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19世紀南米諸国の装甲艦 Ironclads of South American countries in late 19th century
1860年代に英仏が装甲軍艦の建造を始めると他国も一斉に追随しらした。それは列強にとどまらず、ヨーロッパでも例えばスペインやオランダ、デンマーク、トルコやギリシャといった中規模の海軍国にも波及したのです。南米諸国も例外ではありませんでした。
ペルー
意外なことに装甲艦の導入はペルーが早い。その契機になったのはスペインとの戦争であろう。1864年にスペイン軍がペルー領のチンチャ島を占領したことをきっかけにして、ペルーのみならずチリ、エクアドル、ボリビアといった南米諸国とスペインのあいだで武力衝突が起きた。当時ペルーの海軍力はスペインに明らかに劣っており、対抗するために装甲艦が計画された。
まず蒸気スクーナー、ロア BAP Loa が装甲艦に改造される。アメリカ南北戦争中に南部海軍が蒸気フリゲートを装甲艦バージニア CSS Virginia に改造したのとほぼ同じ要領で、船体上部を撤去して装甲板で屋根型の構造物を設け、110ポンド砲と32ポンド砲を搭載した。改造工事は1864年4月から始まり、11月に完成した。
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もう1隻、ヴィクトリア BAP Victoria が国内で新規に建造される。ロアとほぼ同じ構成ではあるがロアよりひと回り小さく、68ポンド砲を搭載している。1864年7月に建造が始まり、1866年初頭に完成した。
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ロアとヴィクトリアは、1866年5月2日にスペイン艦隊がカヤオ港を砲撃したときに港内にいて反撃したがあまり効果はなかったようだ。この戦闘が事実上最後となり戦争は終結した。
本格的な装甲艦はイギリスに発注された。舷側砲門艦インデペンデンシア BAP Independencia は150ポンド砲を2門、70ポンド砲を12門搭載した。1864年に建造が始まり1866年末に完成した。スペインとの戦争は終わっていた。
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もう1隻、イギリスで建造されたウアスカル BAP Huáscar はずっと先進的な設計だった。イギリス海軍のコールズ大佐 Cowper Coles (1819-1870) が提案する砲塔を採用した最初期の例となる。前甲板の旋回砲塔に10インチ300ポンド砲を2門搭載した。
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ウアスカルは1864年に建造が始まり1866年初頭に完成した。ペルー本国への到着は戦争終結後になる。
1868年、戦力の急速な増強をめざしてかアメリカからモニターを2隻購入する。南北戦争が終結してアメリカではモニターが余剰気味だった。それぞれアタウアルパ BAP Athaualpa、マンコ・カパク BAP Manco Cápac と命名される。
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1877年にペルー海軍で反乱が起こる。艦長が上陸しているあいだにウアスカルは反乱軍の手に落ち、カヤオ港を脱出して商船の入港を妨害した。この行動がイギリスの介入を招きイギリス軍艦と交戦するがいずれも大きな損害もなく不得要領に終わった。およそ一月後、ウアスカルの反乱軍は降伏する。
1879年、ペルーとチリのあいだで戦争が始まる。5月21日、ウアスカルはチリコルベットを撃沈するがその同じインデペンデンシアはチリのスクーナーを追跡していて座礁してしまい、捕獲されるのを恐れて爆破処分された。ウアスカルは10月8日、2隻の装甲艦を含むチリ艦隊に迎撃され大破する。艦長も戦死しそのままチリ海軍に捕獲されてしまった。
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航洋装甲艦をすべて失なったペルーは制海権をチリに奪われる。カヤオ港は封鎖され、上陸したチリ陸軍が迫る。1881年1月17日早朝、港内のペルー艦艇は一斉に自沈した。ロアとアタウアルパもその中に含まれていた。ヴィクトリアについては定かではないがこのときに同時に自沈したのではないかと言われている。マンコ・カパクはすでにその前年、ペルー南部のアリカが陥落した際に同じように自沈している。
ペルー海軍がその後装甲艦を取得することはなかった。
チリ
1871年、新たに就任したエラスリス大統領 Federico Errázuriz (1825-1877) が議会に軍艦の購入を提案した。新大統領はスペインとの戦争中に軍事大臣を務めていたことがある。この提案は承認されイギリスに2隻の装甲艦が発注される。設計者は1870年までイギリス海軍の技術主任を務めていたリード Edward Reed (1830-1906) である。
9インチ砲6門を砲郭に装備した2隻の中央砲郭艦は、それぞれアルミランテ・コクラン Almirante Cochrane、ブランコ・エンカラダ Blanco Encalada と命名され1876年にチリに到着した。
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ブランコ・エンカルダの二面図
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ところが1878年、領土をめぐって対立していたアルゼンチンとの関係が落ち着くとこの2隻をどこかに売却しようという話が持ち上がる。当時チリ政府は深刻な財政難だった。幸か不幸かこの計画は買い手が見つからず挫折する。
その翌年ペルーとの戦争が始まると2隻は海軍の主力として行動する。ペルーとの国境地帯は陸上移動が困難で、陸軍を前進させるためにも制海権の確保が重要だった。既述のとおりこの年10月8日にチリ海軍で唯一残った航洋装甲艦ウアスカルを捕獲して制海権を握った。ウアスカルはチリ海軍に編入され、今度はペルー海軍と対峙することになる。アリカではかつての僚艦マンコ・カパクと交戦し、カヤオの封鎖にも参加した。戦争はチリの勝利で終わった。
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交戦するウアスカル
1887年チリ議会は軍艦の近代化のために新しい戦闘艦を海外に発注することを決めた。チリ海軍が保有する最新の装甲艦でもすでに15年前の設計だった。1隻がフランスに発注されカピタン・プラット Capitán Prat と命名された。24cm単装砲塔を前後と両舷側に合計4基搭載していた。
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1891年、チリで内戦が勃発する。大統領と議会が対立して戦闘にまで発展したのだ。チリ海軍が運用していた装甲艦3隻はいずれも議会軍に属したが、大統領軍水雷艇の雷撃をうけてブランコ・エンカルダが沈没した。内戦は議会軍が勝利し新しい憲法が施行されることになる。
アルミランテ・コクランは練習艦任務に格下げとなり1934年に解体された。ウアスカルは潜水艦母艦として使用されていたが1934年に復元保存されることになった。
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1893年、カピタン・プラットがチリに到着して、その後10年あまり艦隊の主力として活動することになる。
アルゼンチンとの緊張が高まっていた1901年、イギリスに2隻の戦艦を発注する。当時としては最新の前弩級戦艦だった。
1902年、イギリスの仲介でアルゼンチンと緊張緩和のための条約が締結された。海外で建造中の軍艦は売却され、既存の装甲艦は武装を撤去することとされた。建造中の戦艦はイギリスが買い取り(ロシアに渡るのを阻止するためだったと言われる)、スウィフトシュア HMS Swiftsure、トライアンフ HMS Triumph として就役する。カピタン・プラットの武装は撤去された。
しかし弩級艦の時代に入るといったん撤去された武装は復旧され新たな戦艦がイギリスに発注されるようになるが、それについては別記事を参照いただきたい。カピタン・プラットは1942年に解体された。
ブラジル
当時ブラジルは南米随一の軍事大国であり海軍大国だった。装甲艦への流れにもいち早く乗り、フランスに1500トンの中央砲郭艦を発注した。70ポンド砲4門、68ポンド砲4門を装備しブラジル Brasil と命名された艦は1865年に完成した。
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その前年、1864年にはパラグアイとの戦争が始まっていた。アルゼンチンとウルグアイは同盟国だったが海軍はないに等しく、海軍力についてはブラジルが一手に引き受けるしかなかった。戦争相手のパラグアイは内陸国だが、ラプラタ川の二大支流であるウルグアイ川とパラニャ川の制圧がひとつの焦点となる。特にパラニャ川とそのさらに支流となるパラグアイ川はアルゼンチン北部からパラグアイを縦断してブラジル南部に達しており、陸軍の輸送路としても利用できる一方で、川を越えて敵が前進するのを阻止する防御線ともなり、激しい争奪戦が繰り広げられた。
パラグアイはラプラタ川の支配のために装甲砲艦を海外に発注していたが、戦争が始まって国境が封鎖されたために支払いが困難になってしまった。そうした艦を買収したのは皮肉なことにブラジルだった。このときブラジルが入手したのはイギリスで建造されていた2隻の中央砲郭艦マリス・エ・バロス Mariz e Baros とエルヴァル Herval、やや小型でやはりイギリスで建造されていたカブラル Cabral とコロンボ Colombo、モニターのバイア Bahia、砲塔艦リマ・バロス Lima Baros、シルヴァド Silvado と合計7隻にのぼった。これらの艦艇は1866年にまでに順次ブラジル海軍に就役し対パラグアイ戦争に投入される。
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並行してブラジルでは自国で中央砲郭艦を建造する。サイズも兵装もまちまちではあるが基本的な構成は共通の3隻はタマンダーレ Tamandaré、バロッソ Barroso、リオデジャネイロ Rio de Janeiro と命名され、1865年から翌年にかけて就役する。
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1866年9月2日、パラグアイ川で機雷のため沈没
さらにブラジルは川での作戦に特化したモニターの量産を始める。1866年から1868年にかけて6隻の河用モニターが建造される。1隻の建造期間は半年ほどだった。それぞれパラ Pará、リオグランデ Rio Grande、アラゴアス Alagoas、ピアウイ Piauí、セアラ Ceará、サンタカタリナ Santa Catharina と命名され早速ラプラタ川作戦に投入された。
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ブラジル海軍はラプラタ河口からパラニャ川を経由してパラグアイの首都アスンシオンをめざした。パラニャ川とパラグアイ川の合流地点から少しさかのぼったところにパラグアイ軍のウマイタ要塞があった。周囲は湿地に囲まれ、パラグアイ川の屈曲部、流れが川岸を削ってできた断崖の上に要塞は建築されていた。狭くなっている川幅には鉄鎖が張り巡らされて敵艦の侵入を妨げていた。
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連合軍の陸上部隊が要塞を包囲していたが、要塞のパラグアイ軍は川を通じて補給を得ていた。この補給を断つためには要塞直下の流れを突破して上流を支配しなければならない。包囲開始から1年が経とうとしていた1868年2月19日の夜、6隻のブラジル装甲艦がついに要塞を突破する。2月22日にはこのうち3隻がパラグアイ首都アスンシオンに砲撃を加える。7月に要塞は陥落し戦争の帰趨は決した。
パラグアイ戦争中からブラジル海軍は大型装甲艦を建造していたが、完成は戦後になる。セテ・デ・セテンブロ Sete de Setembro(9月7日の意味)と命名された中央砲郭艦は300ポンド砲4門を搭載したが、すでに時代遅れとなっており浮き砲台として運用された。
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戦争中に列強海軍での進歩に立ち遅れてしまったブラジルは大型化モニターをフランスに発注した。10インチ砲を搭載した連装砲塔を前後に搭載した沿岸防御モニターとしては強力なものだった。2隻が建造されハヴァリ Javary、ソリモニェス Solimões と命名される。
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かつての同盟国アルゼンチンが装甲艦を建造するとブラジルもそれに対抗する。1880年代初めに2隻の航洋装甲艦がイギリスに発注された。やや大型のリアチュエロ Riachuelo は1883年に、少し小型のアキダバン Aquidabã は1885年にそれぞれ完成した。
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1893年、「艦隊の反乱」と呼ばれる内戦が勃発する。帝政を廃止して1891年に施行された新憲法だったが、大統領は経済危機を理由にして議会を閉鎖し与党だけの寡頭政治をしいた。帝政派が多い海軍ではこれに不満を強める。議会選挙を要求する文書が大統領に提出されたが、大統領はその署名者を逮捕することで応えた。9月、艦隊は蜂起して首都リオデジャネイロを封鎖した。海軍艦艇の多くが反乱側に掌握された。リアチュエロはフランスで整備中で反乱に参加しなかったが、アキダバンは反乱軍の主力となって政府軍と戦った。
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政府は残存艦艇、海外から急遽購入した船舶などで急きょ政府軍艦隊を編成し、退役していた提督を指揮官に任命して反乱軍に対抗した。セテ・デ・セテンブロは政府軍に撃沈され、アキダバンは損傷した。政府艦隊と陸軍によって翌年3月には反乱はほぼ鎮圧される。
反乱鎮圧後にブラジル海軍は海防戦艦をフランスに発注した。23cmアームストロング砲を搭載した戦艦は低速だが強力だった。2隻が建造されそれぞれデオドロ Deodoro、フロリアノ Floriano と命名されて1900年に就役した。
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アルゼンチン
アルゼンチンでは独立以来、各州の自治を重んじる連邦派と中央集権をめざす集権派の対立が激しく、断続的な内戦状態にあった。パラグアイとの戦争を戦っているあいだは内戦は休戦状態にあったが、そもそも海軍の建設に腰を据えて取り組めるような状況ではなく、首都ブエノスアイレスは西半球有数の貿易港でありながらアルゼンチン海軍はなきに等しい状態だった。
パラグアイ戦争後の1870年代に入ってようやく海軍の必要性が認められたのか2隻の沿岸モニターがイギリスに発注された。エル・プラタ ARA El Plata、ロス・アンデス ARA Los Andes と命名され、1874年から翌年にかけて完成した。
1880年に首都ブエノスアイレス市がブエノスアイレス州から分離されて連邦政府直轄となることでアルゼンチンの政情はようやく安定した。1878年にはこれまで沿岸警備を主な任務としていた海軍を航洋海軍に脱皮させるべく、イギリスに当時としては最新設計で世界初となる鋼製船体をもつ装甲艦を発注した。エル・プラタ級モニターの3倍近いサイズのアルミランテ・ブラウン ARA Almirante Brown は1880年の完成当時、南米で最大最強の軍艦だった。この艦の登場はブラジルとチリが新たに軍艦を計画するという反応をもたらした。
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アルゼンチンもさらに対抗する。アルミランテ・ブラウンの半分のサイズの海防戦艦をやはりイギリスに発注する。1892年に完成しインデペンデンシア ARA Independencia、リベルタド ARA Libertad と命名された。
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特にチリとの建艦競争は1902年にイギリスの仲介で妥協が成立するまで続く。その妥協も弩級艦時代に入るとたちまち破れて新たな建艦競争が始まる。
おわりに
19世紀後半の発明である装甲艦は考えられているよりも多くの国に普及していました。20世紀に入ると戦艦を保有できた国はほんの一握りになりましたが、装甲艦を保有したことのある国は20くらいにはなると思います。
こうした中規模海軍では当時どのような構想のもとで装甲艦を求めたのか、その背景の一端を窺うことができればよいなと思います。
参考文献は毎度の Conway’s なので割愛します。
画像はウィキペディアより引用しました。
ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。
(カバー画像はウマイタ突破を描いた水彩画)