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海軍軍人伝 大将(15) 百武三郎

 これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は百武三郎です。
 前回の記事は以下になります。

磐手艦長

 百武ひゃくたけ三郎さぶろうは明治5(1872)年4月28日に佐賀藩士の家に生まれた。10歳離れた弟に源吾げんごがいる。海軍将校をめざして東京築地の海軍兵学校に首席で入校したのは明治21(1888)年7月14日だった。半月後の8月1日に兵学校は広島県江田島に移転したが校舎などの設備は整っておらず、湾内に停泊した東京丸に寝泊まりした。明治25(1892)年7月26日に第19期生として卒業し海軍少尉候補生を命じられたときも同期生50名の首席だった。コルベット金剛こんごうに乗り組んで北米西海岸に向けて遠洋航海に出発し、カナダのバンクーバーに至る。おりからハワイ王国で革命が起こり、金剛はホノルルで邦人の保護にあたった。やがて本国から巡洋艦浪速なにわが警備のために派遣され、帰国したのは翌年春のことである。帰国すると巡洋艦松島まつしまに配属される。さらに翌年、日清間の緊張が高まり聯合艦隊が編成されると松島は伊東いとう祐亨すけゆき長官の旗艦となった。黄海海戦で松島は大きな損傷をうけ多くの死傷者を出す。海戦直後の明治27(1894)年9月25日に海軍少尉に任官して佐世保海兵団分隊士に発令される。巡洋艦千代田ちよだで威海衛攻略に参加し、戦後は巡洋艦厳島いつくしまに移った。いったん松島に戻ったあと、イギリスで建造された戦艦八島やしまを受領するためにイギリスに派遣される。ほぼ1年後に帰国し明治30(1897)年12月1日に海軍中尉に進級した。日清戦争で捕獲した小型砲艦鎮辺ちんぺんの航海長に補せられた。明治31(1898)年5月30日には早くも海軍大尉に進級し、砲艦赤城あかぎ、通報艦宮古みやこの航海長をつとめた。海軍大学校甲種学生(第3期生)を命じられ、修了後は呉鎮守府参謀に補せられる。
 ロシアとの戦争が避けられないとみた日本海軍はイタリアでアルゼンチン向けに建造されていた2隻の装甲巡洋艦を買収した。この2隻がシンガポールに無事到着したという報せが開戦のタイミングを決めることになる。百武は日本に到着した日進にっしんに水雷長として乗り組んだ。5月15日に6隻の戦艦のうち2隻を一挙に機雷で失い、日進はその穴を埋める役割を課せられる。明治37(1904)年7月13日に海軍少佐に進級し続く黄海海戦で日進は主力の一部をなして交戦するが、この海戦では第三艦隊司令部に大きな犠牲が出た。機関長と副官、参謀2名のあわせて4名が戦死したのだ。その補充として百武は第三艦隊参謀に補せられて片岡かたおか七郎しちろう長官を支えることになる。旅順陥落までは海上封鎖、日本海海戦までは警戒監視という地味で忍耐を要する任務を続け、日本海海戦後に北方作戦のための第四艦隊が編成されるとその参謀に補せられて出羽でわ重遠しげとお長官に仕えた。
 戦争が終結して平時体制に復帰すると百武はドイツ駐在を命じられた。2年あまり滞在してその間の明治40(1907)年9月28日に海軍中佐に進級するとオーストリアに移ってウィーンに赴任する。当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国はアドリア海に面し、対岸のイタリアに対抗して戦艦を含む艦隊を保有していた。4年におよんだヨーロッパでの生活を終えて帰国すると戦艦朝日あさひ副長を命じられたあと、はじめての中央官庁勤務となる海軍省軍務局局員に補せられる。3年半の海軍省勤務のあいだの大正2(1913)年12月1日に海軍大佐に進級し、さらに第一次世界大戦が始まった。ドイツ、オーストリア勤務が長かった百武は重宝されただろうが、極東での戦況が一段落すると装甲巡洋艦磐手いわて艦長に転出した。この年、磐手は練習艦隊に編入されて松村まつむら龍雄たつお司令官の指揮で遠洋航海をおこなった。乗り組んだ候補生は海兵43期生で、オーストラリア、東南アジア、南洋群島方面を巡った。帰国すると建造中の戦艦伊勢いせの艤装員長に補せられたが年度変わりの人事異動で巡洋戦艦榛名はるなの艦長に移った。

練習艦隊司令官

 艦長勤務を終えると第二艦隊参謀長に補せられる。はじめ長官は前海軍大臣の八代やしろ六郎ろくろうだったが、大正6(1917)年12月1日に定期異動で百武が海軍少将に進級するのと同時に長官が皇族の伏見宮ふしみのみや博恭ひろやす王に交代した。翌年度には佐世保鎮守府参謀長に補せられた。長官は財部たからべたけしである。第一次世界大戦も終わり、海軍省の外局である海軍教育本部で術科教育を担当する第二部長を2年間つとめた。
 大正10(1921)年12月1日に海軍中将に進級すると軽巡洋艦で編成されていた第三戦隊司令官に補せられた。配下の多摩たま艦長は実弟の百武源吾大佐だったが、多摩が衝突事故を起こしたことで難しい立場に追い込まれる。結局、源吾に過失はないとされて無罪となったが、上司と部下が兄弟であるというのはこうした場合に具合が悪いとして避けられるようになった。朝鮮の鎮海要港部司令官、鎮守府から格下げになった舞鶴要港部司令官を歴任したあと、練習艦隊司令官に補せられた。この年の候補生は海兵53期生と、その準同期生(コレス correspond と呼んだ)である機関学校34期生、経理学校13期生である。八八艦隊計画で生徒の大量採用が続いていたのが軍縮で一転して採用数が絞られたクラスで、3校合同の遠洋航海も磐手1隻でこなせた。東南アジア、オーストラリアを巡って帰国した。
 伏見宮から引き継いで佐世保鎮守府司令長官に親補されたのが最初の親補職となる。1年半で退任して軍需参議官に退いた。昭和3(1928)年4月2日に海軍大将に親任されたのを花道として待命となり、昭和3(1928)年7月30日に予備役に編入されて56歳で現役を離れた。

侍従長

 悠々自適の生活を送っていた百武の運命を変えたのは2.26事件だった。侍従長を勤めていた海軍出身の先輩である鈴木すずき貫太郎かんたろうは決起部隊に襲われて重傷を負ったが一命をとりとめた。鈴木は責任をとるために辞意を示したが天皇に遺留される。しかし結局は退任することとなり後任探しが始まった。もともと鈴木が侍従長に就任したのは偶然の産物だったが、かねて海軍には侍従武官長を陸軍が独占していることに不満があった。後任も海軍から出すべきだという意見が出され、候補となったのが現役を離れて8年になる百武三郎だった。海軍大将といっても百武は進級直後に現役を去っており、親補職も実質的には佐世保鎮守府ひとつだけしか経験していない。名前を聞かされた昭和天皇自身も「百武という海軍大将がいたことは覚えているがどのような人物か」と尋ね、印象が薄かったことがうかがい知れる。だが、こうした無色さがかえって百武の起用に働いたのだろう。当時予備役の海軍大将は少なくなかったが、その多くがロンドン条約に巻き込まれて政治的な色がついていた。百武三郎はロンドン問題が起こる前に現役を去っており、内心はともかく完全に中立だった。
 侍従長に就任した百武は「大侍従長」と称された鈴木ほどの存在感を示さなかったが、公正中立で謹厳な勤務態度はおおかたの好評を得た。最初はよく知らないと言っていた昭和天皇も厚い信任を寄せて、日中戦争前から終戦直前までの難しい時期に8年近く侍従長として側近に奉仕した。百武は侍従長時代に詳細な日記を残しており重要な近代史の史料となっている。
 侍従長就任からまもなく65歳に達し、後備役に編入された。69歳の直前、昭和16(1941)年4月に制度が改められて後備役が廃止されて予備役に統合された。名称の変更だけで期間は変わらない。後備役という呼び方が予備役に比べて老年で劣った印象を持たれていたためその呼び方を廃止したものだという。戦時中の昭和17(1942)年には70歳に達して退役となったが侍従長は続けた。しかしこれを契機に引退を考えるようになり、72歳を過ぎた昭和19(1944)年に退任する。天皇は長年の側近での勤務をねぎらい、枢密顧問官に任じた。戦後に公職追放にあって辞任する。

 百武三郎は昭和38(1963)年10月30日に死去した。享年92、満91歳。海軍大将従二位勲一等功四級。

海軍大将 百武三郎 (1872-1963)

おわりに

 百武三郎は海軍大将としての事績はないにひとしく、百武兄弟(あるいは陸軍中将の百武晴吉はるきちを含めた三兄弟)のひとりとして、また戦前から戦中にかけての侍従長として知られています。軍人が侍従長に就任するというのは現代の目からは奇異に見えますが、当時は軍人が宮中に入るというのは実例も多く問題になりませんでした。

 さて次回はわかる人にはすでに予想がついていると思います。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日露戦争前半に乗り組んだ装甲巡洋艦日進)

附録(履歴)

明 5(1872). 4.28 生
明25(1892). 7.26 海軍少尉候補生 金剛乗組
明26(1893). 5.10 松島乗組
明27(1894). 9.25 海軍少尉 佐世保鎮守府海兵団分隊士
明27(1894).12.11 千代田分隊士
明28(1895). 9.28 厳島分隊士
明29(1896). 4.20 松島乗組
明29(1896).12. 7 八島回航委員・英国出張被仰付
明29(1896).12.11 八島乗組兼回航委員
明30(1897).12. 1 海軍中尉
明31(1898). 4. 1 鎮辺航海長心得兼分隊長心得
明31(1898). 5.30 海軍大尉 鎮辺航海長兼分隊長
明31(1898).10. 1 赤城航海長
明32(1899). 6.17 宮古航海長
明32(1899). 7. 1 宮古航海長兼分隊長
明32(1899). 9.29 宮古航海長
明32(1899).12. 4 宮古航海長兼分隊長
明33(1900). 3.24 待命被仰付
明33(1900). 5.20 海軍大学校甲種学生
明35(1902). 7. 8 待命被仰付
明35(1902). 7.17 呉鎮守府参謀
明36(1903).10.15 呉鎮守府参謀兼副官
明37(1904). 2. 3 横須賀鎮守府附
明37(1904). 2.16 日進水雷長兼分隊長
明37(1904). 7.13 海軍少佐
明37(1904). 8.14 第三艦隊参謀
明38(1905). 6.14 第四艦隊参謀
明38(1905).12.20 独国駐在被仰付
明40(1907). 9.28 海軍中佐
明41(1908). 1.23 墺国駐在被仰付
明41(1908). 2.15 墺国駐在帝国大使館附海軍武官
明42(1909).10.15 帰朝被仰付
明43(1910). 3.19 朝日副長
明44(1911).12. 1 海軍省軍務局局員
大元(1912).12. 1 海軍大佐
大 4(1915). 7.19 磐手艦長
大 5(1916). 9. 1 伊勢艤装員長/造船造兵監督官
大 5(1916).12. 1 榛名艦長
大 6(1917). 9.15 第二艦隊参謀長
大 6(1917).12. 1 海軍少将
大 7(1918).11.10 佐世保鎮守府参謀長
大 8(1919).12. 1 海軍教育本部第二部長
大10(1921).12. 1 海軍中将 海軍将官会議議員
大10(1921).12.26 第三戦隊司令官
大11(1922).12. 1 鎮海要港部司令官
大12(1923). 6. 1 舞鶴要港部司令官
大13(1924).10. 4 練習艦隊司令官
大14(1925). 4.15 佐世保鎮守府司令長官
大15(1926).12.10 軍事参議官
昭 3(1928). 4. 2 海軍大将
昭 3(1928). 5.16 待命被仰付
昭 3(1928). 7.30 予備役被仰付
昭11(1936).11.20 侍従長
昭12(1937). 4.28 後備役被仰付
昭16(1941). 4. 1 予備役被仰付
昭17(1942). 4.28 退役
昭19(1944). 8.28 免侍従長
昭19(1944). 9. 1 枢密顧問官
昭21(1946). 4.17 免枢密顧問官
昭38(1963).10.30 死去

※明治5年までは旧暦

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