羽であれば事件に無関係で公正な判断を下すと衆目が一致していたのであろう。大正9(1920)年12月17日に65歳に達して後備役に編入されて現役を離れ、大正14(1925)年12月17日に退役となる。
出羽重遠は昭和5(1930)年1月27日死去。満74歳。海軍大将正二位勲一等功二級男爵。
おわりに
薩摩全盛の明治海軍で会津出身の出羽が海軍大将にまで出世したのは容易ではなかったはずです。人の耳目を引くような目覚ましい活躍はありませんでしたが、それも処世術だったのでしょう。
ウィキペディアなどには出羽の誕生を安政2(1855)年12月10日としていますが、後備役に編入された日付から逆算すると12月17日になるはずです。少なくとも海軍省ではそう認識していたことになります。
加藤友三郎についてはこちらをご覧ください。
次回は藤井較一です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は出羽が回航委員長と艦長をつとめた装甲巡洋艦常磐)