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「最後の」公爵 - ファイフ公爵家
はじめに
王族を除く臣下としてもっとも新しい公爵家であるファイフ公爵家が創設されてから130年あまりが経ちました。イギリスにおいてももはや世襲貴族の創設は考えられなくなる時代となり、ファイフ公爵家が最後に創設された公爵家となるのはほぼ確実です。
王女の結婚
1889年7月27日、ロンドンのバッキンガム宮殿でエドワード王太子の長女にしてヴィクトリア女王 Queen Victoria の孫娘にあたるルイーズ王女 Princess Louise Victoria Alexandra Dagmar の結婚式が挙行された。寡黙で引っ込み思案なルイーズ王女について母である王太子妃アレクサンドラ(デンマーク王女)は結婚させずに自分のそばに置いておく考えだったというが、結局は結婚させることになった。22歳の王女の伴侶として選ばれたのは17歳年長のファイフ伯爵アレクサンダー Alexander Duff, 6th Earl Fife だった。
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ハノーヴァー朝がはじまってから、王女でありながらイギリス臣民と結婚したのはヴィクトリア女王の四女でアーガイル公爵夫人となったルイーズ王女(別名異人)以来ふたり目になる。スコットランドの名門貴族であるアーガイル公爵と異なり、ファイフ伯爵はアイルランドの比較的歴史の浅い貴族で本来であれば王女の配偶者になれるような家柄ではない。アレクサンダーに白羽の矢が立ったのはひとえにその母方の祖母エロール伯爵夫人エリザベス Elizabeth Hay, Countess of Erroll の血縁による。
エリザベスは旧姓をフィッツクラランス FitzClarence (クラランスの子)といい、その名の通りもとのクラランス公のちの国王ウィリアム4世 William IV が内縁の妻との間にもうけた非嫡出子で、つまりアレクサンダーは国王の曽孫にあたる(王位継承権はない)。なお伯爵は4ヵ月後には40歳になるがこれが初婚だった。未来の国王の長女の婿としては重みが足りないと考えられたのか、結婚式の2日後にはアレクサンダーにファイフ公爵 Duke of Fife の爵位が授けられる。これによりルイーズは晴れて公爵夫人を名乗ることができた。
スコットランド氏族
スコットランドでは氏族 clan が社会で大きな存在感をたもってきた。訳語がしめすように元来は血縁者の集団を意味していたがやがてその姓 surname を許されることで氏族の構成員とみなされるようになり必ずしも血縁者とはかぎらなくなる。氏族は一定の地域を領有支配するなかば公的な機関となり、中世スコットランド王国は氏族の集合体で国王はその代表にすぎないと見ることもできる。そういう意味では豪族の合議体だったと言われる日本のヤマト政権のあり方に似ている。スコットランド貴族の多くはこの氏族の首長出身で、貴族に叙爵することで実力による地域支配を公認するという側面もあっただろう。特にスコットランド北部は山がちな地形で中央政府の統制がとどきにくく、氏族の自立性が高かった。こうしたいわゆる高地氏族 highlander はイングランドによる支配に頑強に抵抗し続けた。アーガイル公爵家 Duke of Argyll を世襲するキャンベル氏族 clan campbell は代表的な高地氏族である。アサル公爵家 Duke of Atholl マレー氏族 clan murray が私費で維持するアサル高地連隊 Atholl Highlanders は現在イギリスで公認されている唯一の「私設軍隊」である。毎年一度行進を行うのが任務のほぼすべてだが、1921年に日本の皇太子(昭和天皇)がアサル公爵邸を訪問したときにも行進を披露したという。
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ファイフ Fife はスコットランドの古い都市セントアンドリュース St Andrews を含む地域でスコットランドでは早くから開けた地方だがこの地方を代表する氏族にマクダフ氏族 clan macduff があった(マクダフ氏族は高地氏族ではない lowlander である)。このマクダフ氏族の長 chief であるマクダフ家の当主が代々ファイフ伯爵を名乗っていたが、中世末にいたって断絶した。その資産を継承したとされるのがハノーヴァー朝初期に出た復活初代ファイフ伯爵ウィリアム・ダフ William Duff, 1st Earl Fife だが中世のマクダフ氏族との系譜関係は明らかでは無い。ウィリアム・ダフはアイルランドに本拠地を移しておりアイルランド貴族として爵位を得ている。マクダフ氏族長の地位は空位となっており、復活したファイフ伯爵家と現実のファイフ地域のあいだには関連はなく単に名称として由緒がありそうな地名を採用したもので、こうした事例は特に近世以降に創設された貴族では珍しくない。
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後継者問題
初代ファイフ公爵アレクサンダーと結婚したルイーズはまもなく妊娠し翌年男子アラステア Alastair Duff, Marquess of Macduff を出産するが残念ながら死産だった。ふたりはさらに翌年長女アレクサンドラ Alexandra 、さらに翌々年にモード Maud とふたりの娘をもうけ、ふたりはつつがなく成長した。しかし夫婦のあいだにこれ以上の子供は生まれず、公爵は50歳を超えさらにルイーズ王女も30歳を超えて後継者たる男子の誕生は難しくなった。1889年に授与されたファイフ公爵(およびマクダフ侯爵 Marquess of Macduff)の免許状 letters patent では爵位の相続権をもつのは初代公爵の男子及びその子孫 heirs male of 1st Duke's body lawfully begotten と定められており、このままではファイフ公爵家は一代で断絶してしまう。
最晩年のヴィクトリア女王は1900年4月24日に新たな免許状を発行して改めてアレクサンダーにファイフ公爵(およびマクダフ伯爵)を授ける。そしてその免許状には相続に関する特別規定 special remainder が定められた。すなわち、初代公爵の男系子孫がない場合は、初代公爵の娘およびその男系子孫への継承を認めたのである。こうしてアレクサンダーはふたつのファイフ公爵を保有することとなる。1889年のファイフ公爵は相続人が存在しない状態だが、1900年のファイフ公爵は娘たちとその子孫に相続させることができる。この時点の推定相続人 heir presumptive は長女アレクサンドラである。
これから1年も経たない1901年1月にヴィクトリア女王は崩御し、ルイーズの父王太子が即位してエドワード7世 Edward VII と称することになる。さらに同じ年の8月、ルイーズの伯母でヴィクトリア女王の長女にしてドイツ皇帝妃(当時の皇帝ヴィルヘルム2世の母)であるヴィクトリア Victoria, Princess Royal and German Empress が亡くなった。国王の長女が帯びる称号「プリンセルロイヤル Princess Royal」が空席となったいま、その資格者は現国王の長女にあたるルイーズそのひとである。1905年11月9日にルイーズは Princess Royal の称号を正式に授与されると同時に、特にそのふたりの娘に王女の称号と Highness の style が許された。たとえばアレクサンドラは Her Highness Princess Alexandra of Fife と名乗ることになる。
1911年、旅行中の一家は乗っていた船がモロッコ沖で難破するという災難に遭う。無事に救助されたものの60歳を超えていた公爵は健康を損なってしまう。目的地エジプトに到着した一行だが公爵はそこで床につきそのまま翌1912年早々に亡くなった。1889年に授与されたファイフ公爵(およびマクダフ侯爵)は断絶 extinct し、1900年に授与されたファイフ公爵(およびマクダフ伯爵)は長女アレクサンドラ Princess Alexandra, 2nd Duchess of Fife が継承した。アレクサンドラは自らの権利として第2代公爵を称することになる。
44歳で未亡人となったルイーズは隠遁生活を送り1931年に63歳で亡くなった。
コンノート公爵家
アレクサンドラが公爵位を相続した翌1913年10月15日、コンノート公爵の嫡男であるアーサー Prince Arthur of Connaught と結婚した。花嫁は22歳、花婿は30歳だった。花婿の父コンノート公アーサーはヴィクトリア女王の三男で、つまりこの結婚はヴィクトリア女王の孫(アーサー)と曽孫(アレクサンドラ)の結婚ということになる。
コンノート公アーサー Prince Arthur, 1st Duke of Connaught はヴィクトリア女王の三男だが、長男エドワードは前国王(1910年崩御)、次男エジンバラ公アルフレッドは海軍に勤務したが1900年に死去、弟オルバニー公レオポルトは1884年に30歳で早世していたためヴィクトリア女王の王子のうち当時存命していたのはアーサーただひとりであり王族の長老として重きをなしていた。国王の名代としてしばしば外国訪問をし、日本を公式訪問した最初のイギリス王族でもある。ドイツ皇女(といっても国王フリードリヒヴィルヘルム3世の曽孫)と結婚してもうけた唯一の男子が嫡子アーサーだった(ほかに女子ふたり)。
アレクサンドラとアーサーのあいだには翌1914年8月9日、嫡男アラステア Alastair of Connaught, Earl of Macduff が生まれた。第一次世界大戦がまさに始まろうとしているときで世間は騒然としていたことだろう。アラステアは現任の公爵(アレクサンドラ)の確定相続人として「マクダフ伯爵」の儀礼称号を名乗る。アーサーはイギリス派遣軍 British Expeditionary Force BEF の副官としてヨーロッパ大陸に出征し、総司令官フレンチ元帥およびその後任のヘイグ元帥につかえた。アレクサンドラは志願して看護婦として病院で勤務した。アレクサンドラは看護婦としての仕事に誇りをいだき、戦後夫アーサーが南アフリカ総督に任命されたときには任地に同行して現地の病院で看護婦として勤務したという。
二重の相続人
コンノート公アーサーは頑健でヴィクトリア女王の子女の中では最も長生きした。そのあいだにアレクサンドラの夫アーサーが胃癌をわずらい55歳で逝去した。1938年のことである。かくしてアラステアは嫡孫としてコンノート公アーサーの確定相続人になった。ファイフ公爵とコンノート公爵の両方の確定相続人という希有な立場に置かれたアラステアは当時24歳である。1917年の王室法改正により女王の曽孫であるアラステアは王子の称号はもたずアラステア・ウィンザー Alastair Windsor という姓名をもち、儀礼称号としてはそれまでのマクダフ伯爵に加えてサセックス伯爵 Earl of Sussex も称し得る立場になったがもっぱらマクダフ伯爵を使用したようである。
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アラステアは陸軍元帥にまで昇進した祖父や、第一次世界大戦で戦地に出征した父のあとを継いで陸軍軍人をこころざしサンドハーストの陸軍士官学校で学んで陸軍士官に任官した。任官直後はエジプトで勤務したが第二次世界大戦が勃発する直前の1939年7月にカナダ総督副官に任じられて大西洋を渡った。カナダ総督は第一次世界大戦当時に祖父コンノート公が勤めたこともある。そのコンノート公は、アラステアがカナダ勤務中の1942年1月16日、91歳で亡くなった。
27歳で第2代コンノート公爵を相続したアラステアは同時にファイフ公爵の確定相続人であり、両公爵家はいずれアラステアのもとで統合されるものと考えられ、当時のファイフ公爵である母アレクサンドラもそれを当然期待した。ところが爵位継承から1年あまりの1943年春、アラステアが任地であるカナダの首都オタワで亡くなったという知らせがアレクサンドラのもとに届く。4月26日に遺体で発見されたアラステアの死因は公式には「自然死」とされて詳細は伝えられていなかったが、後年になって発見された王室関係者の日記によると上官である総督や連隊長に軽んじられたアラステアは泥酔した状態で窓を開けたまま自室の床に寝込んでしまい低体温症で死亡したとされている。
カーネギー家
未婚のまま亡くなったアラステアには当然子女はなく、兄弟も叔父もいないコンノート公爵は後継者がないため断絶 extinct となった。同時にファイフ公爵家も確定相続人を失ったことになる。ファイフ公爵の推定相続人は現公爵であるアレクサンドラの妹、モードである。ファイフ公爵家は初代公爵の娘にかぎって女性の相続を認めている。
初代公爵アレクサンダーとルイーズの間の次女モードは、長女アレクサンドラが女王の孫と22歳で結婚したのと異なり、30歳で同い年のサウセスク伯爵家の跡継ぎであるカーネギー卿チャールズ Charles Carnegie, Lord Carnegie と結婚していた。コンノート公の代替わりと断絶の少し前、1941年11月に夫が第11代伯爵 11th Earl of Southesk を相続してモードも伯爵夫人を称していた。ふたりの間には1929年にジェームズ James Carnegie という一人息子が生まれていた。
17世紀はじめ当時のエリザベス女王が亡くなりスコットランドのジェームズ6世がイングランド王位を継承することになったとき、ジェームズ1世(イングランド王として)がスコットランドから側近として呼び寄せたのがデヴィッドとジョンのカーネギー兄弟だった。カーネギー氏族 clan carnegie は15世紀はじめにスコットランド中部アンガス地方で領地を得たとされる小規模な氏族だったが、カーネギー兄弟の兄デヴィッドはサウセスク伯爵 David Carnegie, 1st Earl of Southesk を、弟ジョン(兄とする資料もある)はノーセスク伯爵 John Carnegie, 1st Earl of Northesk を授与され兄弟そろって貴族に列せられて以降代々相続して現在まで両系統とも存続している、スコットランド貴族としてはダフ家のファイフ伯爵よりもやや格上の家系と言えるだろうか。それでもカーネギー本家のサウセスク伯爵家としては跡継ぎの嫁として国王の血をひく公爵令嬢を迎えられただけでも十分な名誉と考えられたことだろう。
ところが1943年にコンノート公アラステアが急死したことで状況は一変する。伯爵夫人モードが公爵家の推定相続人となり、さらにその子息であるジェームズが公爵家を継承するというシナリオがにわかに現実味を帯びてきたのだ。もっとも時代は第二次世界大戦の真っ最中でありそんな将来のことを考えていられる気分ではなかったかもしれない。5年8ヵ月におよんだ戦争はイギリスなどの連合国の勝利で終わったがドイツ降伏から半年ほど経った1945年12月14日にサウセスク伯爵夫人モードは52歳で亡くなった。ジェームズ・カーネギーが母親にかわってファイフ公爵家の推定相続人となる。
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夫と舅と息子と実妹に相次いで先立たれた公爵アレクサンドラは、戦後はリウマチを発症して自宅で静養を続け1959年に77歳で亡くなった。ジェームズが第3代ファイフ公爵(およびマクダフ伯爵)を継承して爵位はカーネギー家に移る。ここでひとつ興味深いのは、母の権利を通じて伯母から公爵を継承したジェームズだがこのときにはまだ父親のチャールズが健在だったということである。つまり65歳の父親チャールズは引き続き第11代サウセスク伯爵であるのに対し、29歳の息子ジェームズが第3代ファイフ公爵と、親子で爵位が逆転しているという面白い現象が起きている。日本的な感覚ではなかなか理解しづらいかもしれない。サウセスク伯爵チャールズはなんと98歳まで長生きして1992年に亡くなった。ジェームズは1959年の公爵相続から30年以上経ってようやく父の伯爵位を相続した。
ジェームズは公爵継承前の1956年に結婚して嫡子デヴィッドが1961年に生まれていた。公爵の嫡子たる確定相続人としてデヴィッドはマクダフ伯爵 Earl of Macduff を儀礼称号として称していた。デヴィッドにとって祖父であるチャールズが亡くなってジェームズがサウセスク伯爵を相続したことにより、デヴィッドは儀礼称号をサウセスク伯爵と改める。1900年に公爵位とともに創設されたマクダフ伯爵よりも1633年創設のサウセスク伯爵のほうが格上だと考えられたからだろう。2015年にジェームズは85歳で亡くなり、現在はデヴィッドが第4代ファイフ公爵を継承している。
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おわりに
カーネギーというと思い出すのはアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギー Andrew Carnegie ですが、彼はもともとスコットランド移民の出身でその生誕地はファイフと伝わり、カーネギー氏族の出身だったことが強く推測されますが少なくともアンドリューの時代には没落していました。氏族長と血縁があったかどうかもわかりません。おそらく祖先がカーネギー家に仕えていた時期があってカーネギー姓を名乗ることを許されたのではないでしょうか。
歴史の短いファイフ公爵家ですが、第2代への相続でも第3代への相続でも相続それ自体は波乱なくとり行われたもののそこまでの過程はけっこう複雑で、制度を理解するためのケーススタディとしては適した素材ではないかと思います。
主に Wikipedia を参照していますが thepeerage.com も参照しています。画像は Wikipedia から引用していますが、手書きの系図は自作です。
さて次回ですが、英国貴族についてはほぼ無限に書けそうなのですがなにより需要がそこまでなさそうなので、そろそろ海軍で何か書けないかと考えています。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像はファイフに残るマクダフ城の跡)