支那方面艦隊司令長官伝 (2)黒井悌次郎
歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は黒井悌次郎です。
総説および前回の記事は以下になります。
陸戦重砲隊指揮官
黒井悌次郎は慶応2(1866)年5月22日に出羽米沢藩士の家に生まれた。山下源太郎と同郷ということになる。東京築地にあった海軍兵学校に志願して海軍将校をめざした。第13期生36名のうち4位の成績で卒業する。首席は伊藤乙次郎だった。明治20(1887)年2月20日に海軍少尉候補生を命じられる。この期から遠洋航海は兵学校卒業後に候補生として実施することになる。黒井らが乗り組んだのは龍驤で、卒業後の2月1日に品川を出航し東南アジアからオーストラリア、ニュージーランドを巡って9月11日に帰国した。巡洋艦高千穂に配属されて明治21(1888)年4月21日に海軍少尉に任官した。分隊士を経て航海士を経験する。さらにイギリスで建造された巡洋艦千代田を受領し日本に回航するためにイギリス出張を命じられた。一期上の有馬良橘と同じ任務ということになる。無事に帰国するとコルベット武蔵の分隊長に転じ、明治24(1891)年12月14日に海軍大尉に進級した(当時は海軍中尉の階級はない)。大尉の2年目には海軍大学校甲号学生を命じられた(第5期生)。ただし当時の海軍大学校では戦術や数学などが主で高級指揮官養成は目的とされておらず、課程も1年間(のちの甲種学生は2年)だった。
甲号学生を修了した黒井は海軍軍令部に配属された。まもなく日清戦争がはじまると大本営で運輸通信部に属し、内地と戦地の連絡通信に任じ、そのために戦地に派遣されて通信設備の設置と維持にあたった。戦争後もしばらく軍令部で勤務したが柴山矢八長官の下で常備艦隊参謀をつとめていた明治30(1897)年12月1日に海軍少佐に進級した。さらに山本権兵衛海軍大臣の秘書官として東京で勤務する。明治32(1899)年9月29日に海軍中佐に進級してイギリス駐在を命じられた。海軍艦政本部に属する造船造兵監督官を兼ねて、まさに完成を見ようとしていた六六艦隊の建造を現地で監督した。最終艦となる戦艦三笠がほぼ完成したのを見届けて帰国し、巡洋艦笠置と戦艦敷島の副長を歴任した。佐世保鎮守府参謀のときに日露戦争が始まった。
開戦から数ヶ月経ち、一連の旅順港閉塞作戦がいぅれも失敗に終わったころ、黒井は仮装巡洋艦香港丸乗り組みという形で戦地に赴いた。海上で正面からロシア艦隊を撃滅することを断念した聯合艦隊は陸上から旅順要塞の攻略をめざす陸軍部隊に期待するしかなかった。せめてということか、海軍からも重砲部隊を派遣して陸戦に協力させるとともに、機会をとらえて港内のロシア艦隊を攻撃させることとした。東郷平八郎長官の命令で編成された陸戦重砲隊の指揮官には黒井が選ばれた。黒井は指揮官附の永野修身中尉以下の将兵と、内地から転用された重砲をともなって上陸し陣地を構築して砲撃をおこなった。陸軍が持たない重砲の効果は大きく、のちに陸軍も要塞砲を転用して投入した。いわゆる203高地を占領して旅順港内のへの観測点が確保されるとロシア艦隊は陸海重砲の砲撃をうけて壊滅した。旅順要塞が開城すると明治38(1905)年1月12日付で海軍大佐に進級するともに新設された旅順工作廠長に補されて、自らが壊滅に追い込んだロシア艦船の引き揚げと修理にあたることになった。
練習艦隊司令官
日露戦争が終結すると黒井は再開した駐ロシア公使館に駐在武官として派遣されることになる(駐在中に公使館は大使館に格上げされた)。当時ロシアは日露戦争の敗戦と戦争中に起こった第一革命のため混乱していた。2年間の任期を終えて帰国するとかつて副長をつとめた敷島の艦長に補せられた。1年あまりの艦長を花道に、明治42(1909)年12月1日に海軍少将に進級した。
少将に進級したあとは重要だが地味な配置が続く。まず佐世保で海軍工廠長、ついで舞鶴で在籍艦船を率いて防備を担当する予備艦隊司令官をつとめた。その中で練習艦隊司令官は比較的目立つ補職といえる。第41期生の候補生が乗り組んだ装甲巡洋艦吾妻、浅間を率いてハワイ、北米方面を訪れた。遠洋航海中の大正3(1914)年5月29日に海軍中将に進級した。帰国して横須賀海軍工廠長に補せられたのとほぼ同じタイミングで第一次世界大戦がはじまった。
戦争中、黒井は前半を馬公要港部の、後半を旅順要港部の司令官として過ごした。いずれも外地の最前線に位置したが戦時中とは言いながら極東は安定しており日々の警戒を繰り返すだけだった。第一次大戦が休戦になった直後に第三艦隊司令長官に親補される。平時編制では第三艦隊は中国沿岸を警備区域に含むとされていたが、革命後のロシアは内乱状態にあり戦時の延長として第三艦隊は極東ロシア領の警戒と、シベリアに出兵していた陸軍の支援にあたった。1年つとめて、今度は内地でロシアと相対する舞鶴鎮守府司令長官に親補された。
翌大正9(1920)年8月16日、第13期生の同期生3人が一斉に海軍大将に親任された。しかし黒井にとってはこれが事実上の海軍でのキャリアの終焉となる。大将進級と同時に海軍将官会議議員に転じ、大正10(1921)年4月1日に待命となり、12月1日に予備役に編入されて現役を離れた。65歳に達した昭和6(1931)年5月22日に後備役に編入されて、昭和11(1936)年5月22日に退役となる。
黒井悌次郎は昭和12(1937)年4月29日に死去した。享年72、満70歳。海軍大将正三位勲一等功三級。
おわりに
黒井悌次郎は日露戦争中の旅順重砲隊指揮官としての活躍がもっとも知られていますが、全体の印象としては地味な部類になるでしょう。「冷遇された」と評する向きもあるようで、同期の栃内曽次郎などと比較すればそう見えるかも知れませんが、実際にはこの程度の経歴の持ち主はざらにいます。むしろ海軍大将になれただけでも充分出世したと言えるでしょう。
次回は野間口兼雄です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は黒井が大尉で分隊長をつとめたコルベット武蔵)
附録(履歴)
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