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聯合艦隊司令長官伝 総説

 歴代の聯合艦隊司令長官をとりあげていきますが、その前身である常備艦隊や第一艦隊の司令長官も含みます。
 まず総説になりますが艦隊全体については以前に記事を書いているのでそちらをご覧ください。今回は聯合艦隊に特化した部分に簡単に触れます。むしろ附録が肝だったりします。

聯合艦隊の編成

 明治15(1882)年に中艦隊が編成され、明治18(1885)年に常備小艦隊、明治22(1889)年に常備艦隊と名称を変えてきたが、このあいだずっと日本海軍ではひとつの艦隊しか存在してこなかった。艦隊に所属しない艦は主に鎮守府にあって整備や警備にあてられていたが、日清戦争が迫りつつあった明治27(1894)年7月13日にこうした艦から選んで警備艦隊を編成した。はじめて複数の艦隊が同時に存在することになり、7月18日には両艦隊をあわせ指揮する聯合艦隊がもうけられて常備艦隊司令長官が聯合艦隊司令長官を兼ねることになった。翌19日に警備艦隊は西海艦隊と改称される。
 こうした経緯からわかる通り、複数の艦隊を聯合した艦隊だから聯合艦隊と名付けたもので深い意味はなかった。しかし日清戦争の「大勝利」が聯合艦隊という単語に特別な意味をもたせることになる。戦後、西海艦隊は解散され、日本海軍の艦隊は戦前のように常備艦隊のひとつだけに戻り、当然のこととして聯合艦隊も解散となった。日露戦争が迫る明治36(1903)年12月28日、常備艦隊は三つの艦隊に再編成された。第一、第二、第三艦隊とはじめて番号を冠して呼ばれ、このうち第一、第二艦隊で聯合艦隊を編成した。このときすでに戦時の日本海軍を代表する部隊として聯合艦隊の名称は浸透していた。日露戦争にあたって聯合艦隊の名称を引き継ぎたいために艦隊を複数もうけたのか、それとも運用の都合で複数に分けざるを得なかったため上位司令部をもうける際に聯合艦隊の名称を再利用したのか。いまとなってはどちらが主目的でどちらが従だったのかはわからない。

聯合艦隊の常設

 明治38(1905)年12月20日の聯合艦隊の解散は、戦時から平時体制への移行を示す象徴的なできごとだった。最終的に第四艦隊までが編成されていた戦時体制は第一、第二艦隊のみを残すまで縮小された。複数の艦隊が残ったにもかかわらず聯合艦隊が解散されたのは、戦時にのみ置かれるべきという観念があったのだろう。一方で戦前の常備艦隊に戻らず2個艦隊が常時編成されるようになったのは、戦時編成の母体としてあらかじめ2個艦隊分の司令部を準備しておく必要があると考えられたからだろう。艦艇や部隊を編入して戦力を増強するのは比較的容易だが、それを指揮する司令部の増設は一朝一夕にはできない。

 はじめて平時に聯合艦隊が編成されたのは明治41(1908)年秋のことだった。この頃から艦隊では教育年度にしたがって訓練をおこなうようになっており、年度の前期は個々の艦艇や部隊単位の訓練をおこない、後期には部隊同士の連携を演練して秋に艦隊をあげた大演習で締めくくり、年度終わりに異動や休養をとるというサイクルができていた。秋の演習にあわせて聯合艦隊を臨時編成して戦時を想定した訓練をおこない、演習終了後に解散した。この年の演習で聯合艦隊が臨時編成されたのには、アメリカ海軍のいわゆるグレートホワイトフリートの来航と無関係ではあるまい。

 このあとしばらく聯合艦隊は置かれなかったが、大正3(1914)年12月1日の艦隊令ではじめて聯合艦隊に関する規定がもうけられた。基本的に通常の艦隊と変わらないがただ複数の艦隊で編成するとされた。大正4(1915)年度からは毎年秋の演習にあわせて聯合艦隊を臨時編成する慣習となった。年によって幅があるが10月はじめ頃に編成しておよそ一月ほどで解散した。大正8(1919)年度からは半年近く置かれた。

 大正11(1922)年12月1日に、当面期限を定めず聯合艦隊を設置するとされ、事実上常設となる。年度末に近い演習の時だけに限らず普段の訓練においても戦時に指揮をとる聯合艦隊司令長官の意図をあらかじめ踏まえた訓練が必要とされたのだろう。正式に常設とされるのはさらに下って昭和8(1933)年5月20日のことであり、司令長官をはじめとする職員の辞令が第一艦隊が本職、聯合艦隊が兼職だったのが、聯合艦隊が本職と逆転した。

司令部

 昭和12(1937)年の規定では聯合艦隊などの艦隊司令部の定員は以下の通り。

司令長官 大中将 1
幕僚
参謀長 少将大佐 1
参謀 中佐 1
同 中少佐 3
同 少佐大尉 2
同 機関中少佐 1
副官 中少佐 1
同 少佐大尉 兼務1
機関長 機関大佐 1
軍医長 軍医大佐 1
主計長 主計大佐 1
司令部附
特務中少尉 3
軍楽科特務士官 1
主計特務中少尉 1
軍楽兵曹長 1
兵曹 19
軍楽兵曹 17
看護兵曹 1
主計兵曹 8
水兵 9
軍楽兵 15
主計兵 2

定員令第33表 聯合艦隊、艦隊、戦隊司令部定員表

 少なくとも昭和15(1940)年まではこの規定は変わらない。ただし戦時や事変に際しては臨時増置されることがしばしばあり、実際には規定よりもかなり強化されていた。また定員で指定された階級よりも上位の階級をあてることができるとされており、例えば参謀長に中将があてられた。
 昭和19(1944)年には参謀副長が置かれ、海軍と陸軍からそれぞれ1人の2人制になった。

 司令部附の兵科員は従兵や伝令、主計科員は主計長の補佐、看護兵曹は軍医長の補佐、軍楽科員は艦隊軍楽隊をつとめた。司令部附は旗艦の分隊に分配配属され、兵科員や軍楽科員は運用分隊に配属されることを例とした。

 常備艦隊の時期ははじめ海軍少将が司令長官にあてられていたが、その後は海軍中将があてられる例だった。日露戦争後の第一艦隊司令長官については海軍中将で補職されて在職中に海軍大将に進級することが多い。これは聯合艦隊が常設されるようになっても変わらない。海軍大将で補職される例は多くない。最後の聯合艦隊司令長官が海軍中将で補職されたのはある意味伝統に帰ったとも言えるのである。詳しくは記事末尾の附録・歴代司令長官を参照いただきたい。

拡大と廃止

 正式に常設とされた昭和8(1933)年5月20日の時点で聯合艦隊に所属していたのは戦艦4、重巡洋艦7、軽巡洋艦6、航空母艦2、8個駆逐隊、4個潜水隊、潜水母艦1で、ごく大まかに言うと当時の正面戦力の半分程度だった。聯合艦隊に属さない第三艦隊や練習艦隊に所属している艦艇や部隊を除いても、かなりの割合の艦艇や部隊が艦隊に属さず鎮守府の警備や予備艦にあてられていた。しかも編制は毎年度変わり、艦艇や部隊は交代で艦隊に所属した。こうした方式は、基本的に編制が固定されている現代の海上自衛隊とはだいぶ趣を異にする。

 もともと中国大陸方面は聯合艦隊の巡航範囲外であり、日中戦争がはじまってからもこうした状況に大きな違いはなかった。それが変わり始めたのは昭和16(1941)年度からで、それまでの2個艦隊編制が開戦直前までに9個艦隊を擁するまでになり、大半の正面戦力が編入された。8月にはこれまで聯合艦隊が兼ねていた第一艦隊の司令部が新設されて独立した。

 本来、聯合艦隊は海軍のうち機動戦力を担当するにすぎず、作戦においては司令長官が自ら麾下艦隊を率いて戦闘にあたるとされていたのだが、太平洋戦争が対米英蘭豪の多正面戦争になってしまった結果いずれかの方面に専念することがかなわなくなり、中央に位置しながら各方面の作戦を指揮するという、伝統的な聯合艦隊のあり方とは全く違った役割を強いられた。こうした役割は軍令部が果たすべきだったはずだが、山本の強い個性に押し切られる形になってしまった。長年対米決戦一辺倒で整備されてきた日本海軍の仕組みが多正面戦争に適応できなかったのだろう。この皺寄せが聯合艦隊にのしかかる。
 支那方面艦隊が担当した中国方面を除いても、資源地帯である南西方面、米豪軍との南東方面、もともと米軍との決戦地域とされていた中部太平洋方面の、大きくわけて三方面を同時に担当するのは無理で、連合軍側もそれぞれ専任の指揮官と司令部を置いていたのだが、それを増強されていたとはいえ一艦隊にすぎない聯合艦隊司令部に負わせてしまった。中間司令部として方面艦隊を設けて聯合艦隊の負担軽減をはかったが、昭和19(1944)年はじめには聯合艦隊はおよそ20個艦隊を擁するまでに膨れ上がる。

 三方面のうち英軍主体の南西方面は比較的持ち堪えたものの、米軍主体の南東方面と中部太平洋方面では本土近くまで押し込まれ、外戦部隊である聯合艦隊と内戦部隊である鎮守府などの区別が難しくなる。海軍総隊が創設されて聯合艦隊や鎮守府などのすべての実戦力を指揮することになり、聯合艦隊司令部員が海軍総司令部員を兼ねることになった。事実上聯合艦隊が全海軍戦力を指揮することとなり、これまでも曖昧だった軍令部と聯合艦隊の役割分担はなきに等しくなる。

 聯合艦隊(海軍総隊といっても同じことであるが)は特攻兵器を主体にして本土決戦に備えたが終戦により昭和20(1945)年10月10日付で廃止された。

おわりに

 海軍大臣に続いて何を取り上げようか考えたときに、軍令部長や元帥、大将なども考えたのですが、大将は数が多いし、文字面のキャッチーさで聯合艦隊にしました。聯合艦隊も結構な数になるけど軍令部長や元帥とあらかた重複するのでちょうどいいかなと思いました。聯合艦隊は映画のタイトルにもなったくらいで無闇に有名ですが特定の時期だけが知られていて意外に誤解されているように思います。

 ウィキペディアの連合艦隊の項目に「連合艦隊の軍旗」というキャプションで軍艦旗の図が貼られてるんですけど。「連合艦隊の軍旗」なんて謎ワードは初めて見ました。そんな概念自体がありませんでしたよ。あまりにインパクトが強すぎてしばらく呆然としてしまいましたが、気を取り直してあらためて中身を読んでみたら警備艦隊のくだりでもう意味不明な説明がたくさんありました。警備艦隊が編成されたのは日清戦争の直前なのに「明治初期」って?日清戦争前は明治初期なの? それ以上読む気がなくなりそっ閉じ。

 次回から順次歴代の長官をとりあげていきます。初回は相浦紀道です。いきなりこんな無名な人物で不安ですが。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は大将旗。上下が切れているので中少将旗と判別できない)

付録

歴代常備小艦隊司令官

明18(1885).12.28 海軍少将 相浦紀道
明19(1886). 6.15 海軍少将 伊東祐亨
明22(1889). 5.15 海軍少将 井上良馨
明22(1889). 7.29 改編

「日本海軍史」将官履歴より作成

歴代常備艦隊司令長官

明22(1889). 7.29 海軍少将 井上良馨
明24(1891). 6.17 海軍少将 有地品之允
明25(1892).12.12 海軍少将 相浦紀道
明26(1893). 5.20 海軍中将 伊東祐亨
明28(1895). 5.11 海軍中将 有地品之允
明28(1895).11.16 海軍中将 井上良馨
明29(1896). 2.26 海軍中将 坪井航三
明30(1897). 4. 9 海軍中将 相浦紀道
明30(1897).10. 8 海軍中将 柴山矢八
明32(1899). 1.19 海軍中将 鮫島員規
明33(1900). 5.20 海軍中将 東郷平八郎
明34(1901).10. 1 海軍中将 角田秀松
明35(1902). 7.26 海軍中将 日高壮之丞
明36(1903).10.19 海軍中将 東郷平八郎
明36(1903).12.28 改編

「日本海軍史」将官履歴より作成

歴代第一艦隊司令長官

明36(1903).12.28 海軍中将 東郷平八郎
明37(1904). 6. 6 海軍大将(同上)
明38(1905).12.20 海軍中将 片岡七郎
明39(1906).11.22 海軍中将 有馬新一
明41(1908). 5.26 海軍中将 伊集院五郎
明42(1909).12. 1 海軍中将 上村彦之丞
明43(1910).12. 1 海軍大将(同上)
明44(1911).12. 1 海軍中将 出羽重遠
明45(1912). 7. 9 海軍大将(同上)
大 2(1913).12. 1 海軍中将 加藤友三郎
大 4(1915). 8.10 海軍中将 藤井較一
大 4(1915). 9.23 海軍中将 吉松茂太郎
大 5(1916).12. 1 海軍大将(同上)
大 6(1917).12. 1 海軍中将 山下源太郎
大 7(1918). 7. 2 海軍大将(同上)
大 8(1919).12. 1 海軍大将 山屋他人
大 9(1920). 8.24 海軍大将 栃内曽次郎
大11(1922). 7.2 海軍中将 竹下勇
大11(1922)12. 1 以下省略

「日本海軍史」将官履歴より作成

歴代聯合艦隊司令長官

明27(1894). 7.18 海軍中将 伊東祐亨
明28(1895). 5.11 海軍中将 有地品之允
明28(1895).11.16 解隊
明36(1903).12.28 海軍中将 東郷平八郎
明37(1904). 6. 6 海軍大将(同上)
明38(1905).12.20 解隊
明41(1908).10. 8 海軍中将 伊集院五郎
明41(1908).11.20 解隊
大 4(1915).11. 1 海軍中将 吉松茂太郎
大 4(1915).12.13 解隊
大 5(1916). 9. 1 海軍中将 吉松茂太郎
大 5(1916).10.14 解隊
大 6(1917).10. 1 海軍大将 吉松茂太郎
大 6(1917).10.22 解隊
大 7(1918). 9. 1 海軍大将 山下源太郎
大 7(1918).10.15 解隊
大 8(1919). 6. 1 海軍大将 山下源太郎
大 8(1919).10.28 解隊
大 9(1920). 5. 1 海軍大将 山屋他人
大 9(1920). 8.24 海軍大将 栃内曽次郎
大 9(1920).10.31 解隊
大10(1921). 5. 1 海軍大将 栃内曽次郎
大10(1921).10.31 解隊
大11(1922).12. 1 海軍中将 竹下勇
大12(1923). 8. 3 海軍大将(同上)
大13(1924). 1.27 海軍大将 鈴木貫太郎
大13(1924).12. 1 海軍大将 岡田啓介
大15(1926).12.10 海軍中将 加藤寛治
昭 2(1927). 4. 1 海軍大将(同上)
昭 3(1928).12.10 海軍大将 谷口尚真
昭 4(1929).11.11 海軍中将 山本英輔
昭 6(1931). 4. 1 海軍大将(同上)
昭 6(1931).12. 1 海軍中将 小林躋造
昭 8(1933). 3.30 海軍大将(同上)
昭 8(1933).11.15 海軍中将 末次信正
昭 9(1934). 3.30 海軍大将(同上)
昭 9(1934).11.15 海軍中将 高橋三吉
昭11(1936). 4. 1 海軍大将(同上)
昭11(1936).12. 1 海軍中将 米内光政
昭12(1937). 2. 2 海軍大将 永野修身
昭12(1937).12. 1 海軍中将 吉田善吾
昭14(1939). 8.30 海軍中将 山本五十六
昭15(1940).11.15 海軍大将(同上)
昭18(1943). 4.18 戦死
昭18(1943). 4.21 海軍大将 古賀峯一
昭19(1944). 3.31 殉職
昭19(1944). 5. 3 海軍大将 豊田副武
昭20(1945). 5.29 海軍中将 小沢治三郎
昭20(1945).10.10 解隊

「日本海軍史」将官履歴より作成

歴代海軍総司令長官

昭20(1945). 4.25 海軍大将 豊田副武
昭20(1945). 5.29 海軍中将 小沢治三郎
昭20(1945).10.10 解隊

「日本海軍史」将官履歴より作成


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