聯合艦隊司令長官伝 (32)小沢治三郎
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は小沢治三郎です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
第一水雷戦隊参謀
小沢治三郎は明治19(1886)年10月2日に宮崎県で生まれた。家はもと高鍋藩士の家系である。宮崎中学に通っていたが喧嘩騒ぎで退学になる。海軍将校をめざして江田島の海軍兵学校に入校したのは日露戦争が終わって1年ほど経ったころだった。このときすでに20歳を超えており同期生の中では比較的年長だった。明治42(1909)年11月19日に第37期生179名のうち45位の成績で卒業し海軍少尉候補生を命じられる。首席は小林万一郎だったが大尉のときに病没(少佐に特殊進級)したため次席の井上成美がクラスヘッドになる。この年の練習艦隊は伊地知彦次郎司令官のもとに巡洋艦阿蘇と宗谷で編成された。小沢は宗谷乗り組みに割り当てられる。宗谷の艦長は鈴木貫太郎大佐、指導官の分隊長は高野五十六(のち山本五十六)大尉、指導官附の分隊士は古賀峯一中尉で、ともにオーストラリアや東南アジアを巡った彼らの親交は後々まで続く。
戦艦三笠に配属され、装甲巡洋艦春日に移った直後の明治43(1910)年12月15日に海軍少尉に任官する。初級将校が必ず経験する砲術学校と水雷学校の普通科学生を修了して大正元(1912)年年12月1日に海軍中尉に進級すると、霰ではじめての駆逐艦勤務を1年間経験する。翌年は最新鋭の巡洋戦艦比叡に移り、さらに巡洋艦千歳、横須賀海兵団勤務を経て大正4(1915)年12月13日に海軍大尉に進級して戦艦河内分隊長に補せられる。水雷屋をめざして海軍大学校乙種学生と水雷学校高等科学生を終えると、横須賀防備隊に所属する第二艇隊(水雷艇隊のこと)の艇長に補せられる。海軍省の辞令では実際の乗艇までは指定されない。はじめ白鷹、のち鴎の艇長をつとめたという。
第一次世界大戦は大詰めを迎えており日本海軍もドイツの無制限潜水艦戦に対処するため第二特務艦隊を地中海に派遣していた。小沢は第二特務艦隊での勤務を予定した司令部附として便船で任地に向かう。到着直前に正式に駆逐艦檜乗組が発令されたが、イギリス領エジプトの根拠地に着いたときにはすでに休戦が発効していた。帰国して大正天皇に拝謁したのは大正8(1919)年7月4日である。第19期生として海軍大学校甲種学生を命じられ、2年の課程を終えて大正10(1921)年12月1日に卒業すると同時に海軍少佐に進級して駆逐艦竹の艦長に補せられる。竹は第二十五駆逐隊(佐世保鎮守府所管)所属でこの年は第一艦隊第一水雷戦隊に配属されていた。司令長官ははじめ栃内曽次郎、のち竹下勇である。第一水雷戦隊司令官は大谷幸四郎、小沢の直接の上司にあたる第二十五駆逐隊司令は巨勢泰八大佐だった。
台湾の馬公要港部参謀のあと、駆逐艦島風艦長、第三号駆逐艦(のち朝風)艦長、巡洋戦艦金剛水雷長と艦隊勤務が続く。岡田啓介長官の下で聯合艦隊参謀をつとめ、年度末の大正15(1926)年12月1日に海軍中佐に進級して第一水雷戦隊(高橋寿太郎司令官)の首席参謀に転じた。昭和2(1927)年の夏、聯合艦隊は第一水雷戦隊に所属する第二十七駆逐隊を臨時に第二艦隊に編入して夜間襲撃演習を計画する。小沢は聯合艦隊の加藤寛治長官、高橋三吉参謀長に「練度も指揮系統も異なる第二十七駆逐隊を編入するのは危険だ」と再考を求めたが演習は計画通り実施され、第二十七駆逐隊の蕨と葦がそれぞれ第二艦隊の神通、那珂と衝突、蕨が沈没するなど多くの犠牲者を出す美保関事件を起こす。この年度末には久しぶりに艦隊をおりて横須賀で砲術学校、水雷学校、装甲巡洋艦春日(運用術練習艦)の教官を兼務する。
昭和5(1930)年にはドイツ、イギリスに出張してジュトランド海戦について経験者に聞き取りをおこなう。水雷屋の小沢にとってこの海戦は夕方から夜間という時間帯に両軍が大部隊で雷撃戦闘を繰り広げた貴重な戦例だった。昭和5(1930)年12月1日に海軍大佐に進級して第一駆逐隊司令に補せられる。峯風型駆逐艦で編成された第一駆逐隊はこの年は艦隊に所属していなかったが、わずか2ヶ月で第四駆逐隊司令に移る。第四駆逐隊の構成艦も第一駆逐隊と大差ない古い艦だったが、第四駆逐隊は第一艦隊に編入されていた。しかしこれも2ヶ月で交代していったん艦隊をおりる。年度末も近い10月に新鋭の吹雪型駆逐艦で編成された第十一駆逐隊司令に補せられた。新鋭駆逐艦は夜襲を本分とする第二艦隊に優先されて配属されており、第十一駆逐隊も第二艦隊第二水雷戦隊に所属していた。この年の聯合艦隊司令長官は山本英輔、第二艦隊司令長官は中村良三だった。しかしこれもまた2ヶ月で定期異動となる。
南遣艦隊司令長官
艦隊をおりた小沢は海軍大学校教官をつとめる。3年間つとめたのはその戦略や戦術の見識を買われたのだろう。軍縮条約で劣勢を宿命づけられた日本海軍は夜襲に活路を求めた。その具体化を担ったのが小沢だった。小沢は主力艦も含む全軍夜襲を提唱する。その後、重巡洋艦摩耶艦長、戦艦榛名艦長をつとめて昭和11(1936)年12月1日に海軍少将に進級する。海軍大学校教官に復帰したがまもなく聯合艦隊参謀長の岩下保太郎が病死したため小沢がその後任となった。長官はその直前に米内光政から永野修身に代わっていた。やがて日中戦争がはじまるが聯合艦隊は一部の戦力を派出する程度で直接関与することはなかった。参謀長は年度末までで翌年は軽巡洋艦で編成される第八戦隊司令官に補せられる。秋には中国大陸方面に派遣され、華南を担当する第五艦隊(塩沢幸一司令長官)の指揮下に編入されて、広東攻略のために上陸する陸軍部隊の護衛にあたった。
翌年度は横須賀田浦の海軍水雷学校長をつとめ、昭和15(1940)年度は第一航空戦隊司令官をつとめた。小沢にとって航空は専門外だが、歴史の浅い航空界では生粋の航空屋で司令官クラスの階級に達している人材が不足していた。他の分野の専門家に頼るしかなかったのだが、水雷と航空は運用が比較的似ていると考えられ、水雷屋があてられることが多かった。南雲忠一などが典型的な例だったが、小沢は外様扱いに甘んじることなく、これまでの航空戦隊を第一、第二艦隊にそれぞれ配属するやり方をやめて同一の組織に集中配備することを提案した。これは翌年になって第一航空艦隊として実現する。年度末に金剛型高速戦艦で編成された第三戦隊司令官に移り、昭和15(1940)年11月15日の定期異動で海軍中将に進級した。
昭和16(1941)年度の聯合艦隊は対米戦争を念頭に艦隊クラスの組織も含めて新しい部隊が続々と誕生していた。毎年秋の終わりに実施されていた定期異動だけでは間に合わず、年度の途中でも比較的規模の大きい人事異動がおこなわれた。9月の人事異動もそのひとつで、たびたび教官をつとめた海軍大学校の校長に補せられたのも束の間、10月には南遣艦隊司令長官に親補されてふたたび艦隊に出ることになる。南遣艦隊は南部仏印進駐に際して臨時編成された部隊を正式に艦隊にしたものだが、平田昇から小沢に長官が交代した直後に聯合艦隊に編入された。対米英戦争の主要目的である南方資源地帯の確保において南遣艦隊はその先鋒としてマレー、シンガポール攻略に参加してさらにジャワをめざすことになっていた。真珠湾に機動部隊が投入されたため戦力は必ずしも十分ではなかったが、小沢はどんな犠牲を払っても陸軍部隊を必ず無事に送り届けると山下奉文陸軍第二十五軍司令官に確約して山下を感動させた。太平洋戦争が開戦するとイギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズを基幹とする部隊に比べて圧倒的に劣勢な部隊しかもっていなかった小沢は悲壮な覚悟で出撃したが幸いなことに基地航空部隊が撃沈してくれた。
昭和17(1942)年があけると第一南遣艦隊と改称するが実態は変わらない。連合軍艦隊はジャワ周辺に終結して日本軍を迎え撃ったが、日本海軍は聯合艦隊の増援をうけて大半を撃破し、一部がオーストラリアやインドに脱出した。3月はじめには第一段作戦はおおむね完了する。4月には東南アジアを担当する南西方面艦隊司令部が新設され、ジャワにいて小沢の1期上になる高橋伊望第三南遣艦隊司令長官が南西方面艦隊司令長官を兼ねた。
第三艦隊司令長官
小沢はミッドウェーの敗報を、本土を挟んで真反対になるシンガポールで聞く。7月に艦隊再編にともなう人事異動があり小沢は本土に帰還する。南方で苦労した小沢は休養という意味もあったのか軍令部出仕におかれた。戦時とは言えこのころはまだ余裕があったことが伺われる。しかしガダルカナルに米軍が上陸し、周辺海域で激しい海戦が繰り広げられると安閑とはしていられない気持ちになっただろう。10月攻勢は失敗に終わったが南太平洋海戦で南雲長官がミッドウェーの雪辱を一応成し遂げると11月の異動で小沢は空母機動部隊である第三艦隊司令長官を引き継ぐ。ミッドウェー海戦の教訓に基づき、第三艦隊は機動部隊主力となり、第二艦隊が前衛として機動部隊主力と敵のあいだに位置することとされ、小沢が着任する前の第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦で試みられていたが思うようにはいかなかった。第二艦隊司令長官の近藤信竹は海軍兵学校の第35期生で、第36期生の南雲は先輩で先任にあたる近藤に命令することができなかった。航空戦を指揮する機動部隊指揮官が前衛指揮官に命令できない状態は迅速な指揮を阻害する結果になる。第37期生の小沢の立場は南雲よりさらに弱かった。結局昭和18(1943)年の半ばに近藤が支那方面艦隊に転出し、第38期生の栗田健男があとを引き継いでこの問題は一応解決するが、昭和19(1944)年3月に第二、第三両艦隊を統率する第一機動艦隊司令部を新設して小沢が司令長官を兼ねることで組織として指揮関係が確立した。
そのあいだにガダルカナルから日本軍が撤退して敗北が確定し、まもなく山本聯合艦隊司令長官が戦死する。山本と、山本を引き継いだ古賀は目の前の劣勢を挽回するために、小沢が苦心して育てた母艦航空隊を南東方面に注ぎ込んですりつぶしてしまう。古賀は米軍と決戦して一気に退勢を逆転することを望んだが、そのためには母艦航空隊と、艦隊を動かすための燃料が両方揃っている必要がある。守勢に立たされていた日本海軍は決戦のタイミングを自ら選ぶことができない。昭和18(1943)年末から翌年初頭にかけて米軍がギルバート、マーシャル諸島に来襲したとき、聯合艦隊は燃料が不足していて出撃できなかった。
日本海軍が長年拠点としていた内南洋はもはや安住の地ではなくなった。いまや内南洋自体が争奪の対象になり、その渦中で古賀は殉職する。小沢は拠点をかつて滞在していたシンガポールにほど近いリンガ泊地に移す。米軍の攻撃を受ける恐れはなく、なによりもすぐ近くのスマトラでは石油を産出して燃料の心配もなかった。最大の問題は戦場までの距離だった。古賀の後任になった豊田副武が決戦場をパラオ近海に設定したのは、パラオまでしか出て行けないという日本側の事情でしかなかった。やがてどうにかタンカーの都合がつきマリアナ諸島への出撃が可能になる。それでもリンガからマリアナは遠い。実際に米軍が襲来してからリンガを発っていたのでは間に合わなくなる恐れがある。そこで戦況が逼迫するとボルネオ東部のタウイタウイ泊地に進出して待機することにしていた。ところが実際にタウイタウイに着いてみると泊地は狭く訓練ができない。泊地を一歩出ればアメリカの潜水艦が待ち構えている。1ヶ月に及ぶ待機の間に搭乗員の腕は落ちていった。小沢はのちに「タウイタウイで待機している間に練度が落ちた搭乗員にアウトレンジ戦法という難しい戦法をやらせたのが間違いだった」と振り返っている。マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わり、燃える旗艦大鳳の艦橋で一緒に死ぬんだと言い張る小沢を部下が抱きかかえるようにして無理矢理おろしたという。
マリアナ戦後は第二艦隊はリンガ泊地で訓練を継続する一方、第三艦隊は航空隊再建のために内地に戻った。しかし練成に時間がかかる母艦航空隊の再建は後回しにされ、基地航空隊が優先された。比島戦が始まったときに使用可能な母艦航空隊はごく僅かで、与えられた役割は第二艦隊が突入する隙を作るための囮だったが小沢はそれを受け入れた。旗艦瑞鶴が米空母の攻撃で通信不能に陥ると小沢は幕僚の勧めに逆らうことなく素直に巡洋艦大淀に移った。小沢は空母全てを失いながら囮の役割を全うしたが、第二艦隊は突入を断念しフィリピンは事実上米軍の手に落ちた。小沢はわずか4隻の残存艦を率いて内地に帰還したが第三艦隊は解隊される。
開戦以前から軍令部次長をつとめていた伊藤整一が第二艦隊司令長官に出ることになり、後任の軍令部次長に小沢が就任する。小沢は作戦指揮に定評があり実戦経験が豊富だが、軍令部での勤務は最初で最後になる。小沢はこれ以外に海軍省などの官庁勤務はなく、徹底して現場の人だった。しかし空母も水上艦もほとんど全滅して小沢の手元に残された全力は航空機か潜水艦くらいだった。小沢をもってしても工夫のしようがなく、沖縄に来襲した米軍に対しては闇雲に特攻機や潜水艦を突っ込ませることしかできなかった。その中で第二艦隊を沖縄に突入させるという構想が生まれる。聯合艦隊司令部の説明を小沢は「聯合艦隊に成算があるなら」と了承した。
沖縄戦の先行きが見え始めた5月末、海軍の全戦力を指揮する海軍総司令長官に就任していた豊田が軍令部総長に移ることになり、後任の海軍総司令長官(兼聯合艦隊司令長官・海上護衛司令長官)に小沢が選ばれる。このとき米内光政海軍大臣は小沢に「大将になれよ」と勧めたが小沢はこれを断っている。航空機と潜水艦以外に実効戦力がない状況は小沢が軍令部次長だったころからさらに強まり、航空、水上、海中のいずれでも戦法は特攻一本になった。すべての戦力整備が特攻前提になり、本土決戦は総特攻で戦われることが予期された。しかしその前にポツダム宣言が受諾されて本土決戦は回避される。小沢は政府の決断を受け入れ、終戦処理にあたった。宇垣纏が終戦後に部下を率いて特攻に出撃したことについては「部下を道連れにするなどもっての外で、自決するならひとりでやれ」と批判している。10月10日に聯合艦隊が解散されると同時に予備役となる。
小沢治三郎は昭和41(1966)年11月9日死去。満80歳。海軍中将正四位勲一等。
おわりに
小沢治三郎は山本とは違った意味で太平洋戦争での海軍を象徴する人物でしょう。開戦から終戦まで終始戦局の中心にあった人物で、ミッドウェーとガダルカナルに関与していないのが不思議なくらいです。
中尉で乗り組んだ駆逐艦、ウィキペディアでは「霞」とありますが「霰」が正解だと思います。
どうにか最終回に辿り着きました。次は何かな。ではもし機会がありましたらまた次回もお会いしましょう。
(カバー画像は小沢が駆逐艦長をつとめた初代島風)