海軍大臣伝 (9)村上格一
歴代の海軍大臣について書いています。今回は村上格一です。
前回の記事は以下になります。
日露戦争まで
村上格一は文久2(1862)年11月1日、佐賀藩士の家系に生まれた。数え19歳で海軍兵学校に入校し、明治16(1883)年12月22日に海軍少尉補を命じられる。海兵11期生26名中2位の成績だった。明治19(1886)年9月1日に海軍少尉に任官する。
初級士官としての村上は水雷畑を歩いたらしい。コルベット大和分隊士、水雷術練習艦迅鯨乗組、コルベット天龍分隊士、巡洋艦高千穂分隊士を経て、江田島に移った海軍兵学校の水雷術教官をつとめる。教官時代の明治22(1889)年8月28日に海軍大尉に昇進した。明治23(1890)年末から常備艦隊司令長官伝令使(のちの副官)を2年ほどつとめたのち、水雷術練習艦迅鯨の教官に補せられる。
明治26(1893)年、イギリスで建造された防護巡洋艦吉野を受領するために渡英する。水雷長として吉野を日本まで回航して帰国したのは明治27(1894)年3月のことだった。この年の夏に日清戦争がはじまる。最新鋭の吉野は聯合艦隊の第一遊撃隊に編入され、黄海海戦ではその高速と速射砲が大いに活躍した。村上が指揮する水雷は戦果をあげられなかったが、村上の責任ではあるまい。戦後、海軍大臣秘書官として西郷従道海軍大臣に仕えた。
明治30(1897)年、優秀な中堅将校を欧米に留学させることになり、フランス留学に村上が選ばれた。この頃には日本海軍でのフランスの影響力はかなり低下していたが、それでも日本に比べれば相当有力な海軍国であることは間違いなく、留学生に選ばれた村上が期待されていたことは確かである。留学中の明治30(1897)年12月1日に海軍少佐、明治31(1898)年10月1日に海軍中佐に昇進した。少佐から中佐まで1年も経っていないのは異例だが、明治19(1886)年から30(1897)年まで日本海軍では中尉と中佐の階級が廃止されていたため、復活直後のこの時期に調整の意味でこうした処置がとられていたのだろう。
明治33(1900)年に帰国し常備艦隊参謀、横須賀鎮守府副官、戦艦鎮遠副長ののち明治36(1903)年7月7日に巡洋艦千代田艦長に補せられ、9月26日には海軍大佐に昇進した。
千代田は巡洋艦としてすでに時代遅れだった。日露戦争を控えた明治36(1903)年末の艦隊編制では千代田は朝鮮海峡の警戒に任じる第三艦隊に編入され、聯合艦隊からは外れていた。しかし千代田は開戦直前の朝鮮仁川港でロシア艦を含む外国艦に交じって碇泊しており、日本海軍が予定していた開戦時期を欺瞞する重要な役割を担っていた。前日まで仁川港内で何食わぬ顔で外国艦とやり取りしていた千代田はその夜ひそかに仁川港を抜け出し、外洋で待機していた聯合艦隊と合流して陸軍部隊の上陸を護衛したのちに、仁川港内のロシア艦に出港を促した。ロシア艦はこの挑戦を受けて立ち、仁川港外で合戦に及んだが衆寡敵せず破れた。この戦闘が日露戦争のはじまりとなる。
明治38(1905)年1月には装甲巡洋艦吾妻艦長に転じた。吾妻は村上が留学していた時期にフランスで建造された巡洋艦である。日本海海戦で吾妻は第二艦隊の主力として戦列を組んで戦った。
海軍省外局めぐり
日露戦争ののち、海軍教育本部第一部長を経て明治39(1906)年4月7日に海軍省先任副官として斎藤実海軍大臣に仕えた。明治41(1908)年8月28日に海軍少将に昇進し、海軍教育本部第一部長兼第二部長に補せられる。海軍教育本部は海軍省の外局で教育全般の統一にあたったが、将校(当時の将校は兵科士官を意味する)教育を担当する第一部と、術科教育を担当する第二部の部長を兼ねた村上が兵科関連教育を一手に握った(残る第三部は機関官教育を担当)。
初級士官時代は水雷術に没頭した村上だったが、この頃には教育全般に関心を強めたらしい。また技術にも関心が強く、明治42(1909)年7月29日には兵器研究を担当する海軍艦政本部第一部長を兼ね、12月1日には海軍艦政本部第一部長専任となる。教育と技術の重要性は海軍でも認識はされていたものの、海軍省や軍令部といった政策決定・作戦計画に比べると裏方の縁の下の力持ちであり、出世には結びづらかった。村上はその地位向上をめざした。
艦政本部第一部長として村上は新規にイギリスに発注される巡洋戦艦(のちの金剛)について14インチ砲の採用を主張し、安全策をとって既存の12インチ砲の踏襲を主張する意見を押し切った。ちょうどその頃イギリス海軍では12インチを超える大口径砲の採用をはじめており、村上が世界の趨勢を正しく認識していたことがわかる。大正元(1912)年12月1日には海軍中将に昇進して呉海軍工廠長に移った。各軍港に置かれた海軍工廠の中でも呉工廠はもっとも規模が大きくここにしかない機能も多かった。
大正3(1914)年はじめ、海軍を揺さぶる疑獄事件であるジーメンス・ヴィッカーズ事件が発覚する。特にヴィッカーズ社で建造された巡洋戦艦金剛についてリベートを得ていたことが判明すると、艦政本部第一部長として金剛の計画に深く関与していた村上も疑われ待命となるが、まもなくその疑いは晴れかえって刷新人事の一貫として5月23日に海軍艦政本部長に補されて改革に乗り出すことになる。翌大正4(1915)年10月1日に海軍技術本部に改編されたのを見届けて12月13日、中国方面の警備を担当する第三艦隊司令長官に転出する。
大正6(1917)年4月6日、東京に戻って海軍教育本部長に就任する。親補職である艦隊司令長官からは格下げになるが村上にとっては本懐だっただろう。大正7(1918)年7月2日に海軍大将に昇進したが教育本部長にとどまった。大将での教育本部長は異例である。村上は教育行政のすべてを海軍教育本部のもとに統一する、陸軍の教育総監部に相当する組織をめざしていたらしい。海軍省が管轄していた学校を教育本部の管轄に移すなど一部は達成できたが理想には遠い形で大正8(1919)年12月1日、呉鎮守府司令長官に転じた。大正後期の軍縮の中で大正12(1923)年4月1日、海軍教育本部は廃止されて海軍省の内局である教育局となった。
海軍大臣
大正11(1922)年7月27日に村上は呉から帰京し、実任務を持たない軍事参議官に移った。60を超えてそろそろ海軍軍人としての経歴も終わりが見えてきた頃に、唐突に海軍大臣が回ってきた。教育本部や艦政本部といった外局での勤務経験は豊富だが、大佐時代の副官を最後に本省勤務がない村上にとっては青天の霹靂だった。
大正13(1924)年1月7日に虎ノ門事件の責任を負って総辞職した山本権兵衛内閣を継いで成立した清浦奎吾内閣の海軍大臣に親任された。山本内閣の財部彪海軍大臣が留任せず、後任に村上が挙げられた理由はよくわからない。まず財部が留任しなかったのは山本の娘婿という関係の近さが総辞職に連座する形での退任を余儀なくされたのではないか。新首相の清浦が前首相である山本の勢力が閣内に残ることを嫌ったということも考えられる。ではなぜ村上が選ばれたのか。海軍次官経験者としては栃内曽次郎や井出謙治がいたがいずれも当時すでに予備役編入を前提として待命または海軍将官会議議員であった。こうした地位から海軍大臣に移った前例はない。しかしこれも建前で、実際には加藤友三郎や財部彪の息がかかった彼らを嫌ったのだろう。外局勤務が長く海軍省とは無縁ではなく、しかし本省中央とのしがらみが少ない軍事参議官の村上が選ばれた。
しかしこうした人選がどういう結果を生んだのか、確認するだけの時間は与えられなかった。大正デモクラシー真っ盛りのこの時期に、華族と官僚からなる貴族院に基礎をもつ清浦内閣は民意を反映しない非立憲内閣だとして世論の総攻撃を受け、わずか5ヶ月で退陣に追い込まれた。後継内閣は衆議院で圧倒的多数を占める政党の連立政権となり、6月10日に加藤高明内閣が成立した。清浦内閣を否定して成立した加藤内閣には村上が留任する余地はなく、前大臣の財部が返り咲いた。村上が閣議に提出した海軍予算案は加藤内閣のもとで議会を通過し承認された。
村上は軍事参議官に戻ったが半年後の12月10日に待命となり、12月16日に予備役に編入されて現役を離れた。65歳の昭和2(1927)年11月1日に後備役に編入される。その直後、11月15日に村上格一は死去した。満65歳。海軍大将従二位勲一等功三級。
おわりに
村上格一は海軍大臣としては在任期間が歴代で二番目に短く、例外的な野村直邦を除けば実質的に最短であり実績にも乏しく影が薄いのですが、それ自体は村上本人の責任ではないでしょう。本人も海軍大臣になれるとも向いているとも考えていなかったはずです。
影が薄いだけあってエピソードにも乏しく苦労したのですが意外に分量が増えてしまいました。おかしいなあ。
次回は岡田啓介です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は日露戦争中に艦長をつとめた巡洋艦千代田)