海軍大臣伝 (2)樺山資紀
歴代の海軍大臣について書いています。今回は樺山資紀です。
前回の記事は以下になります。
陸軍軍人として
樺山資紀は天保8(1837)年11月20日、薩摩藩士の家に生まれた。幼名は覚之進。同僚の樺山家の養子となる。戊辰戦争に従軍したあと、新政府の陸軍に出仕して明治4(1871)年には陸軍少佐に任官。明治7(1874)年には陸軍中佐に進み、西南戦争では熊本鎮台参謀長の職にあり、司令官の谷干城中将を補佐して薩摩軍による包囲攻撃を耐え、援軍の到着まで持ち堪えた。
明治11(1878)年には陸軍大佐に昇進して近衛参謀長に転じる。明治14(1881)年には陸軍少将に進み、警視総監として首都東京の治安維持に任じた。
海軍へ
明治16(1883)年12月13日、樺山は陸軍少将でありながら海軍省の次官にあたる海軍大輔に任じられた。翌年2月6日に海軍少将に転官する。樺山が陸軍から送り込まれた理由ははっきりしない。もともと海軍大輔は欠員になっており警視総監の樺山はその空席を埋めるのに都合がよかったとは想像できるが、海軍部内に人材がいなかったわけでもない。これまで海軍と縁がなくしがらみのない人物が求められた事情があったのかもしれないが、人事のことでもあり詳しくは分からない。明治17(1884)年7月7日に維新以来の功績により子爵を与えられて華族に列せられ、明治18(1885)年6月29日には海軍中将に昇進した。
明治18年末に内閣官制が施行されて海軍大臣に西郷従道が就任した。少し遅れて明治19(1886)年4月1日、官名が海軍次官と改められ樺山が留任する。西郷従道大臣を補佐して清国北洋艦隊に対抗するための軍備拡張を推し進めたが財政が厳しく思うように進められなかった。
海軍大臣
明治23(1890)年5月17日、西郷大臣が内務大臣に移ることになり、後任の海軍大臣として樺山次官が就任することになる。ちょうど明治憲法が施行されてまもなく、予算については帝国議会の協賛を得ることが必要になった。議会では民権派の勢力が強く、政府の施策は多く批判にさらされた。第一回議会では東洋初の民選議会ということであからさまな対決は互いに控えられ、予算も成立させることができたが、第二回議会ではもはやそんな遠慮は打ち捨てられた。軍備増強の必要性を訴える政府に対し、議会の多数を占める民権派は国民の生活を最優先するべきだとして全面対決した。民権派は政府予算の海軍軍事費を大幅に削減した修正案を提出する。
明治24(1891)年12月、樺山海軍大臣は議会で「藩閥藩閥というが現在日本が安泰で独立を保っているのは誰の功績であるか」と藩閥政府の存在意義を擁護し自己弁護するようないわゆる「蛮勇演説」を行なう。これは民権派の激しい反発を引き起こし、議会では政府予算案が否決されて修正案が可決され、松方正義総理大臣は衆議院を解散した。樺山は直情径行の嫌いがあり議会と丁寧に折衝するような腹芸は苦手で、議会制立憲国家における大臣にはむいていなかったのだろう。翌明治25(1892)年8月8日、松方内閣の退陣とともに樺山も海軍大臣を退き予備役に編入された。
日清戦争
話は少しさかのぼる。陸軍とは異なり海軍ではもともと軍令事項も海軍大臣の輔弼事項だったが、海軍の組織も充実しはじめると軍令組織を改めて編成することが考えられるようになった。その嚆矢は明治17(1884)年に海軍省の外局として組織された軍事部だが、紆余曲折を経て明治22(1889)年に海軍省に隷属する海軍参謀部が成立した。これが明治26(1893)年に海軍省から独立して天皇に直隷する海軍軍令部に改編され、陸軍の参謀本部と同じ位置付けに置かれた。
初代の海軍軍令部長は佐賀藩出身の中牟田倉之助中将だった。中牟田は幕末に長崎海軍伝習所で学んだ古い海軍士官でその実績は申し分ないものだったが、清国北洋艦隊の戦力を高く評価して日清開戦には否定的だった。海軍首脳部は日清戦争を目前にして中牟田軍令部長を更迭する。後任にあてられたのは戦意が高く、その一方でもともと海軍の専門家ではなく余計な口出しをしないであろう樺山だった。明治27(1894)年7月18日、樺山は特に現役復帰を命じられて海軍軍令部長に親補された。
日清開戦をうけて佐世保を出撃する聯合艦隊に樺山は「帝国海軍の名誉を揚げよ」と激励の信号を掲げ、伊東祐亨長官は「誓って名誉を揚げん」と回答した。しかし樺山はおとなしく内地で待つことに耐えられず、自ら仮装巡洋艦西京丸に搭乗して艦隊に随伴した。結果として黄海海戦でほとんど非武装の西京丸は清国艦隊のために危機に陥り、守ろうとした砲艦赤城の坂元八郎太艦長が戦死した。
戦争がひと段落した翌年5月10日、樺山は海軍大将(二人目)に任じられるのと同時に初代の台湾総督に任じられた。台湾は下関条約で日本に割譲されたが現地住民は日本の支配に反発した反抗していた。その制圧には一年以上を要した。樺山台湾総督は現役海軍大将として現地に派遣された陸海軍を指揮したが、わずか一年後の翌明治29(1896)年6月2日に台湾総督を桂太郎陸軍中将に譲って帰国した。なお桂総督は現地に赴任することもなく四ヶ月で退任する。この間、明治28年8月5日に日清戦争の功績により爵位を伯爵に進められた。
帰国したのちは枢密顧問官、文部大臣、内務大臣などを歴任した。現役海軍大将でありながら海軍とはほとんどかかわりがなかった。明治38(1905)年に後備役に編入、現役を離れた。明治43(1910)年に退役、大正11(1922)年2月8日死去。満85歳。海軍大将従一位大勲位功二級伯爵。
おわりに
樺山資紀は大臣時代の蛮勇演説、軍令部長としては黄海海戦での猪突猛進など、いかにも薩摩人らしい単純で熱血なエピソードが残っています。それがどれくらい本人の実態を表しているのかわかりませんが、経歴のわりにあまり良いイメージがないのはそうした言動の結果でしょう。
次回は仁礼景範になります。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は黄海海戦で樺山資紀が搭乗した西京丸)