聯合艦隊司令長官伝 (1)相浦紀道
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。初回は相浦紀道です。
総説の記事は以下になります。
佐官まで
相浦紀道は天保12(1841)年6月23日、佐賀藩士の家に生まれた。初名は忠一郎。藩校で学んだあと佐賀藩海軍に入り戊辰戦争に従軍する。戦後は新政府海軍に出仕し、明治4(1871)年5月17日に海軍大尉に任官した。砲艦摂津、コルベット筑波の艦長をつとめて11月20日に海軍少佐に進級する。砲艦雲揚、装甲コルベット龍驤の艦長を歴任する。明治5(1872)年8月2日に海軍中佐に進み、明治6(1873)年に水路寮(のちの水路部)に移る。柳楢悦の下で黎明期の水路測量に5年あまり従事した。西南戦争後に1年間築地の海軍兵学校次長をつとめたあとコルベット筑波艦長に復帰した。
明治13(1880)年4月には海軍兵学校生徒第7期生を乗せて品川から遠洋航海に出航、バンクーバー、サンフランシスコ、ホノルルを経て9月に横浜に帰着した。明治14(1881)年1月26日、海軍大佐に進級。装甲コルベット金剛艦長、装甲フリゲート扶桑艦長を歴任して明治18(1885)年12月28日に海軍少将に進級する。
西海艦隊
相浦の少将への昇進は、中艦隊が常備小艦隊に改編されたタイミングに合わせたものだろう。松村淳蔵から引き継いで常備小艦隊司令官となった相浦は日本海軍の虎の子の艦隊を任された。当時の所属艦は扶桑、金剛、比叡、海門、筑紫などの軍艦8隻であった。しかし半年で司令官を薩摩出身の伊東祐亨に譲り海軍兵器会議議長、同造船会議議長、両会議を合同した技術会議議長を経て明治23(1890)年に艦船兵器を担当する海軍省第二局長に補された。技術関係の職務を6年あまりつとめて名称を改めた常備艦隊の司令長官に復帰する。しかしまたも半年で伊東祐亨に譲って佐世保鎮守府に移った。
日清戦争に備えて常備艦隊に所属していない艦を集めて警備艦隊が新たに編成された。司令長官にあてられたのが相浦である。常備艦隊とあわせて聯合艦隊を編成し、聯合艦隊司令長官は伊東が兼ねることになり相浦は伊東の指揮を受けることになる。その翌日警備艦隊は西海艦隊と名称を改める。西海艦隊は聯合艦隊主力が対清国戦闘に専念できるよう本土警備にあたり、北洋艦隊が壊滅したのをみて相浦は西海艦隊を井上良馨に譲った。
常備艦隊
明治28(1895)年2月16日に海軍中将に進級し横須賀鎮守府司令長官に転じた相浦は、8月20日に男爵を授けられ華族に列せられた。明治30(1897)年には常備小艦隊から数えて三度目になる常備艦隊司令長官に補されたが今度も半年で交代する。さらにいずれも二度目になる佐世保鎮守府、横須賀鎮守府の司令長官を経たあとの明治33(1900)年5月31日に予備役に編入された。
日露戦争中の明治37(1904)年に現役定限年齢である63歳に達したが戦時中とあって適用が延期され、明治38(1905)年10月19日に改めて後備役に編入された。これ以前の明治37(1904)年7月10日に貴族院男爵議員に選出され亡くなるまでつとめている。満68歳に達した明治42(1908)年6月23日に退役となる。
相浦紀道は明治44(1911)年4月1日死去した。満69歳。海軍中将従ニ位勲一等功三級男爵。
おわりに
相浦は中牟田倉之助と並ぶ海軍佐賀閥の代表で明治時代にたびたび要職を勤めましたが日露戦争前に現役を退いたこともあり知られていません。あまりエピソードも伝わっておらず苦労しました。聯合艦隊の先祖の先祖にあたる常備小艦隊の初代司令官なのですけどね。
次回は伊東祐亨です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は相浦が副長、艦長をつとめたコルベット龍驤)