海軍大臣伝 (12)大角岑生
歴代の海軍大臣について書いています。今回は大角岑生です。
前回の記事は以下になります。
佐官まで
大角岑生は明治9(1876)年5月1日、いまの愛知県稲沢市に生まれた。初名は親一。家は農業だが、愛知一中に進学できたので貧しくはなかったようだ。功玉社を経て広島県江田島の海軍兵学校に入校したのは明治26(1893)年のことだった。在校中に日清戦争があったが生徒には直接関係がなかった。明治30(1897)年10月8日卒業して海軍少尉候補生を命じられた。第24期生18名中3位の卒業成績だった。大角たち候補生はコルベット比叡に乗り組む。比叡は当時、候補生の遠洋航海にしばしばであてられていたがこの年はひと月ほどで乗艦を巡洋艦厳島、さらに戦艦八島に変えており、遠洋航海に出ているようには思えない。
明治31(1898)年4月1日、海軍少尉に任官。巡洋艦千代田乗組を経て、装甲巡洋艦吾妻の受領のためフランスに出張を命じられる。渡仏中の明治32(1899)年9月29日に海軍中尉に昇進した。明治33(1900)年10月に帰国、翌年にはコルベット天龍分隊長、横須賀海兵団分隊長をつとめて明治34(1901)年10月1日に海軍大尉に昇進する。装甲巡洋艦浅間分隊長ののち明治35(1902)年1月24日、防護巡洋艦済遠航海長に補せられる。
日露戦争がはじまると済遠は第三艦隊に編入された。三度にわたって旅順港閉塞作戦が実施されるが、大角は第三次作戦でその1隻である釜山丸の指揮官に選ばれ、5月2日の夜旅順にむかったが機関が故障し突入を断念した。直後の8日、松島航海長に移る。松島も第三艦隊に所属していた。明治38(1905)年3月、もとロシア商船マンチュリアで開戦時長崎で捕獲され仮装巡洋艦として哨戒にあたっていた満州丸の航海長となる。
日露戦争がひと段落すると短期間海軍兵学校の航海術教官をつとめたのちに海軍大学校甲種学生(第5期生)を命じられた。在校中の明治39(1908)年9月28日に海軍少佐に昇進。学生課程を終えると海軍省軍務局局員を経てドイツに派遣される。その間の明治44(1911)年12月1日に海軍中佐に昇進した。帰国すると軍事参議官副官に補せられて東郷平八郎大将に仕えた。大正2(1913)年4月21日に東郷大将に元帥の称号が授けられ大角の職名が元帥副官にかわった。しかしその直後に巡洋戦艦筑波副長に転出する。
ジーメンス事件で海軍省首脳部の顔ぶれが一変すると、大角も海軍省軍務局局員として本省で勤務することになり、年末に海軍省副官兼海軍大臣秘書官に補せられる。直接の上司になる海軍大臣は八代六郎だったが、翌年には加藤友三郎にかわった。大正4(1915)年12月13日には海軍大佐に昇進し、同時に大臣秘書官の兼務をやめて先任副官となった。
大正7(1918)年12月1日から戦艦朝日艦長を1年つとめたのち、在フランス大使館駐在武官としてパリに赴いた。ちょうどパリ郊外のヴェルサイユで第一次世界大戦の講和会議が開かれており、大角も日本全権の随員をつとめた。大正9(1920)年12月には在仏のまま海軍少将に昇進し、翌年には欧州を歴訪する皇太子(のち昭和天皇)を出迎えたが、大角自身も帰朝を命じられて皇太子よりも一足早く帰国する。
海軍次官
帰国した大角はしばらく軍令部出仕、ついで横須賀鎮守府附としばらく待機状態に置かれたが、大正11(1922)年5月1日海軍省軍務局長に補せられて海軍行政の中心に座を占めた。大正12(1923)年度末12月1日には第三戦隊司令官として艦隊に出たが(第一艦隊所属、巡洋艦多摩、五十鈴、夕張)、1年後の定期人事で海軍中将に昇進して軍令部出仕としてまたも待機する(大正13(1924)年12月1日付)。
大正14(1925)年4月15日、安保清種にかわって海軍次官に任じられる。ときの海軍大臣は財部彪、まもなく村上格一にかわるが短期間で財部が復帰し、昭和2(1927)年には政変で岡田啓介にかわった。大角は3年あまり次官にとどまり、3人の海軍大臣に仕えた。
大角が軍務局長または次官として海軍省で勤務した時期はワシントン軍縮条約による制約の中でいかに海軍力を高めるかが主要課題で、その結果として条約型重巡洋艦、特型駆逐艦、大型潜水艦、航空母艦や航空隊の整備がはかられた。こうした努力がやがてロンドン軍縮会議につながる。
昭和3(1928)年12月10日、定期人事異動で次官を山梨勝之進艦政本部長に譲った。昭和4年度は第二艦隊司令長官をつとめることになる。上司にあたる聯合艦隊司令長官は谷口尚真大将だった。しかし今度の艦隊勤務も1年で終わる。昭和4(1929)年11月11日に横須賀鎮守府司令長官に親補され、さらに昭和6(1931)年4月1日に海軍大将に昇進する。東京にほどちかい横須賀からロンドン条約による混乱、満州事変の勃発を眺めながら2年を過ごし、昭和6(1931)年12月1日の定期異動で横須賀鎮守府司令長官を退いて軍事参議官に移った。
海軍大臣
ところがその直後、民政党の若槻礼次郎内閣が総辞職し、政友会の犬養毅が新内閣を組織する見込みになった。安保海軍大臣は留任できず、後任として大角に白羽の矢が立った。横須賀をちょうどやめたところで空いており、軍務局長や次官をつとめて海軍省の職務に詳しい。なによりロンドン条約で海軍がまっぷたつに割れていた時期、大角は横須賀にいてどちらにもつかなかった。そのどっちつかずの態度がある意味評価されて、昭和6(1931)年12月13日に発足した犬養内閣で大角は海軍大臣として入閣した。
しかしどっちつかずであるということは強い方に簡単になびくということでもある。ロンドン軍縮問題で海軍軍令部長の加藤寛治が辞職したあと、後任となったのは谷口尚真大将だった。谷口は米英との協調を重視するべきという立場で軍縮には肯定的であった。しかし軍縮反対派にとって谷口は、反対派の首領だった加藤を軍令部から引きずりおろして後釜に座った人物ということもあり、谷口は彼らの攻撃の矢面に立たされた。生真面目な谷口はかなり苦しんだらしい。反対派をなだめるという意図もあって谷口の更迭がはかられた。昭和7(1932)年2月2日、海軍軍令部長の交代が発令された。後任となったのは皇族の伏見宮博恭王大将だった(5月27日元帥)。前年の12月23日に陸軍が閑院宮載仁親王元帥を参謀総長に据えており、それに対抗したものだった。海軍では皇族を責任ある地位につけないという不文律があったといわれるが、それが破られた。海軍軍令部長は統帥権の行使について天皇を輔弼してその責任を負う役割だが、それが皇族となれば誰が責任を負うのか、ということになる。責任を問われることのない皇族が責任を負わされるという無責任体制ができあがった。当時から批判はあったが大角にとっては陸軍との釣り合いがとれなくなることの方が問題だったのだろう。
昭和7(1932)年に入ると満州事変は上海に飛び火する。満州事変には冷淡な態度をとっていた海軍だが、重要な港湾都市で列国の軍艦が拠点としていた上海で衝突が起きると俄然本腰を入れた。第三艦隊を臨時編成して派遣するとともに陸軍にも派兵を求めた。国際都市上海で戦闘が激しくなることを懸念した昭和天皇は早期停戦を求め、3月に入って停戦が実現した。上海事変は満州から列国の関心をそらすための陸軍の謀略だったという。
それからまもない昭和7(1932)年5月15日に首相官邸が襲撃されて犬養首相が落命する。首相を襲ったのは軍縮条約に不満をもった海軍の若手将校だった。「統帥権干犯だ」として民政党内閣を攻撃する口火を切ったのは当時野党だった政友会の鳩山一郎と犬養毅だった。その犬養が殺害されたのは理不尽だが、犯人の若手将校が憎悪したのは民政党という特定の政党ではなく、既存の政党すべてだった。政友会が統帥権を政争の具にしたことは結局政党内閣を葬り去ることになる。
現職の首相を現役海軍将校が襲撃して殺害するという一大不祥事を引き起こしたとあっては大角が留任することは問題外だった。就任5ヶ月で退任を余儀なくされたが、後任の推薦権は大角にあった。大角が推したのが岡田啓介である。海軍大臣経験者のうち財部は失脚、安保は辞任からまもなく推しにくいとあれば岡田というのは無難に思えるが、そこには大角の思惑があったといわれる。実は岡田は翌年早々に現役定限年齢である満65歳を控えていて、海軍大臣に復帰したとしても短期間で退任することが想定された。その後に自分が返り咲こうという魂胆だったといわれる。一方で後輩である小林躋造などに譲るつもりもなかった。代替わりしてしまえば自分に海軍大臣の椅子が戻ってくることはまずないからである。この後の実際の成り行きはそうした流れをたどり、半年あまりのちの昭和8(1933)年1月9日に大角は海軍大臣に復帰した。
大角が斎藤内閣に加わる前、斎藤内閣は満州国を承認した。しかし国際連盟は満州国を独立国と認めず、日本軍の撤退を要求する。大角が復帰した直後の大きな課題はこの対応である。結局日本は国際連盟を脱退した。海軍ではすでに昭和6(1931)年度から補充計画を進めていたが、国際連盟脱退という新情勢に直面して昭和9(1934)年度から4年度継続の第二次補充計画、通称②計画を策定し、年度末までに議会の承認を得た。昭和9(1934)年7月8日、帝人事件により斎藤内閣は岡田内閣にかわったが、大角は海軍大臣に留任した。新首相の岡田は、大角が海軍大臣にとどまるために出汁にした岡田啓介だった。この年末には軍縮条約からの脱退を通告して昭和12(1937)年から条約の制限がなくなることが確定した。
昭和8(1933)年に海軍を揺さぶったのが軍令部の権限強化問題である。皇族の伏見宮を海軍軍令部長にいただいて、次長の高橋三吉を中心にして兵力量策定の起案と、平時の外地における部隊指揮権を海軍大臣から軍令部に移せと主張した。軍縮条約で兵力の整備は海軍省の職権として押しきられた軍令部の不満の強さがみてとれる。しかし海軍省はこれに抵抗した。平時の部隊指揮権を内閣の制御が効かない軍令部に移すのは危険千万で「戦争の危険が増す」と反対した。抵抗の急先鋒は軍務局第一課長の井上成美大佐で、頑として拒否して聞く耳を持たなかった。業を煮やした軍令部課長の南雲忠一は「お前なんか脇腹をグサッとやればおしまいだ」と脅したが態度を変えなかった。「私の在任中でなければ実現できまい。是非やれ」と自分の皇族としての権威を利用して高橋次長をけしかけた伏見宮は進捗の遅さに苛立ち「非常に遅い。どこで止まっているのか」と叱責し「軍務局の一課がまだ握っております」と聞くと「課長を代えたらいいじゃないか」と言った。伏見宮を背景とする圧力に大角大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長は屈し、寺島局長が「こんな馬鹿な案に同意した責任は局長の自分が負うから承知してくれ」と井上に懇願したが井上は「なら判子を押すような人間を課長にもってくればいいでしょう」といい放ち、結局課長が交代して軍令部の権限強化は実現し、10月1日付で発効して海軍軍令部は軍令部と改称して海軍軍令部長の職名は軍令部総長と改められた。
国際連盟脱退、軍縮条約の失効と国際協調派に逆風が吹くなか、大角海軍大臣は自らが握る人事権を恣意的に行使し始めた。特に昭和9(1934)年前後は、1920年代に国際協調をリードした有為の人材が予備役に編入されて海軍を逐われた。坂野常善や堀悌吉の例がよく知られ、まとめて「大角人事」と呼ばれる。当時から批判はあったが「海軍の人事は大臣が一度腹を決めたらどうにもならん」と言われたように抵抗は難しかった。
昭和10(1935)年12月26日、満州事変の功績により爵位が与えられることになる。事変当時の陸軍大臣荒木貞夫と関東軍司令官本庄繁に男爵が授けられたが、陸軍だけが叙爵に与るのはまずいという意見が出た。釣り合いをとるために海軍からも叙爵者を出すことにしたが、実のところ海軍は満州事変にはほとんど関与していない。上海事変当時の海軍大臣ということで大角岑生に男爵が与えられることになったのだが、陸軍では「海軍さんは自分の手は汚さないけど出された御馳走はきれいに召し上がられます」と揶揄した。
昭和11(1936)年2月26日、陸軍部隊が東京各所を襲った。ニ二六事件である。首相官邸を襲った一団は、義弟で秘書官の松尾伝蔵を岡田首相と誤認して射殺した。岡田首相は女中部屋の押し入れに隠れたが、官邸は反乱軍に占拠されて脱出出来ない。秘書官が官邸に乗り込んで首相の無事を確認すると、大角海軍大臣を訪ねて「首相の遺体を運び出すのに海軍部隊を出動させてほしい」と頼んだが、大角は「とんでもない。そんなことをしたら陸海の戦争になる」と断った。秘書官は意を決し「もし不都合なら今からいうことは聞かなかったことにしてください」と断った上で「実は首相は生きておられます。この目で確かめました。救出のために部隊を出してください」と再度頼むと大角は困惑の体で「きみ、僕はこの話は聞かなかったことにするよ」と返した。秘書官はやむなく弔問客に紛れ込ませる形で岡田首相を助け出すことに成功した。
鎮圧後に岡田内閣は総辞職し、大角は海軍大臣を退任した。3月9日に発足した広田内閣では永野修身が海軍大臣に就任した。
事件後、陸軍では粛軍として大将の大半を予備役に編入した。反乱軍に同情的だった高級将校の影響力を削ぐ、という説明だったが実際には統制派の支配を強化することに繋がった。海軍でも釣り合いをとるために山本英輔、小林躋造、中村良三が予備役に編入された。現役に残ったのは元帥の伏見宮を除くと大角、野村吉三郎、末次信正、永野修身である。大角は大将としては最年長となる。
大角が軍事参議官になって5年近く、昭和16(1941)年には日中事変は泥沼化して解決はほど遠かった。北部仏印進駐はアメリカとの対立を激化した。大角は中国大陸の視察に赴く。
前年、75歳になっていた陸軍の参謀総長閑院宮元帥が杉山元に参謀総長を譲っていた。伏見宮も体力の衰えから辞職の意思を示し始めていた。伏見宮の後継としては大角か永野修身のいずれかしか考えられない。今回の視察旅行は大角が軍令部総長に就任するための地固めだったといわれる。しかし大角には軍令部での勤務経験はほとんどなかった。一方の永野は軍令部次長も経験し、聯合艦隊司令長官もつとめたことがある。さらに大角は現役定限年齢であった満65歳を5月1日に控えていた。現役を続けるには戦時特例で延長するか元帥の称号を得るかのどちらかしかないが現実味のない話だ。結局、伏見宮のあとの総長には永野しかあり得ず、今度の視察旅行は現役を離れる前の最後の花道だったのだろう。
昭和16(1941)年2月5日、広州の飛行場を飛び立った大角の乗機は消息を絶った。捜索の末墜落しているのが発見され、大角岑生や随行の須賀彦次郎少将を含む全員の死亡が確認された。満64歳。海軍大将正二位勲一等功五級男爵。
おわりに
大角については悪評が離れないようですが、本人にはそうした意識はあまりなく流れに逆らわなかっただけなんじゃないかと思います。「釣り合い」という言葉が三度も出てきたのが印象的です。まあ狙ったのですが。
次回は永野修身になります。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は大角が日露戦争開戦時に航海長として乗り組んでいた巡洋艦済遠)