見出し画像

Wikipedia の潜水母艦長鯨艦長リストについて

最近、太平洋戦争の主要軍艦艦長リストというのを作成しているのですが、その過程で Wikipedia 「長鯨ちょうげい(潜水母艦)」の艦長リストに誤り(と考えられるもの)を見つけたので、まとめます。

歴代艦長

問題の記事には「歴代艦長」という項目があります。出典は「艦長たちの軍艦史」「日本海軍史 将官履歴」「官報」とされています。

ここで指摘するのはそのうち以下の部分です。

吉富説三 大佐:1934年11月15日 -
藤永紫朗 中佐:不詳 - 1935年11月15日[192]
吉富説三 大佐:不詳 - 1936年12月1日[193]

この時期はまだ辞令が官報に掲載されており(日中戦争が始まると部内限りの海軍辞令公報に移され官報には掲載されなくなります)、官報は国立国会図書館のサイトから参照できます。

「長鯨艦長」で検索

官報検索の画面からキーワード「長鯨艦長」、範囲を1934年1月1日~1936年12月31日として検索を実行すると、以下の3つの辞令が見つかります。

昭和9(1934)年11月15日付(11月16日官報)
 長鯨艦長海軍大佐 春日末章
補天龍艦長
 第七潜水隊司令海軍大佐 吉富説三
補長鯨艦長

昭和10(1935)年11月15日(11月16日官報)
 長鯨艦長海軍中佐 藤永紫朗
補海軍技術研究所所員

昭和11(1936)年12月1日(12月2日官報)
 長鯨艦長海軍大佐 吉富説三
補海軍潜水学校教頭
 駐満海軍部附海軍大佐 龍崎留吉
補長鯨艦長

例えば一番上(昭和9年11月15日)の辞令では、長鯨艦長が春日末章大佐(海兵37期)から吉富説三大佐(海兵39期)に交代したことを示しています。実際にはこのようにわかりやすく隣あわせに掲載されているわけではないので探すのはちょっと大変です。

「歴代艦長」の作成過程

この情報をもとに「歴代艦長」の作成過程を再現してみましょう。はじめの辞令(昭和9年11月15日)は前節で説明した通りです。
続いて昭和10年11月15日の辞令では、長鯨艦長が藤永紫朗中佐(海兵42期)から誰かに交代していますが、その記述を欠いています。漏れがないかどうかは官報表示画面の右側のペインから「全文検索」で「長鯨艦長」としてみると確認できます。検索してみると1件しかヒットせずほかに「長鯨艦長」という文字列が含まれていないことがわかります。ここではひとまず置いておきます。
最後に昭和11年12月1日に長鯨艦長が吉富説三大佐(海兵39期)から龍崎留吉大佐(海兵40期)に交代しています。

さて問題の退任辞令しかみつからない昭和10年11月15日の異動ですが、実はこうした辞令の欠落はしょっちゅうとは言わないものの時々見かけるものです。そこで不明なものはひとまず不明としたままで時系列順に再構成してみると、

昭和9年11月15日に、春日大佐から吉富大佐に交代
その後時期は不明だが、吉富大佐から藤永中佐に交代
昭和10年11月15日に、藤永中佐から誰か(吉富大佐?)に交代
昭和11年12月1日に、吉富大佐から龍崎大佐に交代

という具合にまとめられ、Wikipedia の「歴代艦長」の記述と一致します。

違和感

ということで、いったんは自分も納得しかけたのですがここで違和感を感じたのは、途中に挟まる藤永中佐が「中佐」で艦長を勤めていたということでした。つい先日公開した自分の記事の中で「長鯨の艦長は大佐」と記したことが頭の片隅に残っていたのです。

一般論として軍艦の、特に潜水母艦のような花形とは言えない軍艦の艦長に中佐が充てられること自体は特におかしなことではありません。上記の記事で書いた通り「定員令の別表次第」なのですが、Wikipedia の記事を見ても前後の艦長はすべて大佐なのにここだけ中佐なのです。

実はここでピンと来たのですがその説明はあとにしましょう。

念のため長鯨の定員表を確認しておきます。アジア歴史資料センターの「防衛省防衛研究所所蔵資料」から昭和12年6月1日内令提要追録(リファレンスコード C13071971000, 14ページ)に「迅鯨、長鯨」の定員表があり、それには

艦長 大佐 1
副長 中佐 1

となっていて、やはり長鯨艦長には大佐を充てることになっています。でも大佐職に中佐を充てることもあったのでは?という疑問はもっともですがその場合は「長鯨艦長心得被仰付おおせつけらる」という辞令になるのが通例でした。

もうひとつ、1934年に就任した吉富艦長と、1936年に退任した吉富艦長が同一人物であることもひっかかりました。いったん退任した艦長が再び艦長を勤めるのはあり得ないことではありませんが、そうした人事がなされたとすれば裏になんらかの事情があったはずです。

解決

そこで自分が思いついたのが

「藤永中佐の『長鯨艦長』は『副長』の誤植ではないか」

というものでした。副長ならば定員令の規定ともつじつまがあいます。吉富艦長が昭和9年11月15日から昭和11年12月1日まで2年間継続して艦長を勤め、そのまんなかの昭和10年11月15日に副長が交代したというのはごく自然な話です。

昭和10年11月15日に藤永中佐が長鯨副長を退任したとするならば、同じ日付で後任の辞令があるはずです。探してみたところ、以下の辞令がみつかりました。

 榛名砲術長海軍中佐 篠田太郎八
補長鯨副長

さらに少し前の官報を「藤永紫朗」で検索してみると、昭和9(1934)年10月22日付(10月23日官報)で

 佐多副長海軍中佐 藤永紫朗
補長鯨副長

とあるのが見つかりました。前任の副長については

 長鯨副長海軍中佐 東郷実
横須賀鎮守府附被仰付

とあります。
かくしてパーツはすべて揃い、改めて再構成した時系列は以下のとおりになります。

昭和9年10月22日、副長が東郷実中佐から藤永紫朗中佐に交代
昭和9年11月15日、艦長が春日末章大佐から吉富説三大佐に交代
昭和10年11月15日、副長が藤永紫朗中佐から篠田太郎八中佐に交代
昭和11年12月1日、艦長が吉富説三大佐から龍崎留吉大佐に交代

シンプルで、まったく無理がないものになりました。

また国立国会図書館所蔵「現役海軍士官名簿 昭和10年1月1日調」には藤永中佐の肩書きとして「長鯨副長」とあります。

なお訂正が官報に掲載されていないか探してみましたがみつけられませんでした。実のところ、こうした辞令の「誤植」の訂正記事が官報に掲載されているのは見たことがありません。したがって、これが本当に「誤植」だったのかどうかは確認できませんでしたが、自分としては99%間違いないと確信しています。

(追記)「日本海軍史 将官履歴」では同時期の藤永中佐(のち少将)の職歴は「長鯨副長」となっているようです(追記終わり)

おわりに

実際にやってみるとわかるのですが、官報や海軍辞令公報からある職の歴代リストを作成するのはものすごく大変な作業です。なので、この項目の執筆者を一概に責めるつもりはありません。しかし事実として誤りの可能性が非常に高いものを見つけてしまったからには指摘せざるを得ませんでした。

むしろ気にいらないのはウィキペディアの編集のハードルの高さで、必要な作業は2行の削除にすぎないのにそのためにわざわざアカウントを作成して編集のお作法をいちから習得する気になれませんでした。こういう場合でも事前にノートで修正の提案をしなければいけないのでしょうか? また自分はこの結論は99%、いや 99.9% 間違いないと考えていますがウィキペディアの観点では「独自研究」になってしまうのでしょう。

愚痴はここまでにして、この記事のもとになった「艦長リスト」はいま構想中の別の記事のための準備作業でした。できれば今月中に形にしたいと思っていますが当てにしないでください。

ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は大正末期の潜水母艦長鯨)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?