海軍軍人伝 大将(17) 井上成美
これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は一応の最終回になり、井上成美をとりあげます。
前回の記事は以下になります。
イタリア駐在武官
井上成美は明治22(1889)年12月9日に仙台に生まれた。父親はもと幕臣で、維新後に官僚となって宮城県庁に職を得て移り住んだがその後退職している。井上家は子だくさんだったが生活は苦しく、父親から一番上の男子のほかはいい学校にはやれないと告げられた井上は「学費の要らない海軍兵学校に進みます」と答えた。兄のうちふたりは同じく学費のかからない陸軍士官学校に進んで陸軍将校になっている。井上は数学は得意だが英語は苦手で、在校中に猛勉強で克服したという。明治42(1909)年11月19日に第37期生179名の次席で卒業して海軍少尉候補生を命じられた。首席は小林萬一郎だが大尉のころに早世している。
この年の練習艦隊は阿蘇、宗谷で編成されており伊地知彦次郎が司令官だった。井上は宗谷に乗り組んだが、指導官は宗谷分隊長の高野五十六大尉(のち山本姓)で、その部下の指導官附には古賀峯一中尉がいた。5ヶ月あまりのオーストラリア、東南アジアを巡る遠洋航海を終えて帰国すると戦艦三笠に配属される。巡洋艦春日に移って明治43(1910)年12月15日に海軍少尉に任官するとさらに装甲巡洋艦鞍馬と乗艦を転々とした。なお37期生の少尉任官は2グループに分けられており、小林萬一郎らの任官は明治44(1911)年2月になった。初級士官が必ず受けた砲術学校と水雷学校の普通科学生課程の間の大正元(1912)年12月1日に海軍中尉に進級している。日清戦争以来の老兵、防護巡洋艦高千穂乗り組みを経て最新鋭の巡洋戦艦比叡に転じる。この転勤からちょうど1年後に高千穂はドイツ水雷艇の雷撃を受けて撃沈され多くの犠牲者を出した。第一次大戦が始まったときには井上は第17駆逐隊に配属されていた。就役してまもない二等駆逐艦で編成された第17駆逐隊は横須賀鎮守府に所属していた。当時はまだ所管鎮守府ごとに番号を区別する運用は始まっていない。
大正4(1915)年12月13日に海軍大尉に進級してこれも就役したばかりの戦艦扶桑の分隊長に補せられる。1年間つとめて、航海長を養成する海軍大学校専修学生を受講する。航海屋は礼儀や身だしなみに厳しく、几帳面な井上の性に合っていたのかもしれない。砲艦淀での航海長勤務のあと、初めての海外勤務となるスイス駐在を命じられる。第一次大戦がちょうど終わった頃で、ヨーロッパの荒廃は激しかった。国際連盟の本部がスイスのジュネーブに置かれていた。滞在期間は3年に及び、最後はフランスに移ったが大正10(1921)年12月1日に海軍少佐に進級するのと同時に帰国を命じられる。
巡洋艦球磨の航海長に補せられるが艦隊勤務は短く、海軍大学校で甲種学生(第22期生)として2年間学んだ。スイス駐在でタイミングを失い、かなり遅い甲種学生だった。学生を終えると初めての中央官庁勤務となる海軍省軍務局局員に補せられた。ワシントン条約による軍縮時代で日本海軍は不利を補うために条約の制限の範囲で巡洋艦などの整備を進めていた。これがのちにロンドン軍縮会議につながることになる。海軍大臣は財部彪、岡田啓介が交代で勤めていた。大正14(1925)年12月1日に海軍中佐に進級している。
イタリア駐在武官に発令された井上はローマに2年間駐在する。ムッソリーニが独裁を確立してまもないイタリアはしかし、井上の目にはあまり好ましいものには映らなかった。この体験はのちに井上がイタリアやドイツなどのファシズム国家と結ぶことに拒否感を抱くことに繋がる。昭和4(1929)年11月30日に海軍大佐に進級して帰国すると海軍大学校教官を命じられる。井上の講義は正当的な兵術思想とは大きく離れた異端なもので批判の的になった。
海軍省軍務局第一課長
ロンドン条約から満州事変、5.15事件といった動乱において井上は海軍大学校で暴風圏外にあったが、海軍省の中心である軍務局第一課長に補せられるとたちまち嵐に巻き込まれる。ロンドン条約で煮え湯を飲まされたと考えた軍令部では、皇族の伏見宮が軍令部長に就任したその権威を背景にして海軍省の権限の一部を軍令部に移すよう求めた。軍令部案を読んだ井上は、内閣の制御の効かない軍令部に大きな権限を与えることは国家を危うくするものだと考え、断固阻止を決意した。融通の効かない井上が一度決心すると脅しても宥めても頑として動かなかった。軍令部課長だった南雲忠一が「お前なんかざくっとやればおしまいだ」と脅しても、上司である寺島健軍務局長が「責任は自分が負うから同意してくれ」と懇願しても聞く耳を持たなかった。大角岑生海軍大臣は「そこまでせんでもいいと言っているのに、井上がどうしてもきかない、困った」と頭を抱えた。孤立した井上はそれでも周囲の最終勧告を拒否して帰宅し、ついに更迭される。井上自身はクビを覚悟していたが、当の伏見宮が「井上にいいポストをやってくれ」と言ったため、練習戦艦比叡の艦長に補せられた。比叡は御召し艦をたびたびつとめ、満州国皇帝の訪日にも使用された。
昭和10(1935)年11月15日には無事に海軍少将に進級し、東京を含む東日本を管轄する横須賀鎮守府の参謀長に補せられた。少なくとも表面上は冷遇されているようには見えない。横須賀鎮守府の司令長官は米内光政だった。この頃まで井上と米内の間には直接の関係はなかったが、同じ東北である岩手出身の米内の評判は聞いていたはずである。陸軍の不穏な空気は横須賀にも伝わってきており、井上参謀長は万一のための計画をあらかじめ立案していた。案の定、2.26事件で陸軍の決起部隊が東京の要所を襲撃した。当直の参謀から一報を聞いた井上は直ちに所定の計画の実施を指示し、警備部隊を東京に派遣した。横須賀鎮守府の迅速な対応は米内と井上の評価を高めた。年度末の人事異動で米内は聯合艦隊司令長官に親補される。
井上は1年間閑職に置かれたあと、海軍省に軍務局長として復帰する。海軍大臣は米内光政、次官は山本五十六で、この3人はそれぞれ性格は違うが条約支持、対米英協調という基本路線は完全に一致していた。井上は「結論は決まっているので議論をしたことはありません」と述懐している。すでに日中戦争が始まっており、その解決は急務だったが軍事的な勝利は望めず、政治的な解決が模索された。そのひとつがドイツとの提携だったが、海軍はこれに強く反対した。ソ連を対象とする攻守同盟を主張する陸軍に真っ向から反対し、しびれを切らしたドイツはソ連との中立条約を締結する。同盟の話は内閣ごと吹っ飛び、米内と山本は交代した。井上もまもなく軍務局長をおりて中国作戦を担当する支那方面艦隊参謀長に転出した。司令長官は及川古志郎である。まもなく昭和14(1939)年11月15日に海軍中将に進級した。翌年には司令長官は嶋田繁太郎に代わる。嶋田は着任の挨拶で「在職中の支那事変解決をめざす」と述べたが井上はどう聞いていただろうか。
第二次世界大戦が始まり、ドイツが電撃戦でフランスを打倒するとドイツとの提携が再び持ち上がる。大臣の吉田善吾は抵抗したが重圧を受けて病に倒れ、後任となった及川はドイツとの同盟を受け入れた。井上は「誰が及川を大臣にしたのか」とこの人事を批判したが、支那方面艦隊で及川司令長官の参謀長だった井上の言葉は重い。大臣の交代に伴う異動で井上は航空本部長として東京に戻った。ドイツとの同盟で戦争が近づいたとみる井上は、基地航空隊を中心とする「新軍備論」を認めて大臣に提出した。本人は「これくらいの思い切ったことをしないと対米戦争は無理で、そういう覚悟もないのにドイツとの提携なんてとんでもない」という意味をこめたという。
こうした主張が煙たがられたのか、さらに翌年井上は艦隊に出されて南洋を担当する第四艦隊司令長官に親補された。聯合艦隊司令長官の山本五十六は直接の上司になるが、ともに本人が望まない対米戦争の前面に立たされることになる。太平洋戦争がはじまると、第四艦隊はまずウェーク島の攻略を命じられるが失敗する。機動部隊の増援を得て最終的には成功するがこうしたことも井上の批判に利用された。ギルバート諸島やラバウルの攻略は成功するが、ポートモレスビー攻略を目指した作戦は珊瑚海でアメリカ空母部隊の迎撃をうけて中止された。軍令部総長の永野修身は日記で井上を評して「珊瑚海では戦機を見る目がなかった。兵学校長か鎮守府長官がせいぜいで次官は無理だろう」と記している。井上本人も「いくさは下手でした」と言っている。
アメリカ軍がガダルカナルに上陸して本格的な反攻に乗り出すと、日本も対抗する。ラバウルに進出して激しい航空戦を繰り広げたのは第十一航空艦隊だが、司令長官の塚原二四三が病に倒れると兵学校長の草鹿任一が後任となる。その兵学校長に補せられたのが井上だった。永野修身の批評通りになったが、それを聞いた井上はむしろ喜んだ。
江田島に着任した井上は、士官の急速、大量養成を求められるのに抗った。生徒の大量採用は受け入れざるを得ず、ひとクラスが1000人単位となり江田島では収容しきれず各地に分校が置かれた。しかし教育年限の短縮にはあくまで抵抗し、特に英語教育を残したことは有名である。井上は今の戦争に役立つ人材ではなく、戦後も長く日本の発展に貢献する人材の養成をめざしていたと言われる。井上の校長在職は2年に満たなかったが、戦時中という非常時にあって異彩を放った。
海軍次官
サイパンが陥落して東條英機内閣が瓦解し、米内光政が海軍大臣に復帰すると、井上は次官として東京に呼び戻される。井上は「別天地の江田島から東京に呼ばれるなんて迷惑だ」と言っていたが、海軍省で実情に触れた井上は「思っていたよりずっとひどい。もはや終戦しかない」として米内に終戦工作の了承を得るが、実際に終戦するまではなお1年を要した。中国との和平工作が失敗して小磯内閣が総辞職したときには「大臣を譲る」という米内を説得して留任させた。
米内は体調の悪化もあって井上を大将に進級させて大臣を譲るという構想を持っていたが、井上はそれを断固拒否した。「国が滅んで大将だけ残るなんて滑稽だ」と大将への進級を停止することを進言した。これは多分に自身の進級を止める意図があった。次官の階級が「中少将」と規定されていることから「大将になれといことは次官を辞めろということです」と米内を牽制した。
敗戦が濃厚になるにつれ、米内と井上の関係も変化してくる。その変化がいつ頃から始まったのか確認する術はないが、政府を終戦にまとめていきたい米内にとって「手ぬるい、一刻も早い終戦を」と唱える井上はむしろ障害になりつつあった。沖縄戦が戦われていたある日、米内が井上に「大将にするぞ」と言った。井上が「誰をですか」と尋ねると米内は「君と塚原(塚原二四三)だ。もう陛下のお許しも得た」と答えた。井上は「もう決まったことなら何も言うことはありません。あえて御礼は申し上げません。ところで、次官は辞めさせていただけるのでしょうね」と問うと米内はうなずいた。
こうして昭和20(1945)年5月15日に海軍大将に親任されるとともに海軍次官を退任して軍事参議官に親補された。この前後、作戦部隊を含む高級指揮官で広く人事異動が行なわれているのは終戦をめざして米内の部内統制力を強める意図があったのではないか。次官には軍務局長から多田武雄が昇格したが井上の存在感には遠く及ばなかった。
その後、井上が終戦に向けて具体的に動いたという証拠はない。さらに3ヶ月後、ボツダム宣言受諾が本決まりになり、それが軍事参議官会議に報告されると居並ぶ将帥がみな悲痛な面持ちを浮かべている中、井上ひとりだけが晴々とした表情だったという。復員が進むなかやがて待命となり、10月15日に55歳で予備役に編入された。
戦後は三浦半島の片隅に隠遁し、近所の子供に英語を教えるなどしていた。表に出ることを徹底して拒み続け、嶋田繁太郎が海上自衛隊の式典で挨拶したことを聞くと「どの面を下げて人前に出れると思ったんだ」と激怒したという。
井上成美は昭和50(1975)年12月15日に死去した。享年87、満86歳。海軍大将従三位勲一等功三級。
おわりに
井上成美については最後の海軍大将ということでいろんな評伝が出ているので今更そこに加えることはないんじゃないかとも思いますが、全海軍大将の伝を書いてきながらひとりだけ避けるのもおかしなものなのであえて書きました。賑やかしだと思って暖かい目で見ていただければ幸いです。
これで日本の海軍大将77名のうち、戦死後に大将を贈られた5人(南雲忠一、遠藤喜一、高木武雄、山縣正郷、伊藤整一)を除く全員の伝を書き終えました。#海軍大将 のタグをつけてあるのでそちらを探してもらうのが便利だと思います。
次のネタは考え中です。戦死大将の伝記でもいいんですが、個人的に関心が古い時代に向いているのでモチベーションがありません。4ヶ月、毎日投稿を続けてきたので少し休もうかとも思っています。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は井上が艦長をつとめた練習戦艦比叡)