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勘違いで授かった男爵 Baron Percy

 以下の記事が予想外に評判がよかったので調子に乗っています。

 何か記事にできるようなネタはないかと考えて思いついたのが、style の記事で例としてあげたノーサンバランド伯爵(公爵)家で1722年に起きたちょっとした事件でした。「貴族制度のあれやこれ」を先にお読みいただいたほうが理解しやすいと思います。style の記事の内容は必須ではありません。


ノーサンバランド伯パーシー家

 英国中部、ノーサンバランド地方はアングロサクソン七王国時代には独立の王国を形成していました。やがてイングランドに併合されますが、当時はまだ他国だったスコットランドの国境に面する要地でした。1066年、ウィリアム征服王がイングランド国王に即位したあと、この国境地帯に配置されたのがノルマンディーから移ってきたといわれるパーシー家 House of Percy でした。イギリス屈指の名門と言えるでしょう。12世紀半ばに男系の子孫が断絶したあと、欧州大陸フランドル地方のブラバント公の末子を婿養子にとって家を継がせました。
 1299年エドワード1世の時代、ヘンリー・パーシー Henry de Percy, 1st Lord Percy にパーシー男爵 Baron Percy (1299) が授けられ正式に貴族とされます。さらに1377年、第4代男爵ヘンリー Henry de Percy, 1st Earl of Northumberland がノーサンバランド伯爵 Earl of Northumberland (1377) を授けられ名実ともに有力諸侯の仲間入りをしました。当時はフランスとの百年戦争のさなかで国王もしばしば大陸に渡りましたがその背後を守る役目を任されていたのです。
 しかしリチャード2世が若くして国王に即位するとイングランド国内は不安定となります。叔父たちによる主導権争いはリチャード2世の廃位にまで発展し、のちの薔薇戦争につながる対立構造が作られました。初代ノーサンバランド伯爵ヘンリーの嫡子であるヘンリー・パーシー Henry Percy, Lord Percy は「ホットスパー Hotspur」の異名で知られる勇将でスコットランドやウェールズとの戦闘でしばしば偉功をたてましたが国王ヘンリー4世に叛逆をくわだて戦死、叔父であるウスター伯トマス Thomas Percy, 1st Earl of Worcester は捕らえられて処刑されます。ノーサンバランド伯ヘンリーはいったんは許されますが結局は国王に叛逆して爵位を剥奪され、ついには戦死します。
 爵位を失ったパーシー家を継いだのはホットスパーの遺児ヘンリー Henry Percy, 1st Earl of Northumberland でした。代替わりがあって国王がヘンリー5世にかわると復権運動を展開して成功し、1415年頃ノーサンバランド伯爵とパーシー男爵が復活しました。復活初代伯爵の生涯はちょうど百年戦争の後半にあたり、1453年に最終的にイングランドの敗北で戦争が終わると矛盾が一気に噴出して内戦(「薔薇戦争」で知られる)が始まります。伯爵はこの戦争の最初の戦いであるセントオールバンズの戦いにランカスター側で参戦して戦死しました。嫡子のヘンリー Henry Percy, 2nd Earl of Northumberland が跡を継ぎ、ひきつづきランカスター側で戦いましたが1461年タウトンで決定的な敗北をこうむり伯爵は戦死、ランカスター家は王位を失いました。跡を継いだ第3代伯爵ヘンリー Henry Percy, 3rd Earl of Northumberland はまだ若く、以後積極的に参戦することはありませんでした。ヨーク王家の下で息を潜めていたのでしょう。いったん剥奪された爵位は1473年復活します。ヘンリー・チューダー(のちのヘンリー7世)が挙兵すると伯爵は関ヶ原の戦いでの小早川秀秋のようにリチャード3世側で参戦しておきながらボズワースでの決戦で傍観を決め込み国王を見殺しにしました。戦後一時拘束されましたが赦免され、ようやく平和を満喫できるかと思ったのもつかのま、新国王ヘンリー7世による課税に反対する暴動に巻き込まれて命を落とします。なんとパーシー家の嫡系は5代続けて非業の死を遂げたことになります。
 嫡子ヘンリー Henry Percy, 4th Earl of Northumberland が跡を継ぎました。第4代伯爵はパーシー本家当主として実に160年ぶりにベッドで息をひきとった人物となりました(1527年)。第5代伯爵ヘンリー Henry Percy, 5th Earl of Northumberland はヘンリー8世の恐怖政治をどうにか生き抜き、やはりベッドで亡くなることができましたが、伯爵には男子がなく弟トマス Thomas Percy がその跡を継ぐはずでした。ところがこのトマスがヘンリー8世の宗教改革に反対するピルグリム反乱に加担し、伯爵に先立って処刑されてしまいます。トマスには男子がありましたが彼らの継承権も否定され、ノーサンバランド伯爵とパーシー男爵は断絶 extinct しました(1537年)。

復活ノーサンバランド伯パーシー家

 断絶からちょうど20年経った1557年、パーシー家が失った爵位であるノーサンバランド伯爵 Earl of Northumberland (1557) とパーシー男爵 Baron Percy (1557) は処刑されたトマスの嫡子トマス Thomas Percy, 1st Earl of Northumberland に改めて授けられました。時代はメアリ女王の治世となっており、スペイン王女を母に持ちスペイン国王と結婚したメアリはガチガチのカソリックで、ヘンリー8世の宗教改革に異議をとなえたトマスに好感をもっていたのかもしれません。ところが翌年にメアリが亡くなりエリザベスが即位するとパーシー家の立場はたちまち怪しくなります。1572年、パーシー家の伝統を守ったかのように、伯爵は陰謀を企んだという嫌疑で処刑されてしまいました。復活したノーサンバランド伯爵とパーシー男爵の免許状には「初代に男子がない場合は弟が継承する」という例外規定 special remainder があり、弟ヘンリー Henry Percy, 2nd Earl of Northumberland があとを継ぎましたがやはり反乱の噂は絶えず、拘束されて取調べを受けていた1585年のある朝、伯爵は死体となって発見されました。自殺とされましたが他殺説も根強くあります。嫡子ヘンリー Henry Percy, 3rd Earl of Northumberland が跡を継ぎ第3代伯爵となりました。チューダー朝が絶えてスチュワート朝に移り、さらにカソリックびいきのチャールズ2世が即位するとパーシー家はむしろ優遇されるようになります。そのひとつの現れが1628年の国王布告で、1557年に授与された伯爵と男爵をそれぞれ1377年と1299年に創設されたものとみなす、というものでした。ただしこれはいったん断絶した爵位が復活したわけではなく、あくまで席次 order of precedence を上げただけで1557年の免許状がひきつづき有効となります。
 跡をついだ第4代伯爵アルジャーノン Algernon Percy, 4th Earl of Northumberland は内戦(いわゆる清教徒革命)で議会軍に加わり国王軍と戦いました。1660年に王政が復活したあとは目立たないように過ごし1668年に亡くなります。嫡子で第5代伯爵となったジョスリン Joceline Percy, 5th Earl of Northumberland には男子ヘンリーがありましたが父に先立って亡くなり、跡継ぎがなくなったノーサンバランド伯爵とパーシー男爵は、第5代伯爵の死去とともに断絶となりました(1670年)。

ノーサンバランド伯爵家の略系図 (下線を附したのはは女性)

シーモア家パーシー男爵の「創設」

 第5代伯爵ジョスリンには娘エリザベスがありました。爵位は継承できませんが財産は相続することができます。さぞ引く手あまただったことでしょう。1679年にニューカッスル公の嫡男であるオグル伯爵ヘンリー Henry Cavendish, Earl of Ogle と結婚します。ヘンリーは姓を Percy とあらため、ノーサンバランド伯を継承する意思を示しますが結婚の翌年に亡くなってしまいました。1681年にはバス侯爵家(当時はウェイマス子爵)の出身であるトマス Thomas Thynne と結婚するも花婿は3ヵ月で殺害されてしまい、一大スキャンダルになりました。結局三度目の正直で1682年にサマセット公爵チャールズ・シーモア Charles Seymour, 6th Duke of Somerset と結婚します。エリザベスとチャールズの間には嫡子アルジャーノン Algernon Seymour, 7th Duke of Somerset が生まれました。
 エリザベスは1722年に亡くなりましたが、それからまもなく公爵家の嫡子であるアルジャーノンに奇妙な書簡が届きました。それは「パーシー男爵として貴族院に出席せよ」という召喚状でした。「パーシー男爵」とはどういうことでしょう? パーシー男爵という爵位は、ノーサンバランド伯爵とともに1670年に断絶しました。女子であるエリザベスには爵位を継承する権利はなく、従ってその子であるアルジャーノンに継承されるはずがないものでした。ここで思い起こされるのは1628年の国王布告です。「パーシー男爵は1299年に創設されたものとみなす」。1299年に創設された男爵は召喚状 writ of summons によるもので女子の継承権を認めています。とするならば、第5代伯爵ジョスリンからエリザベスに相続され、さらにエリザベスからアルジャーノンに相続されたと考えることもできるでしょう。しかし1628年の布告はあくまでも席次を決めるためのもので、1299年に創設された爵位が復活したわけではありません。パーシー男爵 (1299) は1537年にいったん断絶し、その20年後にまったく新規のパーシー男爵 (1557) として創設されたのです。そしてパーシー男爵 (1557) は女子への継承は認めておらず、1670年に断絶してこの時点では保有している者はいないはずでした。つまりこの召喚状は議会の事務をとる誰かが勘違いして出されたものでした。コンピューターのない当時、このような誤りはときどき起こりました。また当時の国王はドイツからきて間もなく英語を解しないジョージ1世で英国の事情に通じていなかったということはあったでしょう。
 しかし国王の名で一度出された召喚状はもはや取り消すことができません。東洋には「綸言汗のごとし」という言葉がありますがイギリスでも事情は同じだったのです。事情はともあれ、召喚状 writ of summons によって議会に招集し、これをもって貴族に列するというのは古来からの伝統にかなっており文句のつけようがありません。そのような事例は長く絶えていましたが。かくしていったん断絶したはずの爵位が「錯誤によって創設 creation by error」され、アルジャーノンがパーシー男爵 Baron Percy (1722) を授与されることになりました。アルジャーノンはパーシ-男爵として、サマセット公爵である父チャールズとともに貴族院に議席をもつことになりました。

 サマセット公チャールズは、もともとパーシー家の資産を相続することを目当てにしてエリザベスと結婚したものでした。男系の後継者が断絶したあと、女系の子孫や縁故者に対して改めて爵位が創設されるということはよくあり、財産のみならず爵位の新設もあわよくばと考えていたでしょう。しかし勘違いによる想定外のこととはいえ、パーシー男爵という爵位が息子に転がり込んできたことで、パーシー家の名跡を継承したいという気持ちは高まったのではないでしょうか。しかし現実にはパーシー家どころか従来のサマセット公爵を継承していけるかどうかも怪しい状況でした。チャールズの家系はもともとサマセット公本家の分家筋にあたる男爵の家系で、本家の断絶にともないチャールズの兄フランシス Francis Seymour, 5th Duke of Somerset が男爵から第5代として公爵を相続し、さらにそれをチャールズが引き継いだものでした。エリザベスとのあいだに嫡子アルジャーノンがあったものの、アルジャーノンの唯一の男子であるジョージは1744年に20歳ほどで亡くなってしまいます。残されたのはアルジャーノンの娘で亡き妻と同じ名前のエリザベス Elizabeth Seymour だけでした。自分とアルジャーノンのあと、サマセット公爵の爵位と財産がシーモア家の別の家系に移ることはもはや避けられません。しかし妻エリザベスから引き継いだパーシー家の資産とノーサンバランド伯爵の名跡だけでも娘とその子孫に残したいと考えたのでしょう。

 アルジャーノンの娘エリザベスは1740年、ヨーク出身の准男爵ヒュー・スミソン Hugh Smithson と結婚していました。チャールズとアルジャーノンはこの婿に期待を寄せます。スミソン家は1660年、王政復古の年に准男爵を授与されたということですがその祖先はつまびらかではなく、パーシー家と比べるとまったくの新興勢力です。第4代の准男爵を継いでいたヒューは、オックスフォード大学を出てロイアルソサイエティの会員だったということで頭が切れたことは確かでしょう。1748年にチャールズから公爵位を継承し、サマセット公爵とパーシー男爵をともに保有するようになったアルジャーノンは、自ら1749年にノーサンバランド伯爵 Earl of Northumberland (1749) を創設し、その継承の例外規定に娘婿であるヒューへの継承を書き込ませたのでした(公爵の働きかけで行わせたということで、形式上の創設者は国王ジョージ2世になります)。
 その翌1750年にアルジャーノンが亡くなるとサマセット公爵の爵位は初代公爵の子であるエドワードの子孫、第6代准男爵エドワード Edward Seymour, 8th Duke of Somerset が継承して第8代公爵となりました。サマセット公爵の免許状にはかなり珍しい例外規定があり、初代公爵エドワード Edward Seymour, 1st Duke of Somerset の二番目の妻の子息に継承の優先権がありました。最初の妻の子息がそれに次ぎ、それ以外の妻(実際には存在しませんでした)の子息がさらにそれに次ぐ、というものでした。アルジャーノンの死で二番目の妻の子孫は絶え、公爵位は最初の妻の家系に移って現在に至ります。一方でノーサンバランド伯爵は例外規定に従ってヒューが相続します。この直後、ヒュー・スミソンは正式にパーシーと改姓しました。1766年にはノーサンバランド公爵 Duke of Northumberland (1766) を創設して一代で准男爵から貴族の頂点である公爵にまで上り詰めたのです。錯誤で創設されたパーシー男爵 (1722) はアルジャーノンから娘エリザベスに相続され(召喚状で創設された爵位には女子の継承権がある)、エリザベスは第2代男爵 2nd Baroness となり伯爵と男爵の爵位を夫婦で分け合う形になりましたが、1776年にエリザベスが亡くなるとふたりの嫡男であるヒューがまず男爵を相続します。ついで1786年に初代公爵が亡くなると、公爵位と伯爵位などを相続してパーシー男爵は従属称号となり、第2代公爵 Hugh Percy, 2nd Duke of Northumberland を名乗りました。

初代ノーサンバランド公ヒュー・パーシー
サマセット公爵家の略系図 (第8代まで、下線を附したのは女性)

スミソン系パーシー家パーシー男爵

 第2代公爵(男爵としては第3代)は1812年、パーシー男爵を嫡子ヒューに早期相続させました。ヒューは1817年に第3代公爵 Hugh Percy, 3rd Duke of Northumberland を相続しました。第3代公爵には男子がなく弟アルジャーノンが第4代公爵 Algernon Percy, 4th Duke of Northumberland となりましたがアルジャーノンにもやはり男子がなく、ほかに弟もないため公爵位は従兄弟に移りました(第5代ジョージ George Percy, 5th Duke of Northumberland)。ところが伯爵と異なりパーシー男爵は女子への継承を認めています。ヒューとアルジャーノンの兄弟のあいだにエミリー Emily Percy という娘がおり、第4代アサル公爵の男子でのちのグレンライアン男爵ジェームズ・マレー James Murray, 1st Lord Glenlyon と結婚していました。このふたりの間の嫡男ジョージ George Murray, 6th Duke of Atholl は第6代アサル公爵を継承することになります。パーシー家の第4代ノーサンバランド公爵アルジャーノンが亡くなった1865年には、さらにその子息であるジョン John Murray, 7th Duke of Atholl に代替わりしており、彼が祖母エミリーの権利を通じて第6代のパーシー男爵を継承することになりました。婚姻関係を通じて、パーシー男爵はノーサンバランド公爵の従属称号からアサル公爵の従属称号に移ったのです。
 パーシー男爵の爵位はそれから100年近くアサル公爵家の当主が保持することになります。ところが第7代公爵の子息である第9代公爵(第8代男爵)ジェームズ James Murray, 9th Duke of Atholl には男子がなく、アサル公爵位は第3代公爵の子孫にあたるジョージ George Murray, 10th Duke of Atholl が継承しました。パーシー男爵の爵位は第6代公爵の母から受け継いだものであり、第3代公爵の子孫にはその権利がありません。パーシー男爵の爵位がノーサンバランド公爵家を離れてから1世紀近く、めぐりめぐってパーシー家にパーシー男爵が戻ってきたのは1957年、第10代ノーサンバランド公爵ヒュー Hugh Percy, 10th Duke of Northumberland の時代のことでした。現在は第12代公爵ラルフ Ralph Percy, 12th Duke of Northumberland が第11代男爵を兼ねています。

パーシー男爵家略系図 (カッコは男爵の代数、そのあとの期間は在位。下線は女性)

おわりに

 一年あまり前、「あれやこれ」を書いた直後に X でみかけたパーシー家に関する投稿に触発されて調べ始めたときに知って「こんなことがあるんだ」と思った事件でした。英語版 Wikipedia には「錯誤で創設された男爵 Baronies created by error」という独立した項目が立てられていて、そこにはパーシー男爵を含めて4件の実例が紹介されています。
 今回の記事はそのとき書きかけのままお蔵入りになっていたものを大幅に再構成したものになります。もとの記事と今回の記事は切り口が違うのでもとの記事をどうしようか悩んでいるところです。

 参照文献などは前回と同じなので割愛します。画像は Wikipedia から引用しました。系図は自作です。見づらくて申し訳ありません。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像はノーサンバーランド公爵の居城アルンウイック城 Alnwick castle)

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