中尉と中佐がなかったころ
日本海軍では明治19年から30年まで中尉と中佐および相当する階級を廃止していました。
以下の記事は階級の概説になります。
尉官と佐官の初期設定
明治3(1870)年9月18日、海軍少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐の階級が新設された。尉官と佐官(当時の用語では士官と上長官)を6階級としたのは陸軍が範としていたフランス陸軍にならったものだろう。武官の階級は文武官共通のランク付けである位階と関連づけられた。海軍も陸軍と同じ階級を採用したのは、階級の上下関係を明確にする意図があったのだろう。陸軍大佐と海軍大佐は同格であるという説明はわかりやすく誤解の余地がない。
階級と関連づけられた位階はのちに官等に置き換えられ、位階は儀礼的なものになって官等と分離した。6階級は高等官三等から八等までの6官等と一対一で対応する。
海軍中尉中佐の廃止
明治19(1886)年7月12日に海軍中尉と海軍中佐の階級が廃止された。のちの説明によると海軍が範としていたイギリス海軍では士官の階級を7階級(尉官と佐官で4階級)としており、交際する際に不都合があったという。つまり階級の数を揃えるのが目的で中尉と中佐という特定の階級が問題だったわけではない。大中少の3段階を2段階に減らす場合、大少として中を省くというのは自然な成り行きで、だから中尉と中佐が廃止されたのであろう。
しかし階級はひとりひとりのランクを明示的に表すもので、たとえ形式的であっても格下げに見えるような変更はとりにくい。結果として中尉は大尉に、中佐は大佐に格上げされ、大尉の中に高等官六等と七等の、大佐の中に高等官三等と四等の区別ができた。この体制で日清戦争が戦われる。
復活の提議
日清戦争後の明治30(1897)年に中尉と中佐の復活が提議されるが、明治天皇がそれに待ったをかける。軍人の階級は重要でそうたびたび変更するべきものではない。いまになって必要だというなら何故11年前に廃止したのか、そして何故いま復活させようとしているのか理由を明確にして書面で提出せよとの御沙汰だった。
西郷従道海軍大臣の提出した説明書では、イギリス海軍では現在7階級だが実態としては9階級に近い運用をしていること、日本海軍も制度が整備されてきて他国の模倣よりも自国に適する制度を採用すべき時期にきていること、戦艦などの大型で複雑な軍艦が就役しつつある中で乗員の役割が多様化して階級で区別する必要が生まれてきていることなどを理由として挙げている。例として戦艦などで艦長を大佐がつとめる一方で副長、砲術長、航海長などがみな少佐となっており違いがわからない、中佐を復活して副長を中佐、砲術長や航海長などを少佐にしたい、としている。
この説明はひとまず明治天皇に受け入れられ「今後軍人の階級の変更には慎重を期する」という一筆を入れさせた上で裁可する。12月1日付で中尉と中佐が復活した。
副作用と後遺症
説明書では副長を例に挙げていたが、同じことは分隊長についてもいえる。実は分隊長はもともと大尉以上で補職されるとされていて、それは終戦まで変わらない。少尉、中尉、大尉とあるが一人前の士官とみなされるのは大尉以上で、中尉と大尉の違いは大きい。その一方で少尉と中尉の違いはそれほど顕著ではない。しかし格下げを避けるために中尉を大尉に含めてしまった。こうなると大尉(もと中尉相当)への昇進を遅らせるか、大尉の中で区別するしかない。実際には少尉の期間が伸びることになって出世が遅れるかのように見えてしまった。
中尉と中佐が復活してそれぞれ高等官七等、四等に対応するとされたが、すでに高等官四等の大佐、高等官七等の大尉が存在していた。彼らに「きみ今日から中佐(中尉)ね」と言うわけにはいかない。格下げになってしまうからである。大佐・大尉の階級を維持したまま、新しい階級官等対応に則ってそれぞれ高等官三等・六等に昇格することになる。大佐・大尉が一時的にだぶつき、中佐・中尉は不足した。少佐・少尉から進級させるしかなく、実役停年(進級に必要な勤務年限)を無視した短期間での進級がおこなわれたのは経過措置としてやむを得なかっただろう。
おわりに
中尉・中佐の廃止は11年間だけの実験的措置に終わりましたが、その混乱は跡をひきました。日露戦争が始まる頃には一応収束していたようではありますが。特に思うのは官僚は格下げを避けるという習性が根強いのだなあということで、廃止のときも復活のときも格下げを避けるための措置が結果として問題を難しくしています。逆に言うとそういうデメリットを甘受しても格下げだけは避けたかったのでしょう。
実例はこちらから海軍軍人伝シリーズをどうぞ。
ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は明治19年の海軍官等表。国立国会図書館所蔵「海軍制度沿革」巻四)